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    瀧殿縁起 第一章「孤高の王」4

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     雨が降ったりやんだりの週末は先生とお母さんの庭仕事と買い物に付き合い、例の『進路希望調査票』は誰にも相談せず適当にこっちの大学名を書き、週の明けた月曜日は朝から少し強めの雨が降っていた。
     ゼロ限に出るための電車は、出勤や通学の乗客でそこそこに混んでいた。たぶん、羽戸駅を通過する電車で一番混み合うのがこの時間なのだ。
     雉師からのスクールバスはこの電車には間に合わないのだから、星野君がいるはずもない。だが、金曜日の帰宅時を思い出して、三月は進行方向右手のドアに目をやった。空いた車両のドアの横で、車窓の遠くを眺める星野君の表情はどこか物憂げで、容姿と相まって神秘的ですらあった。二人になれたのは初めてだったのに、ろくな話をしなかったな、と、今の三月が気にしているのはそれだけだ。
     もちろん、そのあと駅前で星野君から言われた言葉も忘れてはいないし、どういう意味なのか聞いてみたいのは間違いない。本人に聞いたらええ、と先生も言った。だが、それよりもっと聞きやすいはずの、あの日の視線、あの日の表情の意味さえずっと尋ねられずにいるのに、『気持ち悪いってどういう意味?』と、どうやって切り出せばいいのか。取り付く島もないなりに、追いかけて、話しかけて、やっと帰ってきた反応がアレなのだ。心が折れるとまでは言わないが――折るつもりもないが――、さすがに少し、作戦は変える必要があるのかもしれない。
     さて、どうしたらいいか。すぐに思いつくようなものでもない。あれこれ悩むくらいなら、今できることをやった方がいい――諦めが悪いときも、飽きたときも、切り替えが早いのは自分の長所だと思っている。
     そういうわけで三月はこの日も、ゼロ限が終わってから登校してきた星野君に、いつものようにおはようと挨拶をし――意外なことに、というか、そんな気はしていたというか、星野君もいつもと変わらずそっけない態度でうんと頷いただけだった――、昼間は例の陽キャグループとのくだらない話に興じ、そして七限が終わったらできる限り急いで星野君の後を追いかけるつもりでいた、のだが。
     七限が終わった後、あろうことか――星野君の方から三月に話しかけてきたのだった。
     チャイムが鳴る、教室に満ちるざわめき、教師が次回授業の予告をして教室を出る、丸まった背中を大きく伸ばして周りを見回す――そこに、星野君がいて、三月は一瞬固まってしまった。
    「えっ」
     思わず声が漏れた。すでに帰り支度を済ませ、黒いリュックを背負った星野君は、
    「春田――君、」
     と、どう呼ぶか迷った形跡をうかがわせながら三月に呼びかけて、
    「……その、……、金曜、ごめん」
     と一言、謝った。
     一瞬、クラス中が水を打ったように静かになった。三月の、ではない、星野君の行動に、注目しているのだ。
    「……えっ、と?」
     状況がまるでつかめず、三月にしては心もとなげな声が出た。星野君は詳しく説明するつもりはないらしく、
    「……そんだけ。じゃ」
     いつもより少し慌てたような様子で教室を出ていく。
    「え、えっ、あ、待って、ちょっと、待って」
     ハッと気が付いたときには、星野君の姿は廊下に消えていた。
     三月は急いでバッグにペンケースとテキストを放り込み立ち上がる。斜め前の席で、滝本さんがまるで『頑張って』とでも言うように、両手を握りしめて胸の前に掲げて見せた。その状況もよくわからないなりに、三月はがくがくと頷いて、
    「また明日!」
     と誰に言うでもなく声を張り上げ、教室を飛び出した。
     
