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ひとはそれを幸福と呼ぶ(1)3

 今日の不審者の正体は、かつて近所に住んでいた同い年の幼なじみ、瀬戸龍太だった。先週通報があったという人物が、龍太であるはずもない。実家は今も同じ町内だが、本人は家を出て職場の近くに一人暮らしをしている。
「あーびっくりした。殺気出てたぞ、そのトレー」
「びっくりしたのはこっちだよ、泥棒かと思った」
 そう言いながら龍太を中に招き入れ、再びドアを閉めて施錠する。ついでにカーテンも閉める。駆け足で心臓が弾むのは、驚いたせいばかりではない。
「正面から入る泥棒なんているかよ」
「いるんだよ世の中には。堂々と図々しく頭おかしいのが」
 何しろ件のストーカーは、店舗営業中の蛮行だ。龍太にもその話はしていたはずだった。ああ、花束の、と頷いて、龍太はカウンターの上にブリーフケースを置き、まるで当たり前のようにさっきまで一幸が座っていたスツールに腰かけた。スーツの似合う長い脚に、自然と目が行く。仕方がないので一幸はテーブルの内側にまわり、まるで居酒屋営業中の店の様相だ。ハッと気づいてさっきの夕食の残骸を慌てて隅に片づけていると、
「――そんでこの店はいくら出したら触っていいの」
 龍太がそんなことを言うので一瞬息を飲み、それから吹き出す。五年越しの冗談だ。ふざけたやり取りは二人の間ではいつものことだが、突然こんな言葉が飛び出すなんて、今日の龍太は妙に浮かれている気がする――違うな。浮かれているのは、オレか。
「お客さん困りますよ、ここそういうんじゃないんで」
 一幸が答えると、今度は龍太の方がハハっと笑った。
「上にはビールあるけど。飲むか?」
 相手がいるなら――それが龍太ならなおのこと、一幸だってもう一本くらい飲んでもいい。
「いや、いい。家で飲んできた、というか飲まされた」
 なるほど、酔っているのか――じゃあコーヒーくらい入れるか、と厨房の方を振り返る、が、
「いい、いい。すぐ帰るから」
 気を遣うなという体で龍太が言う。すぐ帰る、という言葉に内心がっかりするが顔には出さずにうんと頷き、一幸はカウンターの上で腕を組んだ。本当にまるで、どこかのバーみたいだ――さっきの龍太の冗談のせいで、前の職場のことを思い出した。
「ちょいちょい帰ってきてんの?」
「や、久しぶり。前は――ああ、」
 龍太は急に神妙な顔つきになり、居住まいを正して一幸の顔を見た。ぎゅっと眉根を寄せて、真剣な表情。ぐ、と喉から変な音が出る。
「四月以来だよ。あれから、変わりないか? ……なんか変だな。変わりはあるよな。その、飯とか食えてんのか」
 ああ、と今度は一幸が声を漏らした。
 四月――母の葬儀。一幸の友達として唯一顔を出してくれたのが龍太だった。
 他に知らせていないのだから当然と言えばそうなのだが、龍太は会社を休んで来てくれた。そして、大丈夫かと一幸を気遣ってくれた。あの時の一幸は、母の死と、それにまつわる事務作業と、直後の注文をさばくのにすべての神経をつかっていて、水しか飲めない有様だった。やつれてるぞ、と言ってゼリー飲料を買ってきてくれた――母の死はあまりに急すぎて涙も出なかったのに、その瞬間は本気で泣きそうだった。
「うん、大丈夫、ちゃんと食べてるよ。あんときはありがとな」
「当然だろ」
 即答が頼もしく、嬉しい。
「……今日で、ちょうど六か月だった」
「ああ、そうだったか。早いな、半年か」
 龍太がしみじみと溜息を漏らす。確かに、あっという間ではあった。母と自分、龍太と自分、どちらの意味でも。
 それまでは二、三か月に一度程度は飲みに行ったり、少なくともメッセージの遣り取りくらいはしていたが、今回は、龍太と顔を合わすのも言葉を交わすのも実に半年ぶりだった。うん、と頷き、ややあってから一幸は話を変えた。
