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アホの横山とカシコの中田(4)

≪(3)中田周と横山健琉、それぞれの選択肢

(4)中田周の未来予想図と横山健琉の告白

「……、は? 何?」
 一瞬、横山の言葉が理解できない。今、なんて?
「だから、…ちゅー。接吻。くちすい」
 大方マンガから得た知識なのだろうが、横山は案外言葉を知っている――よくわからない方面に幅広く、日常に必要かと言われるとそうとも言えない語彙。聞き返したのはそこではない。
「いやそこはわかるから、ていうかその言い方やめろや、なんやねん急に!」
「――を、したことあるかて聞いてんねん」
 アホの根源である好奇心から尋ねているのかと思いきや、その表情はいたって真面目なそれ。周には知る由もない、決意のようなものが滲んでいた。
 いつもつるんでいる仲間内でもあまりしないし、横山と二人ならなおのこと――周がなんとなく避けていて、横山はきっとそれを察して――ほとんど話題にならないジャンルの質問が、まるで一連の話題のとどめのように飛び出してきたものだから、周の動揺はもう隠しきれない。
「あっ、あるわけないやろ、相手もおらんのに!」
「おらんの?」
「おらん!」
 周にそういう相手がいないことは、横山がいちばんわかっているはずなのに――なんでそんなこと聞くねん、お前が、オレに。
 え、と一瞬目を丸くした横山は、ちょっと考え込むように視線を落として、それからぽつりと言った。
「……、イワイさん」
「は? ……、え」
「告られたんちゃうん、一年の終わりに」
 その瞬間思い出す――セーターだけでは肌寒かった、ひんやりとした人気のない廊下。終業式の前日、大掃除が終わった放課後、三棟二階、社会科準備室のかび臭い匂い、去年のクラス委員で一緒だった岩井さん。横山には言っていない。なんで――一瞬でカラカラに乾いて張り付く喉をゴクリと鳴らして、
「……、なんで、知ってんねん」
 そう答える――事実であると認めたも同然の返事。
「ウチのクラスの女子に聞かれた。岩井さんと中田君は、今は付き合ってないけど、大学は同じとこ行くってホンマ、って」
 知らない話だった。
「なんやねんそれ……、てか、なんやねんその顔は」
 自分の知らないところで、事実に反する話が語られている――それだけでももう充分に意味が分からないのに、目の前の横山の表情が、それを一層不可解にする。
 泣きそうな、怒ったような、不貞腐れた顔――そのまま眉間にしわを寄せて、横山が言った。
「何で、教えてくれへんかってん」
「……そんなん、言わんでええやろ別に」
「言えや!」
 横山の声が少し大きくなって、周の声も、それにつられる。
「なんでやねん、てか何怒ってんねん!」
「怒ってない!」
「ほななんやねん!」
 横山のそれが怒りでないのなら、一体何なのか? 自分だって怒っているわけではない。ただ横山の態度が、この状況が、質問の意味が――最初から全部分からなくて、分からないことが不安で、問い質したくて、横山につられて、声が尖る。そう、これは『不安』だ。
 横山はノートの上で両手を祈るように強く握りしめて、
「そういうんは、お前から直接聞きたかった! 他から聞きたくなかった!」
 視線を落として吐き捨てるように言った、その瞬間。周の中の尖ったものが、すとんと落ちた――あかんあかん、落ち着け。
 昔からそうだった。例えば周が何かに腹を立てたり悔しがったり、強い感情を持て余している時、横山はいつでも周の味方でいてくれる。隣で一緒に怒ったり、ちょっと過激なことを言ったりして――ここで二人そろって爆発したら、横山を止める人間がいなくなる、周の中のそういうブレーキが自然に作動して、周は自分の中の苛立ちを、ぱっと手放すことができる。落ち着いて一歩下がって見てみると、そういうのはたいてい、爆発する必要もない、腹を立てるのさえもったいないような些細なことだったりした。
 どんな時でも――それが怒りでも不安でも――周が落ち着いていられるのは、いつだって隣に横山がいたからだ。
 小さく息を吸って、吐いて、周は言った。声を落とし、淡々と諭すように、ただ事実だけを。
「他から、って、……それがわからん、なんで今頃そんな話出てくんねん。アレはすぐ断ったし、」
「すぐ断っ……、え、」
「その、岩井さんとはあの後一度も話してへんし、」
「と、」
「大学とか――そんなん、知らんし」
 周が話すたびに、横山の表情から棘が抜け落ちて行く。最後には両手を解いてノートの上に広げて、ぽかんと口を開けて、
「……そうなん?」
 と、気が抜けたように呟いた。
「うん」
「……すぐ、て、いつ」
「は?」
「すぐ、断った、って、いつ?」
「……、言われた時」
「え、……その、告られて、即?」
「ん」
「何て?」
「……ほなしゃーないね、て」
 放課後、教室に残された担任の私物をクラス委員最後の仕事として担当教科の準備室に運ぶよう言われて、周と岩井さんは段ボールを抱えて二階に下りた。教室のある三階、四階にはまだ生徒が残っていたが、部活で使わない特別教室と教科準備室ばかりが並ぶ二階は、職員会議中のその時、二人きりだった。
 クラス委員として必要な程度の関わりしかなかったと周は思っていたが、彼女の中ではそうではなかったらしい。一年間いろんなことを助けてもらった、一緒に委員になれてよかった、二年のクラスはたぶん離れるから――彼女は英語クラス志望だったはずだ――、今しか機会無いと思って、と岩井さんは言った。
 きっと癖なのだろう、顔の横に真っすぐ伸びた長い髪を、セーターからのぞく指先で触りながら、真っ赤な顔でちょっと俯いて、中田君のことが好き、私と付き合ってほしい、と――思いのほかはっきりとした声で打ち明けた。
 驚きはした――が、その告白自体には焦りも動揺もなかった。その場ですぐに返事をすると、岩井さんは一瞬泣きそうな顔をして、けれどもすぐに、そっか、ほなしゃーないね、と笑った。
「ちゃう」
 と横山が言った。
「何、」
「ちゃうやん、そっちじゃなくて。お前は何て言うて断ってん、て」
「は? ……、え」
 横山の問いかけが、周の胸のあたりに、トスっと音を立てて刺さった。目に見えない矢は、次第に鼓動を急き立てる――それを、聞くんか。今。
「……え、と」
 思わず身を引いて後ろ手をつき、視線を泳がせる。顔が熱い。息が苦しい。まさか、昼休みから言うてた『教えてほしいこと』て、進路のことでもクラスのことでもなくて――ホンマは、このことやったんか? それでようやく気が付く、今日の横山の『質問』の一つひとつが、少しずつまとまって『何か』の形になりかけていることに。
 真っすぐな目で問うてくる、横山に向かって答えられない。
 なぜならあの時、予想もしていなかったクラスメートからの告白を断ろうとして頭に浮かんだのが、他でもなくこの横山健琉のアホ面だったからだ。