     *
     
     星野君の足の速さは尋常ではない。
     雨の中でも泥跳ねも気にせず走るようなスピードだ。気付いてすぐに追いかけたのに、追いついたのは学校を出てずいぶん行ったところだった。
    「待って、待って星野君」
     呼びかけたって振り向くはずもないのは承知の上で、三月は紺色の大きな雨傘の背中に向かって声を上げた。多少の身長差はあるから、三月はストロークを活かして大股で駆け寄る。県道にたどり着いたところで星野君は傘を上げてちらりと振り返り、また視線を前に戻した。車道の信号が赤になる。渡るつもりなのか、と三月は察して、引き続きその後を追う。
     横断歩道を渡り、駅にたどり着き、傘を畳みながら階段を上り、流れるように改札を抜けて人の少ないホームへ降りて――電車が来るまで、あと一分。
     肩で息をする三月の横で、星野君は顔色一つ変えていない。
     荒く息を継ぎながら声をかける。
    「あの……、はあ……、星野君、足早いって、ついて来れて、よかった、けど」
     意図しない言葉が溢れてしまう。違う、今言うべきなのはそんなことではない。もう一度大きく息を吸って、吐いて、三月は言った。
    「その、……なに、ごめん、って」 
     星野君は、ちらりと横目で三月を見て、ちょっと気まずそうに視線を落とし、ぽつりと言った。
    「……、だから、金曜」
    「うん、」
    「……、気持ち悪いて言った、こと」
    「なん、で、」
     どういう意味だったのか、なぜそんなことを言ったのか、そういうつもりで尋ねた質問だったのに、星野君は『なぜ謝ったのか』と受け取ったようだった。そして、
    「怒られた、から」
     と――これまた予想外の返事をよこしてきた。
    「……え、誰に?」
    「さく……、滝本に」
    「えっ」
     滝本――下の名前は、さくら、だったか、さくや、だったか――さん。三月の斜め前の席に座る、髪の長い女子。陽キャグループのメンバーで、星野君とは小学生の頃の幼なじみで、さっきは三月に向かってガッツポーズのような仕草をして見せていた、彼女。だが、幼なじみだったとはいっても、教室で言葉を交わしているところは見たことがない――、星野君が言った。
    「何でもかんでも、気持ち悪いて言うな、て、メッセで」
    「……、え、と、」
     『メッセ』――携帯端末のメッセージアプリ。つまり星野君と滝本さんは、メッセでつながっている『友だち』なのだ。三月は、ここへ来てまだ誰ともIDを交換していない、が、それはさておき、
    「何でもかんでも、って?」
     と三月は尋ねた――そこへ、ホームに響く電子音とアナウンス。三月の呼吸はやっと落ち着いて、背筋を伸ばして電車の方を見る。いつも乗る、四両編成ロングシートの普通列車。ついでに見上げた西の空は、少し明るくなってきていた。
     例によって車内は空いている。星野君は金曜日とは違い、車両後方の三人掛けシートに腰を下ろした。三月もその隣に座る。向かい側も、ドアを挟んだ七人掛けのシートにも、乗客は誰もいない――どうやら、星野君は事情を話してくれるつもりなのかもしれない。
     電車が動き出してから三月は言った。
    「あの――、なんで滝本さんが知ってるの、金曜のこと。星野君が言った?」
    「言うてない」
     星野君は、両足の間に置いたリュックのポケットから携帯端末を取り出した。星野君がこういう操作をしているのはあまり見たことがないな、と新鮮な気持ちで眺めていると、その画面がズイと三月の前に差し出された。見慣れたメッセの画面。見ていいの、と尋ねると、星野君は頷いた。
     日付は今日、時間は十二時半ごろだから昼休みだろう。
    『春田君と何かあった? 金曜は一緒に帰ったんでしょ』
     ――そこからバレてるのか。
    『べつに なんで』
    『春田君が啓太のこと気にしてる感じが、先週より慎重やから』
     三月に向かっては星野君と呼んでいたが本人へは呼び捨てなのか、という気付き。しかしそれ以上に、滝本さんの観察眼の鋭さが気になる。今日の三月の態度が、先週よりも『探る』ような感じになっていたのは確かだった。そしてさらに衝撃だったのが、
    『なんか変な気がしたからきもちわるいて言った』
     という星野君の正直すぎる返事、それに対する滝本さんの、怒涛のスタンプ連打。三月の知らないアニメかマンガ、ファンシーなキャラクターたちが叫んでいる。
    『ウソでしょ!?』
    『アカーン』
    『アホなの?』
    『前にも言ったよね』
     そして、さらに続くメッセージ。
    『何でもかんでもその言葉使うのやめやって言ったでしょ!!!』
     出た――『何でもかんでも』。三月は顔を上げて隣の星野君に視線を流す。星野君は向かい側の窓から外を眺めていたが、その横顔は少し、居心地が悪そうに見えた。
     メッセは続く。
    『ごめん』
    『ウチに言ってどうするん、春田君にちゃんと謝り』
    『わかった』
     星野君の発言に『既読』のマークがついていて、対話はそこで終わっている。滝本さんに怒られた、という状況は、まあわかった。三月は携帯端末を星野君に返し、
    「なんか変、な感じ、だった?」
     と聞いてみた。星野君は少し躊躇ったように口をつぐんで、それから小さく頷いた。続けて尋ねる、
    「その……、変、ていうのはさ。見た感じ、とか、そういうの? それとも、挙動とか、態度とか? 話し方とか、その、言葉遣いとか?」
     お母さんと先生の話が頭をよぎって、それも付け足す。星野君はしばらく考えて、それから、あ、と小さく声をあげ、
    「……い、わ、かん?」
     と自信なさげに呟く。
     『違和感』。三月の何かに違和感を覚えた、それが、『気持ち悪い』――滝本さんの言葉の意味が、なんとなくわかってきた。何でもかんでも、というのはつまり、
    「もしかしてさ、収まりが悪い、とか、納得いかない、とか、そういうのも『気持ち悪い』になるの?」
    「……、なる」
    「風邪ひいたとかでさ、体調が悪いとか、吐き気がするとか、そういうときだって言うでしょ」
    「……、言う」
    「じゃあ、うーん、なんていうの、例えばさ、電車で見かけて可愛いなって思った人のあとを追いかけて、どこに住んでるのか確かめる、みたいなやつ」
    「それは、『キモい』」
     我ながら酷い例えだと思ったが、星野君は意図を汲んでくれたらしく、的確に答えて――そういうのはまた別なんだ、と三月は思った――、そして、肩を揺らしてちょっと笑った。
     星野君が、笑った。
     初めて触れる表情に、三月の心臓がドクンと跳ねた。そんな顔もするのか――三月は小さく息を吸い、その驚きはとりあえず置いておいて頭の中を整理する。つまり星野君のあの言葉は、三月の見た目だとか態度だとか言葉遣いだとか、そういうことに対する辛辣な感想ではなく、三月のなにがしかに星野君が違和感を抱いた、その落ち着かない気持ちを言い表したものだったわけだ。
     三月は、今度は深々と息を吐き出した。
    「よかった、嫌われたとか、そういうんじゃなくて……」
     そう呟いてから――三月は、自分で自分の言葉に驚いていた。
     自分は、星野君に嫌われることを恐れていた、のか――今初めて気がついた。
     あの発言を受けてなお、星野君に嫌われたかもしれない、という可能性に、三月は今まで全く思い至らなかったのだ。
     言葉には言葉を、笑顔には笑顔を返してくれる人たちは、要するにみんな三月に好意的だった。三月にとって、他者とはそういうものだった。その『他者』において、星野君は最初からイレギュラー。だから、必ずしも自分に対して好意的ではないかもしれないと、三月は気付くべきだった。なのにそんなことは全く考えず、毎朝挨拶をしたり、急いで追いかけて声をかけたりした。さっきの例え話ではないけれど、これは『気持ち悪い』と言われても仕方がないのでは――ああ、あれは『キモい』か、しかしそんなことはどっちだっていい。いまさら不安がこみ上げてきて、
    「……、そういうんじゃ、ない、の、かな?」
     恐る恐る尋ねると、星野君は横目で三月を見て小さく首を振り、言い切った。
    「違う」
     それで三月はもう一度、ふうっと息を吐き出した――よかった。
     よかった、けれどもそれならば、星野君が三月に抱いた『違和感』というのは、一体何だったのだろう。初めて顔を合わせたときに星野君が見せたあの表情、三月に向けたあの視線は、その違和感に関係があるのだろうか。
     今なら聞ける気がして、三月は言った。
    「――僕が転校してきて、最初に挨拶したときさ、星野君すごい驚いてなかった?」
    「……、うん」
     星野君が頷く。
    「あれは、どうして?」
    「……、あれは、……、似てたから」
    「誰に?」
    「……もう、会えん人」
     その答えに、三月は一瞬息を飲んだ。
     深読みしようと思えばいくらでもできそうな言葉――どこか遠くに引っ越したとか、そういうことならそう言うだろう、とは思う。でも、そうじゃなかったら。
    「……、そっか」
     三月の返事はそれだけにとどめて、あとは二人、肩を並べて、羽戸に着くまで電車に揺られた。
     
