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    アホの横山とカシコの中田3(1)

    (1)八月の初め、夕食を作る中田周はいまだに落ち着かない


     
     ふと気が付くと、もうすっかり日が暮れていた。
     本から顔を上げ時計に目をやれば時刻は七時を少し回ったところ。この時期、周の家の西に向いたベランダからは強烈な西日が射していて、部屋の中はいつまでも明るい。そして、山の向こうに日が隠れてしまうとその途端に薄暗くなる――それが、まさに今。
     学校での夏期講習のあと、今日は一人で図書館へ行き、スーパーに寄って帰宅してから二時間余り。読み始めたのは初めて手にした作家だったが、いつの間にか夢中になっていた。
     そこらあたりに落ちていたDMハガキを栞代わりに適当に挟んで、本をとじて大きく伸びを一つ。テレビをつけて七時のニュースを見ながら――正確に言えば『聞きながら』――周は夕食の準備を始める。
     いつもは十時を過ぎて帰宅する母親が、今日は久しぶりに早く帰れると言っていた。ここしばらく仕事が立て込んでいたらしく、平日に周が用意した夕飯を一緒に食べるのはひと月ぶりくらいになる――週末は母が作るか買ってくるか、すぐ近くの祖母の家に行くことが多い――。だからと言って特別なことは何もしないが、たまには温め直しでないものを食べてもらいたい、とは思う。
     残業が無ければ、母の帰宅は七時半から八時の間。帰ってきてすぐに研いで水につけておいた洗い米を炊飯器にセットして、スイッチを押す。炊けるまでに惣菜と汁物を用意すれば、いいタイミングで準備できる。
     
     周が夕食を作るようになってから四か月が過ぎた。そつなく臨機応変に、というのはまだまだ難しい、というよりもやっぱりできる気がしないが、基本的な手順――根菜は水から茹でるとか葉物は茎から茹でるとか――や野菜の切り方なんかは身に付いてきたように思う。食材や調味料の底値も覚えたし、買うものによってスーパーを使い分けるようにもなった。それがどんなジャンルでも知識が増えるのは楽しいし、最近は特に、料理に取り組む姿勢が以前よりも前向きである――自覚があるし、きっかけも分かっている。

     周が料理を始めた理由は主に二つ。一つには、母子家庭である中田家における役割分担として、外で忙しく働く母よりも、時間的に余裕のある自分がやった方が効率的だと思ったから。そしてもう一つは――この先自分が『一人で生きて行く』ために、自炊の能力は必要だと思ったから。
     一人で生きて行く――のだろうと、ずっと思っていた。
     母親と仲が悪いわけではないし、一緒に暮らしていくうえでの不都合も特にない。だが、いつまでもこのままでいいとは思わない。経済的な問題はもちろんあるから学生の間は難しいかもしれないが、遅くとも大学を卒業する頃には――就職をして仕事を得たらこの家を出るのだろうと、それは中学生の頃からぼんやり考えていた。将来自分が誰かと家庭を築くこともないのだと、その時にはもうわかっていた。
     今年の春先、自分の恋情が向かう相手に気付いた時、この思いは一層強くなった。
     横山健琉は幼なじみで、男で、やることも言うこともだいたいアホで、だが可能性と選択肢は星の数ほどあって、広い世界に羽ばたく翼を持っていて――そういう健琉だから好きになった。こんなに近くに居られるのも、きっと今だけだ。自分の存在が健琉を縛りたくなかった。
     自分だけの気持ちならば許されると思った、だから周はこの恋を秘密にして、この先ずっと――一人で生きていくのだと、そう、思っていた。

     茄子のヘタを落として縦に切る。今日の主菜は麻婆茄子で、もちろんかの有名な、専用の調味料を使う。誰が作ったって間違いなく美味しいし、これなら健琉につまみ食いをされても妙な緊張はしない――今は夏休みだが、夏期講習には弁当持参である。
     市販の便利な調味料を使わないレシピ、特に『適量』表記のものは、いつも自信がない。自分の味覚や家族の優しさ――あるいは褒めて伸ばそうとする姿勢――は客観性に欠ける。だから、そういうおかずの時は健琉の感想や表情が気になるし、緊張する。料理の素を使うなら、味に関する成功は間違いないから緊張しないし、安心だ。