 だからあの時、周は岩井さんにこう答えた。
 ――気持ちは嬉しいけど、ごめん。オレ好きな人いる、から。
 

 
 そもそもの話――周は恋愛感情に関する指向として、異性と付き合うようにできていない。
 誰が好きだの嫌いだの、彼氏だの彼女だの、そういう話題が出始める小学校の頃から、周は異性に反応しない自分の体質を自覚していた。だからといって同性に惹かれるかというとそうでもなくて、保健体育か何かの授業で世の中にはそういうタイプの人もいるらしいと知ってからは、おそらく自分はそれなんだろう、と思っていた。
 だから、岩井さんに告白されたときも、返事は『断る』一択だった――どう答えたらええんや、と考えた瞬間、脳裏によぎった横山の顔。その時初めて、周は気付いた。自分が、この向こう見ずな幼馴染に抱いている感情に。
 ――そうか、オレは横山のことが好きなんやな。
 さして驚きもしなかった。子どもの頃からずっと抱えていた感情に、やっと名前がついた、そんな気分だった。異性だとか同性だとかそんな括りではなく、自分はただ、横山が好きだったのだ。
 そしてそれが、秘めなければならない気持であることも、同時に理解していた。

 横山には翼がある。
 たまたま親同士が友達で、近くに住んでいて、学校という小さな世界でずっと同じクラスで、目が離せないという口実で周が手綱を握っているから今はそばにいられる。だけど周が手を離せば、横山はその翼で、簡単に飛んで行ってしまう。
 閃けばすぐに行動に移すことができる好奇心、実行力、やることはアホだが考えなしではない。周はいつも一番近くで、そんな横山を見てきた。心底楽しんで全力でアホをやらかす横山は周にとって、ある意味、夢とか憧れとか希望とか未来とか――そういう、キラキラと光り輝く宝物のような存在だった。その翼で羽ばたくことを知れば、もっと広い世界を知れば――横山は、いつか自分を置いて行ってしまう。こんな関係もきっと高校までだろう。
 だけど、それでいい。進学も、その先も、横山にはたくさんの選択肢と翼がある――自分がそれを、邪魔するようなことだけはしたくない。
 周の言うことには大人しく従う横山のことだから、周が気持ちを打ち明ければきっとそれを受け止めようとしてしまう。周が手綱を手放しても、自分の意思という体で周のそばに止まってしまうだろうことは、目に見えている。
 足枷にはなりたくない。だから、この気持ちは打ち明けられない。