     *
     
     駅を出ると、雨はすっかりやんでいた。雨が上がった後の雨傘ほど持て余すものはない。星野君がロータリーで立ち止まるのを見て、三月は金曜日に聞けなかったことを尋ねてみた。
    「星野君の乗るバスはどこまで来るの。中学校の方?」
     星野君は首を横に振り、
    「ここ」
     と言った。
    「あれ、そうなんだ。でも、こないだはあっちの方に走ってったでしょ」
    「コンビニ、あるから。走らな濡れるし」
    「え、雨宿り、しに?」
    「買い物。雨宿りやったら、駅でええやん」
     それは確かに。なんだか自分がおかしなことを言っている気がして、三月は笑った。地図で見た限りでは『駅前の』と呼ぶには少し遠いが、確かにこの先の県道沿いに、チェーンのコンビニが一軒あったのを三月は思い出した。あのとき星野君が走り去ったのは、一刻も早く三月から離れるためだとか、顔も見たくない声も聴きたくない、とか、そういうことではなく――単に、コンビニに用事があっただけなのだ。
    「え、じゃあバスが来るまで、まだ時間あるの?」
     星野君は頷いた。
    「でも、次やったら間に合わへん」
    「ああ、なるほど」
     次の『電車』だと間に合わない――今の時間帯なら、学校の最寄り駅を出る電車は二十分に一本のダイヤ。スクールバスは、当然のことながら時刻表に合わせた運行ではないのだろう。
     相変わらず人気のない駅前だ、それならここで、もう少し話をしていてもいいかな――不意に星野君が、まじまじと三月の顔を見た。
     あのときほど強い視線ではない、しかし確かに、三月の何かを見透かすような目。ドクン。
    「……、なに?」
     三月が問うと、星野君は少し考えこんで――おそらく言葉を探しているのだ――言った。
    「わかった、かも。違和感、の理由」
    「え」
    「お前、思ってることと、言ってることが違うような感じがしたから」
     言い淀んでいた『春田君』呼びはやめて、一足飛びに『お前』になった。
     だが三月はそれが、嫌ではなかった。むしろ嬉しいとすら思った。
     そして同時に、星野君が言わんとしている言葉自体にも察しがついてしまった。思わず傘の柄を握りしめる――彼は、『気付いている』。
    「それが、違和感?」
     冷静な振りをして聞き返すと、星野君が言った。
    「ホンマの顔が、見えへんて思って」
    「……、」
     『ホンマの顔』――そんなの絶対見せない。見せられない。穏やかに、控えめに、出しゃばらず、波風を立てず、与えられた役割を果たす。そうしていれば、三月には安寧の地が約束されている。期待しない。執着しない。そういう自分であるために仮面を被り始めたのはいつの頃だろう。
     星野君は続けた。
    「笑っててもつまんなさそうやし、滝本らと仲良さそうにしてるけど、気ィ張ってるていうか、許してないっていうか、線引いてる。それが、違和感」
     彼は、気付いている――そんな人間は、今まで三月の周りにはいなかった。ドクン、ドクンと胸が高鳴る。三月は言った。
    「今は、どう?」
     星野君は、パチパチと目を瞬かせて、言った。
    「今は――別に、なんとも思わん、けど」
    「うん。今は、だって何にも隠してないから」
     隠していないというよりは、隠す余裕がない、あるいは隠す気がない、というのが本当のところかもしれない。星野君の前でも取り繕うつもりなら、いつもの三月は間違っても『嫌われたんじゃなくてよかった』なんて、絶対に言わない。
     学校で星野君に謝られて、驚いて、なりふり構わず追いかけた。たぶんそのときからすでに、三月の仮面は外れている。
    「……、」
     彼は気付いている。それなら、隠さなくていい。身構えなくていい。仮面を被らなくていい。それがひどく安心した。それがとても、嬉しかった。
    「見透かされてるみたいな気がするって思ってた。ほんとに見透かされてて、びっくりしてる」
     三月が言うと、星野君は少し戸惑ったような視線を向けてきた。
    「『ホンマの顔』、見せてないのはその通りだし、クラスの人の前では気、張ってる。線も引いてる」
    「なんで、」
    「ずっとそうだったからかなあ。前の学校でも――中学のときから。そうした方がいいって気付いたのは小学校の頃だけど――いや、まあ、でもそんなことはどうでもよくてさ、僕が言いたいのは、今は何にも隠してない、ってこと」
    「……うん……?」
     三月だってできることなら、期待したいし、執着したい。望んだものを奪われたくない。嫌われたくない。何なら好かれたい。自分から進んで仲良くなって、相手のことを知りたい――今は何より、星野君のことを。
    「星野君にはわかっちゃう、っていうか、見えちゃうんだね。なんでだろうな、でも、それが星野君でよかった」
    「……、」
    「星野君、最初に会ったときも、さっきのなんでもお見通しみたいな目してたでしょ。驚いた顔でこっち見て、そんな視線向けてきて、何なんだろうって思ってた。星野君のこと知りたいって思ったのは、それが最初。他の人と違うし、全然会話になんないし、気持ち悪いとか言うし、」
    「だから、それは、ごめん、って……、」
    「や、それはいいんだ。だってそれで、星野君に嫌われたくないって気付いたし」
     バスが来るまで、あとどのくらい時間があるのだろう。この際だから、言いたいことを全部言ってしまおう、と三月は思った。星野君は、なんだか居心地が悪そうに身じろぎをした。だが三月はそれを見て見ぬ振りをして続ける。
    「星野君のこと知りたいし、嫌われたくない。僕は星野君と友達になりたい」
     自分から誰かと友達になりたい、だなんて、そんなことを言ったのは初めてだった。
     星野君はパチパチと瞬きをして、それから、きゅっと眉根を寄せた。凛々しい表情に陰りが見える――これは、困ったような顔、だろうか。
    「……そんなん、わざわざ言うこと、ちゃうやろ」
    「わざわざ言わなきゃ、伝わらないこともあるでしょ。ま、今のは僕が言いたかっただけ」
    「なんやねん、それ」
     星野君が呆れたように言い、そして笑った。
     星野君の態度が、ずいぶん柔らかくなったような気がする。そして、思っていたよりも饒舌だ。普段学校で口数が少ない理由はわからないが、もしかしたら本来の彼はそうでもないのかも。三月が裏表のない態度でいるから、違和感がないから、気を許してくれているのだろうか――なんて。
     雨が上がったのはいいが、同時に日差しも出てきた。この季節の西日は、眩しいし暑い。
    「うわ、今全然風吹かないね。蒸し暑いなあ、まだ慣れてないんだよね、この気候。湿度高いと、髪の毛とかぶわぶわになるし」
    「言うてたな」
     と星野君が頷く。この話をしたのは――金曜の放課後、あの『取り付く島もなかった』電車の中だ。話題の広がりようがなくて、無難な天気の話に終始したあの日。まさか、
    「聞いてたんだ!?」
     三月が驚いて尋ねると、星野君は少し嫌そうな顔をして、
    「聞いてたし」
     とどこか拗ねたような口調で答えた。
    「だって、なんか――あんまり興味ないのかな、って思って。反応ないから……」
    「それ、は、……、オレが、うまくできへんから。返事、とか」
    「え?」
    「なんて答えていいかわからんかったり、言葉、見つからんくて探したりとかしてて、……その間に話変わったりするし。そういうの、うまくできへんのに、話も聞いてなかったら、最悪や」
     訥々と言い募る星野君を見て、三月は思わず、ふふっと笑ってしまった。凛々しいとかきれいだとか、星野君に対して思い浮かぶ形容詞はいくつかあるが、今は『かわいい』だ。
     やっぱり星野君は、普通の高校二年生。容姿は確かに人目を惹くが、今ここにいる星野君には『異質さ』なんてどこにもない。口数が少ないのには理由があって、人を寄せ付けないわけでもなくて、だから彼は、――『孤高の王』なんかじゃ、ないのかも。

