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ひとはそれを幸福と呼ぶ(1)2


  
 手元を照らす温かい色をしたスポットだけのカウンターテーブルは、案外雰囲気がいい。並んでいるのは缶ビールとプラ容器に入った惣菜だが、ちゃんとすればそれなりにちゃんとなるんだろうな、とは思う。実際、夜の居酒屋営業にも客は入っていたし、常連客もそこそこいた。
 昼は十一時から二時まで、夕方は四時から八時までの惣菜と弁当販売。調理はもちろん、配達スタッフの手が足らないときは母もスクーターで走り回っていた。注文の電話も受けるし、店売りの会計もやる。今の自分だって同じことをやっている。そして惣菜店の閉店後、今から客を迎えて、料理と酒を提供できるかというと――一幸には無理だ。今はまだ。半年前までは一幸こそ夜の店が本業だったのだから、時間だとか営業形態だとか体力だとか――そういうことではない。気分的な問題。

 母は、きっと好きだったのだろう。この仕事が。この店が。料理を作り酒を出して、いろんな人と話して、笑って。これ新メニューの試作なんだけど、どう? ハルちゃんこれ美味いよ。アレないの、いんげんのごま和え――常連客とのやり取り。
 この店は、母の夢。まだ、一幸のものではない。だから、居酒屋はまだ再開できない。

 母――夏見治子、享年五十三歳。二十四歳で一幸を生んだ母は、友達の家庭と比べても若い方だったが、その誰よりも早い旅立ちだった。
 若い頃高級――自称――クラブのホステスをしていた母は、父親のない子供を産み、育てながらこの店を始めた。販売スペースを改装して夜の居酒屋営業を始めたのは一幸が高校を卒業する頃だ。
 店を始めようと決めたとき、最初は料理とお酒を楽しんでもらう店――小料理屋をやりたかったのだとよく話していた。育児をしながらの飲食店経営は昼営業の惣菜店になり、一幸が成長してから、惣菜店兼居酒屋という形でかつての夢を実現させた。勢いと信念の人――そしてその勢いのまま、駆け抜けるように逝ってしまった。
 早すぎる旅立ちを、女手一つで一幸を育てたその苦労が祟ったのだ、とか、若い頃から水商売だったから酒を飲みすぎたんじゃないのか、とか、言いたい人はいたかもしれないし、実際一幸もそんなことを考えた。自分を産んだせいで母は苦労をしたのだろうか、ずっと身体が悪かったのだとしてもっと早くに気付いてやれなかったのか。
 けれどたぶんそういうことではないのだ。そういうことではないと、母は言いたかったのだ――あの、遺書の続き。

 私は幸せに生きました。
 一幸も、幸せになってね。
 
「……幸せ、か」
 高野豆腐の甘煮を口に運びながら呟く。
 坂木先生から母の手紙を受け取り、折に触れ読み返してずっと考えている。
 母は自分の人生を幸せだったと言う。そんなら良かった、とは思う。
 自分は自分の人生を、幸せだと言えるか。今も、この先も。
「……、どうかな」
 ただ、思考はいつもそこで止まる。
 今日の配達、明日の注文、その先の予定、仕入れの計画、新しいメニューもそろそろ出す時期だとスタッフたちに言われている。経理だなんだのは、坂木先生の事務所がそっちも専門でやっているので――ナツミ惣菜店顧問、坂木法律税務事務所――書類仕事は丸投げできるはずだが、日々上がってくる数字を見て見ぬふりはできない。今しなければならないことが多すぎて、自分のことなど構っていられないのだ。
 
 アルコールに弱くはないが、強くもない。一人で飲むなら缶ビール一本で充分。明日も朝から仕事がある。飲み干した缶をカウンターに置き、ごちそうさまと手を合わせ立ち上がる。厨房のごみは締め作業で片づけた後だから、このプラ容器は上に持っていって家庭ごみで出そう。重ねて持ち上げた瞬間――後方から物音。
 心臓のあたりがギュッと縮まり、静かに振り返る。大丈夫、さっき戻ってきたときに、鍵はかけた――ガチャ、ガチャ、店舗部出入口のハンドルを引っ張る金属音。
「……、」
 ごくりと唾を飲みこんで、壁の時計を見る。もうすぐ九時になる。営業時間は八時まで、看板も消灯しているし、準備中の札も出ている。客ではない。
 一幸は手にした容器を静かに置きなおし、周りを見回して、冷蔵ショーケースの上に載せてあるメラミントレーを手に取った。武器か盾か、無いよりはマシ。
 
 最寄りの交番のお巡りさんから、不審者の話を聞いたのはつい一週間前のことだ――夜中にお店の周りうろうろしてる人がいるって近所の方から通報があったんで、この辺の見回り強化してるんです。戸締りとか気を付けてくださいね。
 古い住宅地、新しいマンション、少し離れたところに集合団地。空き巣や車上荒らしも皆無ではないが、たぶんよその地域と比べても、取り立てて治安の悪いエリアではない。
 ただ、ナツミ惣菜店には前例があった――盗犯ではなく、不審者の。
 店の主に男手がないと知ったおかしな客が着くことは昔からよくあった――残念なことに一幸がまだここに住んでいた間も発生した厄介ごとで、このあたりは警察を呼んだり坂木さんにお願いしたりでいつの間にか解決していた――が、近い話だと二年前、母がうっかり家の玄関の鍵をかけ忘れていて、階下での営業中にまさかの不法侵入。テーブルの上に、母宛の花束が置いてあったらしい。この時の犯人は後日逮捕され、母が気づいていなかっただけでいわゆるストーキングのようなこともしていたらしく、一年だか二年だかの実刑がついたと坂木先生から聞いた。
 そういういくつかの経緯があってからの、お巡りさんからもたらされた不審者情報。一幸が店舗部のドア、厨房の勝手口、住居部の玄関、三か所の施錠を過剰に気にするのはこのせいだ。
 ただ、母亡き今、おかしな客もストーカーも、ここに用はないはずだ。だとしたら、空き巣か強盗か、不審者は店の下調べか。そんなことは絶対に許さない。一緒に暮らしていたのに役に立てなかったあの頃とは違う――ドアと窓の内側に掛けたカーテンに、人影が映る。大柄。大丈夫、鍵はかかっている。一幸は左手でトレーを掲げ、足音を忍ばせてドアに近寄り、勢いよくカーテンを引いた。
「誰だっ」
 わあっ、とドアの外で悲鳴が上がる。街灯を背にした黒い影、に、カーテンを開き切ったドアのガラス部分から、室内のぼんやりした灯りが差す。
 大柄の体格にきちんとしたスーツ、ネクタイをしていないのは仕事帰りではないからか、その上に、驚いた表情に崩れた――けれど普段はバランスよく整っていることをよく知っている――顔。
「は? 龍太?」
 張りつめていた心臓が、全く別の色に変わっておかしな音を立てる。ドクン。
 振り上げたトレーを下ろし、慌ててドアを開ける。
「よお、ユキ」
 そう言って一瞬で解けた笑顔を見て、一幸は自分の頬が赤くなってはいないか、本人に気取られはしないか、いやこれはさっき飲んだビールのせいだから――自分への言い訳を思い浮かべる。
 ひやりとした秋の夜の空気が、頬に気持ち良かった。
 

※こちらは2022年中に発行する予定の同人誌『ひとはそれを幸福と呼ぶ(仮)』の第1話サンプルです。

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