「そんで、どうしたんだよ急に」
 様子を見に来たと言ってくれたら嬉しいが、どう考えても龍太のメインの用事は実家で、一幸はもののついでだろう。実家に置いたままの何かを取りに来るとか、親戚からのいただきものをもらいに来るとか、そうでなければ帰ってこない、と、以前龍太の母親が愚痴をこぼしていたのを思い出す。
「ああ、家に、ちょっとな。や、近々帰ろうとは思ってたんだよ。今日たまたま、夕方に予定あった会議が流れて、早く帰れることになったからさ、ちょうどいいかと思って。電話したら大丈夫っつーんで、急遽」
「こっちにだって連絡くれよ。あんな、ドアガチャガチャしなくてもさ」
 何の前触れもなく会えたのはサプライズみたいで悪くないが、連絡さえもらっていれば、少なくともトレーを振りかざしてドアを開けたりはしなかった。ビールでもコーヒーでも用意できたし、惣菜だって持って帰ってもらえるように準備できた。何しろ、一幸が店を継いでから龍太がここへ来るのは初めてなのだ。惣菜のほとんどを作っているのはパートのおばちゃんたちであっても、一幸の手から龍太に渡したかった。
 龍太は、お前な、と顔をしかめた。
「家着いた時と出る前に電話したし。スマホ見ろ」
「は? えっ、……あ、」
 言われて気が付く。そう言えば今日は昼からずっと、携帯端末に触っていない。あっ、と思い出す。昼営業が終わって買い出しに出たあと、店用の軽バンの中に置きっぱなしだ。
「車ん中だ。ごめん」
「オレはいいけど、それ危なくないのか? 車上荒らしとかまた増えてるらしいし、あんまり貴重品を置きっぱなしにするなよ」
「ん、あとで取りに行く」
 久しぶりに聞く、龍太の小言。中学に入った頃から、龍太はいつもそんな感じで一幸の世話を焼いた。高校に入っても、卒業して龍太が大学生になり一幸がアルバイトを始めてからも、大人になってからも――ずっと。
「お前、店長とかやってるわりにそういうとこちょいちょい抜けてるよな」
「ほんとだよなー」
「だよなーじゃねえよ、相変わらず心配だよユキは。いつまでたっても」
 ふっ、と思わず声が漏れる。聞きたくて言わせたようなものだ。龍太の小言が、お節介が、一幸は昔から嫌いじゃなかった。むしろ好きだった――構われることも、龍太自身も。ごまかすようにカウンターに肘をつく――と、
「……、えっ、何、」
 不意に龍太の手が伸びてきて、一幸の額に触れた。熱くもないのに――いや、熱いのかもしれない、体温を急に感じて、一幸はびくりと肩を竦めた。ふふ、と龍太が笑う。
「ここ、跡ついてんぞ」
 そう言って龍太の指が一幸の額をなぞる。タオルの跡か。
「え? あ、ああ、仕事中は、前髪上げてるから」
「そりゃそうだろな、惣菜店」
 厨房の衛生上、調理用の帽子着用は必須。調理スタッフのおばちゃんたちはそれぞれ三角巾やバンダナを使っている。一幸は、最初はキャップを被っていたが、どうしても毛先が出てきてしまうので今ではタオルをガテン巻きだ。ぎゅっと縛って仕事をして、オフの時はタオルを外す。スイッチの切り替えになるからちょうど良かった。
 龍太の指の跡をなぞるように額を擦り、前髪に触れる。
 龍太はたぶん、分かって言っている――自分と、一幸の前髪のこと。
 昔は短かった――小学生の頃までは。お母さんに似ているね、と言われるようになってから、一幸は前髪を伸ばし始めた。母親がいつも額を出す髪型をしていたから、その反発でかれこれ十五年。
 面長で猫っ毛だから似合わない訳ではないのだが、店のおばちゃんたちには大層評判が悪い。曰く、そんな伸ばしてたら目悪くなるでしょ。おばちゃんが切ったげるからこっちおいで――もはや日常の挨拶。確かに仕事の都合を考えれば切ってもいいはずだった。それでも切らないのは、最初に龍太が言ったからだ。