     南方面からロータリーに繋がる道を、白い小型のバスが走ってきた。星野君が、あ、と声を上げたところを見ると、あれがスクールバスなのだろう。
     間際に星野君から押し付けられた携帯端末の画面からメッセのIDを登録し――『友だち』になりたい、って、そういう意味ではないんだけど、伝わってるのかな――、端末を返したところにバスが到着した。
     羽戸町教育委員会と書かれたスライドドアが開き、運転手が星野君に向かって、おかえり、と声をかける。座席に座っているのは小学生が四人、中学生が三人。みんな一様に三月に注目している。星野君が誰かと一緒にいるのが珍しいのかもしれない。調子に乗って、こんにちは、と挨拶をすると、小学生は声を張り上げて、中学生はぼそぼそと、それでもみんな挨拶を返してくれた。
    「――また明日」
     星野君は三月にそう言って、車に乗り込んだ。
    「うん、また明日!」
     三月が応え、ドアが閉まる。一歩下がると、車が動き出した。星野君に見えたかどうか、ロータリーを回って走り去るスクールバスに向かって、三月はひらひらと自分の携帯端末を掲げた――メッセ、するからね。登録したってことは、そういうことだよね。星野君の少し嫌そうな顔が目に浮かぶ。もしかしたらあれは、照れ隠しのような何か、なのかもしれない。
     三月はもう一度、手の中の端末に目を向けて、それをいつもよりも丁寧にバッグにしまった。
     ここしばらくは、まるでゲーム専用になっていた。つまらないメッセージを時折届けてくるばかりのアプリが、星野君の連絡先を登録した今は光り輝いて見える。ゲームをしていないときは充電しているかバッグに放り込んだままだったが、今日からはちゃんと、手元に置くようにしよう。
     久しぶりの――いや、もしかしたら、今まで味わったことのない高揚感。星野君のことを知りたいと思った、知りたいと言えた、新しい一面を知ることができた。レベルが上がって、いろんなシナリオが一度に解放されたような充足感、だがこれからは、もうゲームではない。自分一人では完結しないし、させてはいけない。飽きたらやめる、なんてもってのほか――だって、相手は星野君だ。コンピューターやシナリオじゃない、生身の人間。攻略クエスト、なんて考えていたことが、恥ずかしいような、申し訳ないような気持ち。
     それに、彼には何一つ隠さなくていい――身構えなくていい、振りをしなくていい、仮面を被らなくていい。攻略も作戦もない、『ホンマの顔』のまま、素直に真っすぐ向き合えばいいのだ。
     そうできることが何よりも――三月には嬉しい。
     ――ここは『あの家』じゃない。星野君は『あいつら』じゃない。
     スキップしたいくらいなのをどうにか我慢して、三月は家路についた。

    (続く)