 岩井さんの一件の後、春休みに入ってしばらく横山と会わない間――周の頭は取り留めもなくいろんなことを考えた。
 自分が告白されたくらいなのだから、自分よりよっぽどモテる横山は、きっといつか彼女を作るだろう。横山の話を一番に聞き、横山の心配をし、何かあれば面倒を見て、なんなら弁当を作ったりする、それは彼女がすることだ。隠し事ができない横山だから、映画を見たとかケーキを食べたとか、二人で遊びに行った話をきっと周にするだろう。大人になっていつか結婚するなんてことになれば、周は式に呼ばれるかもしれないし、子供ができたら会いに行くかもしれない――そんな想像を、考えすぎ、とは思えなかった。
 横山以外を好きになれない自分はこの先、横山が他の誰かと幸せな家庭を築いていくのを、遠くから見守りながら一人で生きていく――いつだって一番近くにいて、アホに釘を刺し、何かやらかせば心配して、面倒を見る、それが自分であることが、当たり前であってはいけない。自分は良い、けれど横山は、そうじゃない道を選ぶことができる。遠くに飛んでいく翼も持っている。
 春休みの間中頭の中を散々散らかして、新学期。前から母に代わって自分が食事を用意すればいいんじゃないかと考えていたから、この先一人で生きていくことを思えばちょうどいい、それで料理を始めた。それから、クラスが分かれたのをいい機会として、横山の手を少しずつ離していこうと決めた――結局のところ、別のクラスになっても横山は毎日のように弁当をつまみに来るし、火傷事件では周の方が離れ難く思っている現実を、ただ思い知っただけだったのだが。
 これではあかんと思いながら、やっぱり横山のそばにいられることが嬉しい――それでも周はこの三か月、そんな自分の気持ちには気付かないふりをして、心の底に押し込めて、今だけだと自分に言い聞かせてやり過ごそうとしてきた。
 実際今日まで、自分は結構頑張っていたと周は思う。友達として、幼馴染みとして、それ以上の気持ちは秘めてこれたと思う。なのに今、横山から重ねられる質問と、その態度や表情に翻弄されて、包み隠した結び目があらわになって――他の誰でもない横山自身の手によって、解かれようとしている。
 