 ――ユキの前髪は、長い方がいいな。
 今なら、龍太のあの発言が『そう』いう意味ではなかったことは分かる。言うなれば、ほんのわずかな揺らぎの時期。誰に向かって言うべきで、誰に向かって言わざるべきか、そんなことは何も気にしなかった、曖昧な一瞬。
 突然の発言にドキドキしながら何でと尋ねた中学生の一幸に、龍太はしばらく考え込んで、『里村華江に似てるから?』と自分でもよくわかっていない様子で答えた。その頃流行っていたドラマで一躍脚光を浴びた女優、『幸薄顔』の代名詞。下がり気味の眉、黒目勝ちだが小作りな一重の目、形よく薄い唇、細く柔らかい髪。確かに一幸もそういう顔立ちで、前髪を下ろすとその要素が強くなる。
 気持ちを上手く言葉で説明できない年頃で、それはただ単純に、龍太の好みというだけの話だ。龍太が可愛いという女子も、だいたいその手の顔つきだった――そして、その好みが今も変わっていないのを、一幸は知っている。だから一幸は、髪を切らない。
 龍太はそれを、たぶんわかっている。『そう』ではなくても。
 一幸だってわかっている。龍太のそれは『好み』であって、『好き』ではない――あの頃一瞬そんな夢を見たことは確かにあったけれど、大人になった龍太と自分が、『そう』いう意味でどうにかなれるとは思っていない。
 ただ、
「相変わらず、幸薄そうだろ」
「ごめんって」
 一幸が笑いながら言うと、龍太も同じように笑って答えた。ほら、覚えている――そうやって、繋がりを試す、ただそれだけのために、一幸は髪を切らないでいる。

 龍太が急に、考え込むように視線を落とした。
「ごめん……、ごめん、か。謝るってのも、なんか違うような気も、するけど」
「え?」
「なんか、ユキに謝んないとなって気になったんだよな、そんで」
 さっきまで衣着せぬ物言いで喋っていたのに、急に言葉の歯切れが悪くなった。
「謝るって、何が。前髪の話?」
 じゃなくて――と、龍太はしばし言葉を探し、意を決したように顔を上げて、言った。
「結婚――することになった」
「……、えっ」
 これは――全くの予想外。聞き間違いではない。
 龍太が、結婚。
 喉の奥が急につかえて、一瞬で指先が冷たくなった。
 もう二十九だ。いつかそういう日が来ることはわかっていたし、龍太から飲みに誘われるたびにそういう話が出るのではないかと身構えていたが、今日に限っては全くの無防備だった。彼女ができたと聞いてからは、ずっとそういう覚悟を固めてきたのに――、あれ?
「えっ、でもお前今彼女、」
「うん、まぁ……その、夏にさ、知り合って」
「今年の?」
「そう。で、付き合うって、なって、そんで」
「夏って――七月としても、」
 指折り数える。八、九、十。三か月。
「いや展開早――、」
 と、思わず口にしてハッと気が付く。これはつまり――一幸の表情に、悟ったことを見て取った龍太が、ああ、うん、と観念したように頷いた。
「今、六週目だとかって。本当にあるんだな、こういうの」
 具体的な週数がショックに追い打ちをかける。
 ウソだろ、という言葉を慌てて飲み込み、一幸は『普通の友達』としての感想を無理やり引っ張り出す。怒るか、笑うか――呆れるか。
「お前さあ、驚いてる場合ではないだろ、その……、だってお前がしなきゃデキないんだぞ」 
「いやもう、それはさ、今日親からもさんざん言われたし、何なら先週向こうのご両親にも、」
「そりゃ言うよ。殺されなかっただけマシじゃん」
「いやそれがさ、思ってたよりはスムーズっていうか、そんな怒ってなかったというか。男か女かいつわかるんだ、とか言って」
「そんならオレが代わりに怒ってやろうか?」