    ※こちらは2023年8月12日発行の同人誌『瀧殿縁起』のサンプルです。

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    瀧殿縁起 第一章「孤高の王」3

     
     3

     夕立はすぐに止んだ。だが、星野君の言葉に気を取られたあのわずかの時間で、三月は頭の先からつま先までびしょぬれになった。
     幸いバッグの中はそこまで酷い状況ではない。ハンカチを取り出しとにかく頭と顔をぬぐいながら、踏切を渡って駅の裏手に出て、古い住宅街を通り抜ける。春になるとちょっとした花見スポットになるという桜堤の川沿いを北へ歩いて、自動販売機の角を曲がった少し先に、目的地が見えてくる。
     ブロック塀に囲まれたそこそこ大きな門構え、ごく一般的な日本家屋、にしては、実は部屋数が多い。薄くなって消えかかった看板『しのはら荘』が、往時の姿を偲ばせる――と言っても、そもそも三月は、その全盛期を知らない。
     『帰ってきたら、大きな声で挨拶をすること』、ここで暮らすルールの一つ。これがいまだに慣れなくて――変に照れてしまうのだ――、三月はとりあえずポケットにハンカチを仕舞い、すっと息を吸って玄関の引戸に手をかけた。そのとき、玄関の横手の前庭から、あらららら、と高い声が響いた。
    「三月君、傘持ってへんかったの!? 雨宿り間に合わんかった?」
     強い夕立が通り過ぎたので、庭の植木の様子を見回っていたのだろう。いつものエプロン姿の上から薄手のパーカーを羽織り、長靴にジーンズの裾を押し込んだ『お母さん』が、すっかり濡れねずみの三月を見て目を丸くしている。
    「あ、えっと、傘、持ってたんだけど出すの間に合わなくて」
     三月の返事を聞いているのかいないのか、お母さんは玄関の戸を勢いよく開けて、家の中に呼ばわった。
    「お父さあん、バスタオル持ってきてえ。新しいの」
     中から間延びした返事が聞こえる。今日は『先生』もいるらしい。
    「お風呂直ぐするけど取り敢えず着替えといで! あらら靴もびしょびしょ。お父さん、足ふきもお願い、って私行った方早いわ」
     くるくると忙しく立ち回り、さっと長靴を脱いで式台に上がったところで、お母さんはぴたりと歩を止めた。振り返ってにっこりと微笑んで、三月に言う。
    「挨拶、まだやったね」 
     すっかりタイミングを逸していた、ここの『ルール』。三月は慌てて居住まいを正し――そんなかしこまらんでもええのよ、と前から言われてはいるのだが、慣れていないので覚悟がいるのだ――、すっと息を吸い意を決してから、言った。
    「ただいま!」
    「はい、お帰り!」
     そう答えたのはお母さんと、廊下の奥からタオルを持って出てきた初老の男性――『先生』だ。
     長身で痩せ型、知的な雰囲気の細面。鼈甲フレームの眼鏡の向こうで柔和な笑みを浮かべ、先生はタオルを広げてくれた。三月はそれを受け取って頭から被り、靴下を脱いでいる間にお母さんが足ふきを持って戻ってくる。そんなに降ってたんか、と玄関の戸から外を伺う先生に、窓閉めてって言うたでしょ、聞いてなかったん、と呆れた声をかけるお母さん。二人は賑やかに三月の世話を焼いてくれる。
     学校から家に帰っても、家族は誰もいないのが当たり前だったから、こんな風に誰かに世話を焼かれることや、まして大きな声で挨拶をする、という習慣に、三月は慣れていない。
     決して、馴染めない――馴染みたくないわけではない。ただ、まだ慣れない――恥ずかしい、照れくさい。だが嫌いじゃないし、特に今日みたいな日は、素直にありがたいと思った。
     
     先生とお母さんが切り盛りする下宿屋『しのはら荘』――『だった』家。それが今の三月の住まいである。
     
     *

     遡って五月の下旬。
     引っ越しと呼ぶのも気が引けるほど簡単に荷物をまとめて実家を出て――追い出されて、というのが三月の体感だ――新幹線駅まで送られる車の後部座席で母親から聞いた三月の行先についての説明は、『昔お世話になった先生のお宅』、その一言だけ。母の言葉が三月からの返答を求めているわけではないことは、よく知っている。
     そんな説明でもないよりマシだ。誰がいつどういう形で世話になったのかは知らないが、春田の家と関わりがあって、『先生』と呼ばれる身分の人の家。母の言葉に、そう、と答えて、あとはお互い、一言も口を聞かなかった。
     知らない人の家で暮らすという状況に、確かに不安はあったのだが、さすがに命の危険というようなことはないだろうと思ったし、一応これは三月なりの計画でもあったわけだから、大きく見れば成功と言っていい。
     新幹線に乗ってから、携帯端末で目的の駅を検索して、三月はほんの少し怖気付いた。県をいくつもまたいだ先の、想像した以上の『僻地』。駅前にコンビニなんかないし、どう検索してもカフェどころか飲食店も、スーパーもない。学校は――そこよりは少し『街』のようだが、それでも実家のあたりの商業施設の規模とは比べ物にならない。
     いや、でも、と三月は頭を振った。ここではないどこかなら、どこでもいい。今この状況から逃れられるなら、なんだっていい。そういう計画だったんだから、そんなの十分、覚悟の上だ――。
     新幹線からローカル線を乗り継ぎ、車窓からビルや店舗がどんどん消えていく。やがて民家さえもまばらになり、さすがの三月も気持ちがだんだん弱ってきて、くじけそうになった頃、羽戸駅まで迎えに来てくれていた老夫妻に名前を呼ばれ、不覚にも三月は泣きそうになった。二人そろって人の好い笑顔で、待ってたよ、と迎えてくれた――それで心底、安心したのだ。
      