     いつの間にか、健琉のつまみ食いは周にとって当たり前の日常になっていた。ソシャゲのデイリーミッションみたいなもん、と言っていたからたぶん健琉にとってもそうなのだろう。まだ母親が弁当を作ってくれていた中学の頃からだから、もう五年になる。
     自分の恋に気づく前から、この『毎日同じで変わらない』健琉の行為は、周にとって安心できる支えの一つだった。中学の一時期、母親の様子がおかしくなったときも、健琉という変わらない存在がいれば大丈夫だとすら思えた。
     周が夕食と翌日の弁当を自分で作り始めたのは自分の気持ちを自覚してからのことだが、健琉は誰が作ろうがクラスが離れようがつまみ食いを続けた――それがどんな出来でも、たぶん苦手な食材でも。周の料理のことは友達同士である母親経由で知っていて、だから始めた当初の失敗作も、それが周の手によるものだとわかった上で手を伸ばした。
     健琉が周の弁当をつまみに来るのは当たり前の日常。それならせめて、健琉にはちゃんと美味しく作れているものを食べてもらいたい。あの眉尻を下げた笑顔で、自分が作った料理を食べて、これ美味いやん、オレ好きや、と言われたい――料理を始めた当初、周の中に、そういう欲が全く無かったと言えば嘘になる。翌日の弁当に詰めたその料理に、健琉がどんな顔をして手を伸ばすのかを想像したこともある――だけど、そんな必要はないはずだともわかっていた。
     だから周はずっと自分に言い聞かせてきた――一か月前の、あの日までは。
     これは、一人で生きていくための手段。
    『レパートリーが少なくても、火が通るべきものに火が通り、食材を無駄にせず、健康を害さず空腹を満たすことができれば、それで十分』――誰かのためのものではないんだ、と。

     茄子を切り、人参を切り、
    「……、」
     ピーマンに伸ばした手が、思わず止まる。昔から健琉が苦手としている野菜の一つ。だけど、前に周が作った胡麻油炒めか何かの時は――つまりそれしかつまむのがない時は、普通に食べていた気がする。
     要するに食わず嫌いなのだ。
     ――どうせ明日も、わざわざ選んで食べへんやろうけど。
     ふ、と鼻先笑って、ピーマンを切る。
     今はまだ弁当の惣菜をつまみ食いするだけだけれど、いつかは健琉のために食事を作ることもあるだろうか――野菜を炒めながら、ついなんとなく、そんなことを考えてしまった。
     好きなもんばっかり作るわけには行かへんし、そんでも、オレが作ったので健琉の好き嫌いがなくなったら嬉しいかも――なんて、当初には想像もしなかった、『誰かのため』に料理をする未来。ぼんやりと思い描き、今度は口元が笑ってしまう。そして次の瞬間、
    「何を考えてるんや、オレは」
     猛烈に恥ずかしくなった。
     誰に聞かれているわけでもないのに、ごまかすように咳払いを一つ。

     最近いつもこんな具合だった。
     勉強や読書に集中しているときはそうでもないが、料理をしたり食事をしたり風呂に入ったり――リラックスしている、あるいは気を抜いている間、頭の中ではいつの間にか健琉のことばかり考えている。夏休みの今は学期中に比べると時間を持て余しているから、頻度が高いのはそのせいもある。そして、そんな自分に気づいて、恥ずかしくなる。
     『片想い』だったころはこんなんじゃなかった――何を想像したってどうにもならない、できないとあきらめていたから。
     だけど本当は、そうじゃなかった。
     