 
「なあ」
 横山の射抜くような眼差しにさらされている自分がいたたまれない。
「……え、そや、し」
「うん」
「……、」
 ちらりと視線だけで伺うと、横山の姿勢はさっきよりもテーブルに乗り出し前のめりになっている。いったい横山は何を知っているのか、何を言わせたいのか。もしかして、全部知ってるとか? ――いや、それはないか。横山の瞳が物語る、祈るような不安の色。横山は、まだ知らない。何を? 横山は何を知りたいのか、何を聞きたいのか。ちょっと待て、これはどういう状況なんや、と頭の中を整理しようと試みるが、残念なことに全く働かない。
 この質問がどこに向かって集束しようとしているのか、気づきそうになって、気づいてはいけないと思って、だけど――あかん、もう無理。
 心臓は痛いくらいに早鐘を打っている。こんな目で見つめられていたら、今の動揺も、自分にさえ嘘をついてきたこの気持ちも、あの時岩井さんに告げた言葉も、隠しきれない。一つ打ち明ければするすると、手品の万国旗みたいに全部バレてしまうのは想像に容易い。だけど、こんな状況では、知られてしまったらどうなるか、なんて、何も考えられない。もう、ええわ。周は小さく息を吸って、吐いて、視線を落としたまま答えた。
「……、……好きな人、おるから、て」
「……、」
 横山の返事や相槌はない。周が恐る恐る顔を上げると、
「……、」
 横山は口元を震わせて、何か言いたげに開いて、閉じて――それは、さっき唐突に『キスをしたことはあるか』と聞いてきた、あの時と同じ、珍しく迷うような態度だった。
 そして、言った。
「……それ、さ、……誰のこと、って、聞いても、いい? オレも知ってる人?」
「……、」
 周は、ぐ、と下唇を噛んでまた視線を伏せた。空調はしっかり効いているはずなのに、今度は耳や首まで熱い。
 お前のことや、と、言えない――けれど、横山はアホだがバカではない。周が真っ赤になって横山の顔をまともに見られず答えないのは、もしかしたらそう言ったも同じだったかもしれない。
 横山が座を立つ気配がする。フローリングを歩く音、やがて自分の身体のすぐそばに、熱の塊が腰を下ろす。
「……っ」
 視線を感じてうっすらと首を巡らせると、丁度同じ高さに横山の顔があってまともに視線がぶつかってしまう。焦れたような、希うような、真剣でどこか熱っぽい眼差し――なんやねん、その顔は。その表情を、周は知っている。昼休み、周の弁当をつまんでもいいか聞いてくるときの目だ。周が良いと言うのをわかっていて、だけどもしかしたらダメかもしれない、九割の期待と一割の不安。横山は一体何を期待して、何を不安に思っている? 周の答えに気づいていて、それを横山が期待しているとしたら、それは、つまり。
 周はぎゅっと目を閉じた。オレはアホか、そんな都合のいい話が、あってたまるか。横山にも聞こえてしまいそうなほど、心臓の音が身体中で大きく鳴り響く。
 不意に耳元で声がする。
「あまね、」
 その瞬間、背中を柔らかい電流みたいな刺激が走る。
 座っているのに腰が抜けそうなくらい、甘く響く横山の声。下の名前で呼ばれるのは何年振りだろうか。なんやねんお前、いっつもそんなんちゃうやろ―、
「な、……なに、」
 視線をテーブルの上に投げたまま、返事の声は上ずってしまう。
 そっと目を開く、けれどその顔を見る勇気がない。床に着いた指先や、崩した胡坐の膝から感覚がなくなっていく。みぞおちのあたりが詰まったように息苦しい。顔が熱い。
 隣で、すぐそばで、横山が言う、
「……オレも、したことないねん」
「な、にを」
「キス。そやし、してみたい」
 動揺のせいで耳までおかしくなったのか――さっきよりも近くで聞こえる横山の声に思わず振り向いてしまった。
「……は? て、近い近い顔近い、え、何? い、いつか、とかそういう話?」
 自分はともかく、どうして横山がそんなことを言うのか、まったくわからない。いくら何でも近すぎる距離に尻で後ずさるが、背後はすぐ、壁。追いつめられる。
「今」
「今!? アホかなんでやねん」
「イヤか?」
「イヤ、とかと、違って! そんなん、したいってするもんちゃう」
「したいからするんちゃうん、普通は?」
「……じゃなく、て、……誰でもええゆうもんちゃうやろ!」
「誰でもよくない! あまねがいい」
「え、ええ……、」
 動揺、を通り越して、混乱の極み。
 きっともう周の気持ちはバレている。それを知って、からかっている? いや、横山はそういう趣味の悪いことはしない。それとも逆に、自分なりに応えようとしてくれているのか。周の言うことはいつだって素直に聞く横山だから――ああ、そやから黙ってようて思たのに。胸の奥に、苦いものが広がる。
 ――好きになってしまってごめん。
「お前の好きな人、て、誰や」
 横山がもう一度、今度は声を潜めて言った。
「……、」
 答えられない、かわりに喉の奥から嗚咽のようなものが漏れる。あかん、泣いてまう――、周の様子に気付いたかどうか、横山が続けた。
「自惚れ、やったらめっちゃ恥ずかしいねんけど、……オレ、のこと?」
 ――やっぱり、バレた、か。身体の中で何かの線が、ぷつんと切れてしまった。ぽろぽろと、涙が溢れて零れてしまう。慌てたのは目の前の横山の方だった。
「えっ、ちょっ、待って、なんで」
「……、なんで、て」
 なんで――なんでやろ。悲しいのではない。
 横山は知らなくてもいいことを知ってしまった。
 余計なことを考えさせてしまった。
 一番の友達のような顔をして、ずっとそういう気持ちを隠してきた。
 裏切ってしまったような罪悪感、何とか応えようとしてくれている横山に対する申し訳なさ、それからほんの少し、もう隠すことは何もないという安堵の気持ちも、あるかもしれない。
「……、ごめ」
 思わず口をついて出た言葉を言い終える前に――横山がガバッと膝立ちになり、両手で周の口ごと遮った。
「待って、ちゃうねん」
「……っ」
 唇に触れる掌は、少し汗ばんでいて、冷たい。周の口をふさいだまま横山は視線を彷徨わせ、その、そやし、と躊躇ったのは一瞬。今度は少し高いところから周を見つめて――言った。
「オレが! お前のこと好きやから。周もそうやったら、めっちゃ嬉しい、ていう話、が、したいのオレは」
「……、」

 やっぱり耳が――いや、これはたぶん頭の方が、おかしくなっているらしい。
 横山が――なんて?

(5)中田周と横山健琉のアレとソレ、これまでとこれから≫