     三月がこの街で暮らすことになる家は、マンションやアパートではなく、学校の寮でもない、『下宿屋』と呼ばれる施設『だった』――過去形である。下宿としての営業は何年か前に終えていたらしく、だから正確に言うと三月は下宿生や店子ではなく『居候』だ。だったらなおのこと、どういう経緯で自分がこの家に来ることになったのか、もう利用者を受け入れていないのに迷惑ではないのか、そもそも『先生』というのは何なのか、世話になったのは誰なのか。老夫妻――篠原博、久美子夫妻、共に六十代から七十代といったところ――は、家に着くとまず三月を居間に通して日本茶と菓子を振舞い、それから三月の疑問を察したようにこう言った。
    「そうやな、ややこしいことだけ先言うとこか、三月君が気にしたらあかんしな」
     篠原氏は座卓の前に居住まいを正し、ずり下がるメガネを両手で直して、そして続けた。
     三月の生活費については、春田の家とちゃんと約束ができているので心配しなくていいこと、普段の小遣いは今まで通り――で、わかるんかな、と篠原氏が問うので、三月は頷いた。まるで給料のように定期的に銀行口座に振り込まれるのだが、なんとなくそれは言わないでおいた――、学校へは三月の保護者兼後見のような立場で了解を得ていること、風呂付き食事付き、洗濯・掃除は嫌でなければお任せ、だからせいぜい『親戚の家で暮らしてる』くらいに思ってくれたらいい、ということ。
     それだけまとめて説明してから、篠原氏は湯呑みに口をつけた。
    「とにかく、三月君は、何も心配せんでええからね」
     篠原夫人が微笑む。金銭面や日々の生活のことは確かに重要なのだが、正直ここへくるまでほとんど気にかけていなかった。三月は密かに反省し、はい、と頷いて、不安はないことを示すつもりで日本茶に手をつけた。振舞われた菓子は地元産の抹茶を使ったという餅菓子で、どこか懐かしいような味がした。
     膝を崩して篠原氏が言う。
    「ウチはもともと大学生相手の下宿屋でね、『しのはら荘』ゆうて。今はもう学生さんもおらんなって下宿屋は畳んだんやけど、三月君のお母さんから連絡もろて、こんなジジババでも役に立てるんやったらお預かりしますよ、言うて」
    「え、母、ですか?」
     意外な言葉に驚き、三月は目を丸くした。
    「そう。まあ、昔ね。ご縁があって」
     そう言って、二人してどこか懐かしいような表情を浮かべる。
     先生なんて呼ばれるような身分の人なら、てっきり祖父の関係だと思っていた。そんな、まさか、『あの母』がこんな人のよさそうな老夫妻と縁があったなんて想像もできない――だが、母は確かに、
    「昔お世話になった先生、って……」
     思い出して三月が言うと、篠原氏がははっと笑った。
    「お世話ちゅうほどのことは何もしてないけど、まあ僕はあの頃大学で教えてたから、先生には違いないな」
    「え、じゃあ母はもしかして、教え子とか、そういうのですか?」
    「いやいや、そうではないんやけど――しかし、『先生』て、懐かしなあ」
     篠原氏が目を細めた。夫人もその隣で微笑む。
    「学生さんも、主人の学校の子が多かったから、みんな先生て呼んでくれて、ねえ。私のことも『お母さん』て言うてくれて」
     今いる居間は夫妻の居住空間だろう。テレビの横にいくつか写真立てが並んでいて、それはいずれも男子学生たちに囲まれた夫妻が写っていた――しのはら荘で暮らしていた下宿生たちとの記念写真のようだ。
     開け放たれたふすまの向こうに見える食事室は、夫妻二人には広すぎる。大きな食器棚に、茶碗と味噌汁椀のセットがいくつか見えていた。下宿生用の居室は二階に六部屋あるらしく、つまり最大六人の下宿生が、ここで夫妻とともに生活していたのだろう。そういう暮らしを三月は全く知らないが、想像することはできる。
     今の二人にとって、それはたぶん特別な日々だったのだ。飾られた写真、二人の表情からもそれは十分察せられる。夫妻が在りし日を懐かしみ、昔取った杵柄とばかりに三月を受け入れてくれた、その経緯は想像に難くないし、素直にありがたかった。それなら、三月一人ではおそらくかつての賑やかさには到底及ばないが、少しでも彼らのよすがを支えたい――しのはら荘で初めての夜を過ごした朝、三月はなんとなくそんな気持ちになった。
    「あの、僕も『先生』と『お母さん』て、呼んでいいですか」
     朝食を前にして、三月は二人に申し出た。
     先生はともかく、『お母さん』の方は、少しハードルを感じる――だが三月がそう言うと、今度は夫妻が揃って目を丸くして、それからちょっと照れたようにはにかんで、
    「僕もう先生とちゃうけどな。この人も、もうお母さんて歳と違うやろ、おばあさんやで」
    「失礼やと言いたいけど、ほんまやわ」
     二人して、ふふふ、と笑った。
     だからそれから三月は、二人を先生、お母さん、と呼んでいる。
     昔から三月は人見知りをしない――というか、できない――タイプだったが、この老夫婦は、自分たちから相手の殻を破らせ、相手の矛を収めさせるような、穏やかな暖かさをまとっている、そんな気がした。それは三月が、これまで触れたことのなかった温もりだった。
     元下宿屋『しのはら荘』大家の、篠原博・久美子夫妻。夫の博――『先生』は、もう先生ではないとは言ったが、大学教授を引退し、今は在野の郷土史家という身分なのだそうだ。著作も何冊か見せてもらった。それならやっぱり『先生』には違いない。妻の久美子――『お母さん』は、これまでは下宿の管理全般を担っていたそうだが、下宿屋を畳んでからは、この町唯一の大企業と言われている製茶工場で週に四回、賄いのパートをしている。夫妻が『お父さん』『お母さん』と呼び合っているところを見ると、どうやら子供世代の家族もいるらしいが、後を継がなかったのだなと三月は思った。

     しのはら荘での暮らしは、馴染みのない体験の連続だった。
     与えられた居室は南向きの六畳一間。畳に布団、襖と押入れの部屋というのがまず初めてだ。テレビ線はないけどネットはいけるよと先生が言う――大学生向けの下宿には、もうかなり以前から必須の環境だったようだ。無線環境まで整っていたのは恐れ入ったが、ありがたかった。三月の唯一の趣味であるソシャゲ環境も維持できる。ゲームするのに繋いでいいですかと念のため申し出たら、そんなん好きにしィ、と笑われた。
     食事はお母さんが用意してくれて、食事室で夫妻と一緒に食べる。普段の食事を誰かと食べるのも久しぶりだったし、そもそも作り置きじゃない『出来立て』だ。朝食が和食なのも三月のこれまでの人生にはなかった習慣だったが、これは案外直ぐ慣れた。朝食を抜くこともなくなってしまった。
     一周回ってカッコよくすら見える洗面室と風呂場とトイレは、下宿屋の頃のままだからか、やたら広くてタイル張り。広い玄関には、最大六人の下宿生が使っていた、大きなシュークローゼット――というよりはたぶん、『下駄箱』と呼ぶのが相応しい。南側の前庭に面した長い縁側、舗装していない地面の駐車スペースにはクリーム色の軽自動車、農具なんかをしまっているらしい木製の『納屋』――いわゆる田舎の民家の設えは、新鮮といえば新鮮、そして知らないのに懐かしい。そのうちそういうもんと思って気にならんから、とお母さんは笑う。
     田舎といえばよく聞く『鍵をかけない』ような習慣はさすがにないらしいが――一時期、盗難騒ぎが多発したのだそうだ――近所の人がふらりとやってきては、縁側で先生やお母さんとひとしきり長話をして、採れすぎた野菜を大量に置いていく。転入手続きが終わらない三日ほどの間、三月はしのはら荘で待機を余儀なくされたので、その間何人かのお客さんとは挨拶をした。いずれも篠原夫妻と同年代のお年寄りで、みんな口を揃えたように、あらまあそうかぁ、えらいシュッとしたお兄ちゃんやなぁ、と言って笑った。何人かは菓子をくれた。見た目を形容する言葉なのは、何となくわかった。
     基本的に人の少ない静かな町。だが訪ねてくる客はみんな、しゃべり、笑い、ほなまた、と楽しそうに帰っていく。夫妻の人柄の所以かもしれない。夜の闇は濃く、虫の声、獣の声、鳥の声、蛙の声、遠くを走り抜ける車やバイクの音――たぶん昼間より騒がしい。入居して二、三日はなかなか寝付けなかったが、それが嫌だとは思わなかったし、お母さんの言う通り、ほんとうにそのうち慣れてしまった。
     