 思わず本音がこぼれる。何もかも承知の上なら――例えば、そうでもなければ結婚できないような状況であったとか――好きにすればいいが、龍太の口振りは、たぶんそうじゃない。龍太の性格からしても――想像すればヤブヘビになるのはわかっていたからあまり考えないようにしていたけれど、それでもなんとなく、龍太はそんないい加減なセックスはしない。現に、その結果として両家に挨拶、結婚まで決めた訳だから、ちゃんと責任は取る男だ。
 いい加減なのはいつも一幸の方。それを叱るのが龍太――だったはずなのに。
「ごめん」
 小さくなって龍太が言う。なぜかこっちが罪悪感を覚えて息苦しい。
「いやオレに謝られてもさ……、謝んなきゃって、このこと?」
「うん? あー、ユキには叱られそうだな、とは思ったけど。……そうじゃなくて」
「じゃあ、何」
 うーん、とうなって、龍太はスツールに深く座りなおした。
「何――だろうな。具体的にどうってことじゃなくて。なんとなく――親とかより先に、お前に、悪いことした、みたいな気がした、から」
「……、彼女ができたこと黙ってたからか? それともオレより先に結婚するし? 子供まで作って」
 それとも、言外に顔が好みだと言って、心配だと甲斐甲斐しく世話を焼き、訳もなく髪や顔に触れてきて、一幸の恋心を弄んだから? 自分は『そう』じゃないくせに。
 しかしそれは、一幸だけの理屈だ。外見だけでも龍太に好かれていることが嬉しくて、世話を焼かれるのも触れられるのも心地よくて、龍太は『そう』じゃないとわかっていたのに、ずっと好きだった、一幸の勝手だ。
 わざと大きく溜息を吐く。肩をすぼめ様子を窺うように、龍太が上目遣いでこちらを見ている。思わず、という振りをして、は、と笑った。
「別に、何も謝ることないだろ。そもそもオレがとやかく言うことじゃないし。まあ、教えてもらえなかったのはちょっと寂しいけどさ」
 龍太のことだから、母を亡くしたばかりの一幸に気を遣ったのだろう、とは思う。もう一度、大きく息を吐き出して、まっすぐ龍太に向き直る。
「こっちこそ、ごめん。ちゃんと言ってなかった。……結婚、あと子どもも、おめでとう。祝ってやれるもん、今何もなくて悪いんだけど」
 一瞬言葉に詰まったのをごまかすように、一幸はあたりを見回した。ちゃんと祝ってやりたい気持ちだけは確かにあるのに、今ここには何もない。この先用意できる気持ちになれるかどうかも、まだわからない。
 それでも、龍太はようやく表情と姿勢のこわばりを解いた。はぁ、と安堵のため息を漏らし、
「うん、……ありがとな」
 と笑った。

 三つ並びで覚えやすいから婚姻届けは十一月一日に出すつもり。生まれてからだと大変らしいし、バタバタするけど挙式は来年二月。今急ピッチで準備してるとこ――。
 肩の荷が下りたからか、それともやっぱりどこか浮かれているからか、帰るそぶりを見せつつも龍太は饒舌にスケジュールを話した。
「そんな大勢呼ばないって言ってるけど、ユキは絶対呼ぶからな。式」
 ドアに向かって歩き出してから、大事なことだと言わんばかりに振り返って告げる。
「うん。スーツ用意しとく」
 ドアを押し開けながら一幸が笑って答えると、龍太は来た時と同じ解けた笑顔を浮かべて頷き、
「じゃあ、な。また連絡する」
 小さく手を挙げ、それから駅の方へ向かって夜の闇に溶けていった。
「……、」
 姿が見えなくなるまで見送って、それから扉を閉める。間違いなく施錠したことを確かめ、すうっと大きく息を吸い込む。スツールを片付け、ゴミを集め、もう一度店舗部の状態を確認してから、ロッカー室を通り抜けて二階に上がる――帰宅。
 ダイニングでゴミの始末をし、いつもより時間をかけて手を洗い、テーブルの上に置いた母の写真にちらりと目を遣る。ユニフォームのポロシャツと長袖のアンダーを脱ぎながら洗面所へ向かい、洗濯機に放り込む。自室に入ってベッドに仰向けに倒れ込み、
「……、まいった」
 ぼそりと呟く、その瞬間鼻の先がツンと痛くなった。
 母の葬儀ですら泣かなかったのに、今、涙が溢れて仕方がなかった。