     
     『キスしたいような好き』だと先に打ち明けたのは健琉の方だった。
     健琉は幼なじみで、いわゆる親友で、だけどそんな風に好かれているとは全く思っていなかった。だから秘密にしようと決めていたのに、健琉の『片想い』は幼稚園の頃からなのだという。隠せている、隠し通せると思っていた周の恋心もいつしか健琉に知られてしまって――結果的にお互いの気持ちを伝え合った。それがちょうど一か月前のこと。
     そうやって片想い同士の二人は『両想い』になった――が、それで突然何かが変わる、というわけでもなかった。 
     なぜならそもそもこうなる前から、周と健琉はずっと一緒で、お互いが特別で、それが当たり前だったからだ。
     二人で待ち合わせて出かけることをデートと呼ぶならこれまでだってそうだったし、健琉が『周と一緒のにする』と言ったのでスマホは同じ機種である。
     二人の間に、今まで閉ざされていた扉が開いた――では今から付き合おうとか恋人同士だとか、デートだとかお揃いだとか、改めて新しい呼び名がつくのは、なんだか落ち着かない。いまさら――そう、いまさら、照れ臭いし恥ずかしい。
     たぶん、自分たちはそれでいいのだと思う。わざわざ新しい関係になる必要もないんかも、と、確かめ合ったのはつい最近のことだ。
     幼なじみで、一緒にいるのが当たり前で、周りからは『アホとカシコ』と呼ばれるニコイチの横山健琉と中田周。二人の関係は、だから実のところそれまでと何も変わっていない――『二人でいるときは』。
     注釈付きである。
     それなら一人になったらどうなのか、というと、健琉の方がどうだかは知らないが少なくとも周は――変わってしまった。
     気を抜くと健琉のことばかり考えている。
     好きという気持ちが自分だけのものではなくなったことを、なにかにつけて意識してしまう――そばにいられるのならそばにいたい、触れてもいいのなら触れたい、美味しい料理を食べさせたいし、上手に作れていると思われたい。そういう『欲』を――持ってもええのか? ああそうか、健琉とは両想い、やったんやな。
     約束しなくても一緒なのが当たり前だったのに、わざと約束して確かめたくなるし、『一人で生きていくため』ではなく『健琉のため』に料理をする自分を、健琉と共にある未来を、夢見てしまう。
     そういう自分に気付くのは、布団をかぶって叫びたいくらい恥ずかしい。どちらかと言えば現実的で、柔軟性には欠けるが堅実である、自分はそういう人間だと思っていたのに、こんなにも落ち着きがなく夢見がちだったなんて。
     けれど、――自分が誰かを好きになれるなんて思っていなかったし、まして誰かに想われるなんて、想像もしていなかったのだ。
     諦めそうになっていた、自分には選べないと思っていた世界が、新しい扉の向こうに広がっている。眉尻を下げた健琉の満面の笑みと一緒に。
     健琉のことが好きだと思うし、健琉が好いてくれているという自覚も、それなりにある。
     そういう自分になれたことは、正直いまさら照れくさいし恥ずかしい。けれども、嬉しくもあった。
     
     *
     
     炒めたひき肉に調味料を絡める。
     初めからお互いが特別であるように、健琉のつまみ食いが日常の光景になったように、この状況だっていつか『当たり前』になる、はずだ。うっかり健琉のことを考えてしまって、火を噴きそうなくらい恥ずかしくなっても、きっとそんなのは今だけで、きっと慣れる――そう思った先から、立ち上る香りをかいだ瞬間、あいつこういう甘辛いやつ好きなんよな、なんて考えて、またしても一瞬で耳まで熱い。
    「もう、なんやねん、いつまでこんなんやねん」
     一人でいるのをいいことに、声に出して悪態を吐く。火を通した後避けておいた野菜をフライパンに戻し、混ぜ合わせる。両手はちゃんと作り方を追いかけているが、頭の中は、恥ずかしさ、照れくささ、喜び、不安、それもこれも全部健琉の『せい』や、好きなんやからしゃあない、なんて、ありとあらゆる感情でいっぱいになっている。
     ――あかん、全然慣れる気がせえへん。どうしよう。どうしようも、ないんやろうな。
     混線する頭の中のわずかに冷静な場所では、これをどうにかする方法なんてきっとどこにもないのだと、わかってもいるのだ。だが、それならこの混沌とした気持ちもいっそ楽しんだらいい、と言えるほど達観もしていない。

     誰かを好きになって、その相手からも想われるということが、こんなにも複雑で、大変で、恥ずかしくてくすぐったくて、だけど嬉しい――なんて知らなかった。

     高校二年八月、夏休み真っ只中の中田周は、また一つ新しい知識を、身をもって習得しているところである。

    (続く)

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