     三月はずっと、ここではないどこかに行きたかった。
     知らないどこかに帰りたいような気がしていた。
     この状況から逃げ出したかった。
     先生たちは、どこまで知ってるんだろうか――春田の家の事情や、三月の置かれている状況について。だが、二人は三月に一切を尋ねず、まるで昔からよく知っている存在のように、ただ優しく、温かく迎えてくれたのだった。
     例えば、祖父とか、祖母とか――三月の知らない、ただ想像するばかりの、血の温もり。

     *

     部屋着に着替えて階下に降りると麦茶が用意されていて、人心地つけた頃に風呂が沸く。風呂場に追いやられて湯に浸かり、出てきた頃には、お母さんは夕食の準備、先生は居間のテレビでニュースを見ていた。なんだか『普通の家族』みたいだ――三月がしのはら荘で暮らす上で感じている恥ずかしさ、照れ臭さ、ほんのわずかな不安が、凝縮されたようなひととき。
     三月の場所としてあてがわれた食卓の椅子に座り、横目で居間のテレビに目をやりながら、さっきの麦茶の残りを飲む。しみじみ美味しい。窓の向こうに広がる西の空は赤とも青とも紫ともつかない夕焼けの色をして、夏至前の空を彩っていた。
     テレビを消して、小上がり風になっている居間から先生が食事室に降りてきた。三月の斜め向かいの椅子に座り、そこらに置きっぱなしだった新聞を手に取り、眼鏡を額の上に押し上げながら先生が言う。
    「今日は、なんぞ楽しいことはあったかい」
     先生は時々こうやって、三月の学校生活のことを尋ねてくる。預かり子である三月がきちんと学校に行っているか、ちゃんと勉強しているかを気にしているのか――と考えるのはずいぶんひねくれていたな、と、今の三月は反省している。先生やお母さんの三月に向けた態度は、そういう利己的な心配ではない。もっと真っすぐな、それはたぶん『愛情』と呼ばれる類のものだ。先生が最初に言った『親戚の家で暮らしている』という言葉も、おそらくそういう意味だったのだろう。ただし、三月自身は親戚間の愛情など全く知らないのだけれど。
     下宿屋をやっていた頃も、学生たちに対してこんな風に接していたのかな、と三月は想像した。地方から出てきた学生たちを受け入れ、励まし、応援し、支えてきた二人。そういうことができる人たち。
     楽しいこと――では、ない。だが、三月は風呂に入っている間も今も、さっきの星野君の言葉を思い返していた。だから、思い切って訊いてみた。
    「あの、……僕って気持ち悪い、ですか」
    「ええっ?」
     素っ頓狂な声を上げたのは、先生ではなく、台所にいるお母さんだった。部屋は別れているが戸は開け放たれており、食事室の話が聞こえていたらしい。先生はただ、新聞から顔を上げて、三月の顔をまじまじと見ていた。
    「なんや急に――誰かに何か言われたんか?」
     先生が少し心配そうな色をした声で聞き返してきた。心配させるのは本意ではないから、
    「や、その、まあそんなような感じのことを、ちらっと、なんですけど、」
    「そんなこと、ない! 絶対ないよ。誰やそんなん言うの」
     三月の言葉に被せるように、お母さんが言い放った。三月は一瞬息を飲み、それから――笑って見せた。そう言わせたくて尋ねたのに、当たり前のように、しかもこんなに力強く否定されると、驚き半分、喜び半分。三月は照れ隠しで言葉を継いで、
    「ですよね。どっちかっていうと、感じいい方だと自分でも思うんです」
     しれっと言ってのけたら、今度はお母さんと先生が目を丸くした。
     家庭環境の割には、三月の自己肯定感は高い――いや、周囲のおかげで高くなった。
     家族や親族との関係は最悪だし、その中で自分という存在を認められたことはたぶん一度もない。だが逆に他人との関係は恵まれてきたように思う。言葉には言葉で、笑顔には笑顔を返してくれたこれまでのクラスメイトや教師、習い事の先生、三月に期待してくれた人たち。そして、彼らの期待を裏切らなかった三月自身の態度――出しゃばらず控えめに謙虚に、自分に与えられた役割を果たしてきた、その甲斐あって春田三月という存在の他人からの評価は高く、好かれ、褒められ、存在を認められ――結果として、今の自分がある。
     先生が笑いながら言った。
    「自分で言い切れるのはええことや」
     どうやら、心配しなくてもよさそうだとわかってもらえたらしい――そうなのだ。確かに星野君から『気持ち悪い』と言われたこと自体にショックは受けたが、それは単にその手の言葉を久しく聞かなかったからで、言葉の意味に打ちひしがれたわけではない。
     三月が気になったのはむしろ、三月に向かってそう言い放った星野君の意図についてだ。
    「その、なんでそんなこと、言ったのかなと思って。相手が」
     これまでも、今日の放課後も、星野君とはろくに会話が成立しなかった。その距離感で『気持ち悪い』と思われるようなことなんて、あるだろうか? 普通は――といって、何が普通かなんて三月にはわからないが――ないと思う。だが、星野君は三月に向かって確かにそう言った。一体、なぜか。
     先生が言った。
    「気になるんやったら、本人に聞くことやなあ」
    「聞いたら、教えてくれるかな」
    「教えてくれるまで聞いたらええがな。それどういう意味やて。もしかしたら、こっちが思いもせん意味で言うてるかもしれん」
     他人に対して投げられた『気持ち悪い』という言葉が、何か別の意味を持つ可能性。それこそ、そんなことがあるだろうか――お母さんが包丁を使いながら、その背中で少し笑った。
    「昔、話し方が違うことを『声が違う』って言ってた子、おったねえ」
    「ああ、うん。ふふ」
     先生も頷きながら笑い、続けた。
    「子供の話やけどな。その子は『声』ちゅう言葉に、言葉遣いとか、方言とか、イントネーションとか、まあそういう意味全部を持たせてそう言うてたんや。その子の場合は単純に、まだ言葉を知らんかっただけやけど――まあしかし、言葉の意味というのは、言う人、言う相手、受け取る側の気持ち、時と場合によっても変わるもんやから。言うた本人にしか、本当のところはわからん」
     先生の言葉に、三月ははい、と頷いた。
     その言葉の額面通り、星野君は三月のことを気持ち悪いと思っていたのなら、なぜそう思うのかを知りたい。どうすればそう思われずに済むのか知りたい。先生の言うように、その言葉に別の意味が宿っているのなら、どういう意味で言ったのかが知りたい――三月は、星野君のことを知りたいのだ。
     星野君について知りたいことが、また増えてしまった。あの日の表情の意味、あの日の視線の意味、そして今日の言葉の意味。だが、新たに知ったこともある。星野君のゼロ限と七限の謎、星野君が暮らす集落のこと――ふと思い出して、三月は先生に尋ねた。
    「あの……、『雉師』って、どんなところですか」
     滝本さんが言っていた、曲がりくねった林道を登った先の集落。星野君がバスで帰る先。
    「ん、なんや。雉師で何かあったんか?」
     新聞に目を落としていた先生が、顔を上げ、両手で眼鏡を戻して言った。
    「や、あの、クラスの人が――昔住んでたって話をしてて。スクールバスで小学校まで来るのが大変だったって」
     星野君ではなく滝本さん自身の話という体で、三月は言った。そうとは言わずともさっきまで星野君の話をしていたのだ、わざわざ話題をつなげる必要もないと思った――隠したとか、そういうことではなくて。
    「はあ、そうやなあ。昔は人ももっとおったから、小学校も中学校も分校があったんやけど、どっちも閉校してしもたから。それで引っ越す人もおったみたいやから、悪循環やったんやろなあ。そらちょっと山奥やけど、ええところやで。あっこに通ってる道は、この辺では一番古い、山越の街道なんや。車なんかなかった頃は、歩いて山越える人がぎょうさん通ったんやで。瀧殿神社ていう神社があってな、きれいな池と瀧があって――」
     先生がまるで夢を見るような仕草で呟いて、ふっと言葉を止めた。何事かと視線をその顔を伺うと、先生は不意にニヤリと笑って、
    「その池の底にはな、龍が住んでるんや」
     と言った。