 龍太が、誰か知らない人のものになる。自分の知らないところで、知らない女の夫になり、知らない子供の父親になる。知らなかったことだけが悲しい訳じゃない。龍太が一幸に対して勝手に感じていた罪悪感――後ろめたさ。なんだよ、『そう』じゃなくても自覚はあったんじゃないか。ひどいヤツ。
 腹が立つのは、わかっていると言いながら、それでもどこかで期待していたからだ。このままずっと、付かず離れずそばにいて、たまに一緒に飲みに行って、くだらない冗談を言い合って、酒のせいでも気のせいでもいい、何かの弾みで『どう』にかなったりはしないだろうか――『どう』なりたいかなんて想像すらできなかったくせに。
 想像すればきっと欲しくなる。龍太のことだから、一幸が求めれば――例えば泣いて頼んだら応えてくれたかもしれない、何しろ顔だけは好みらしいし、そう違いのないものを提供できる自信もある。だけどたぶん、代わりにもっと大事なものをなくす。だからずっと考えずに来たのに、龍太と誰かのセックスを――その結果を――こんな形で見せつけられるなんて、誰が予想できる? 
 だがこれでもう、期待も何もない。絶対にない。龍太は結婚するのだ。それが悲しいと言うのなら、悲しむことすら筋違いだ。だって初めから龍太は一幸のものではない。誰かのものになったところで、自分が失う訳じゃない。
 わかっている。わかっているのに悲しい、わかっているのに腹が立つ、それに対する自己嫌悪。さらに涙がにじむ。
 言わなくてもいいことを言った。
 順番なんて別にどうでもいいよと、ただ笑って祝福すればよかった。経緯はどうあれ、当事者同士が納得しているのなら――新しい命が生まれることは何よりも素晴らしいことで、子孫を残す本能から言えば順番なんてたぶん本当にどうでもいいし、両親だって建前上は苦言を呈しても、子の結婚や孫の誕生はそりゃあ嬉しいものだろうし――オレがとやかく言うことじゃないし、と、それだけは言えたから良かったか。
 そもそも――一幸自身が、当事者同士の納得の産物なのだ。子供ができても認知さえしなかった父親の血を引く、父親のいない子供。そして現状、性生活に関してはいろんな言い訳をしながらその場限りのセックスが当たり前――いい加減だと言うならば、それは龍太ではなく一幸のほう。龍太はきっと、知らないけれど。
「……、」
 すん、と鼻を鳴らす。涙はようやく止まったが、胸の上には黒い大きな塊が乗っかったまま。大きく息を吐いてみても、もやもやしたものは晴れる気配がない。のろのろと立ち上がって、ダイニングへ向かう。
 ビール以外のアルコールは無いから、仕方なく冷蔵庫から二本目を取り出した。缶に口をつけながら、テーブルの上の母の写真に目をやる。遺影のつもりなんかなかったはずの――いや、何もかも整えて逝った母だから、そのつもりはあったかもしれないが――満面の笑み。生きている自分よりも幸せそうな笑顔。
 父親のいない子供を産んで、立派かどうかはわからないけれど、とにかく人並み程度には生きていけるよう育ててくれた。自分の夢をちゃんと知っていて、目指して、叶えて、駆け抜けていった。母が自分の人生を幸せだったというのなら、それ以上のものはない。

 ――一幸も、幸せになってね。

「幸せ、か」
 ぽつりと呟く。
 店も、夢も、龍太も――何一つ自分のものでは無かったと気づいた今日、たった一つ大事にしてきた恋も失った。
 そういう自分を不幸だとは思わないが、幸せだとは到底言えない。たとえ顔の作りがそうだったとしても、実際に幸薄い人生である必要なんかないのに。
 母のように、自分の人生を幸せだと言える日は、果たしてやって来るのだろうか――。

(続く)

※こちらは2022年中に発行する予定の同人誌『ひとはそれを幸福と呼ぶ(仮)』の第1話サンプルです。