    瀧殿縁起 第一章「孤高の王」 4 ≫

    ※こちらは2023年8月12日発行の同人誌『瀧殿縁起』のサンプルです。

  • テキスト

    瀧殿縁起 第一章「孤高の王」2

     
     2

    「両親の海外転勤で、親戚の家に預けられることになりました」
     という、設定である。
     三月はクラス全員を前にして転入の挨拶をしながら、ぐるりと教室を見渡した。それだけでも、クラスの空気感というのはなんとなくわかる。転校の初日、朝一番の――と言ってもこのクラスは特進なのでゼロ限を終えた後の――朝学活の時間。
     教室後方のロッカー――扉も鍵もついてないただの棚――は全体的に片付いていたし、掲示物も整然と貼られている。バッグはみんな机の横にかけていて、大体黒のリュックやスクールバッグ。派手な色のものと言ったらおそらく運動部の生徒のバッグにフェルト製のぬいぐるみがぶら下がっている程度で、総じて落ち着いていた。衣替えを前にして暑い日が続いていたからみんなブレザーは着ていなかったが、ネクタイもリボンタイもみんなちゃんと結んでいたし、奇抜な髪形や髪色の生徒もいない――そのとき、ふっと気付いて、視線を戻した。
     窓際前から二番目、きっとつまらなさそうに頬杖をついていたに違いない、その手が中途半端な高さで握られていて、そこに乗っていたはずの顔が、なぜか驚いたような表情で三月を見つめている。三月が一瞬見つめ返すと、彼はパチパチと目を瞬かせ、それからすぐに視線を外した。
     それが、三月と星野君の最初の出会い――正確に言えば、三月が星野君を認識した最初のシーン、だ。
     そのときは当然、まだ名前も知らない。最初に惹かれたのは美しい褐色の肌の色。だが次の瞬間、その表情と眼差しに射抜かれた。
     お化けでも見たような、という表現が正しいのかどうかはわからない、ただ、星野君は、どこまでも真っすぐで真っ黒な瞳で、驚愕の中に三月の何かを――存在自体を――見定めるような、確かめるような、強い眼差しを向けていた。
     異性から、ときには同性からも、注目を集める容姿をしている自覚はある。だが、彼の視線はたぶん、そういう種類のものではないと思った。
     何、今の、その目は――気になる。
     彼の視線の意味、表情の意味を、知りたい。普段の三月は他人への興味が薄いのに、この衝動はとても珍しい。
     それから二、三日のうちに、三月は彼の名前を知り、可能な範囲で彼の人となりを知り、彼の学校生活のパターンを知った。
     星野啓太、千鳥高校二年三組の生徒。部活動には所属していない、いわゆる帰宅部。三月の見た感じでは、特別仲の良い友達はいないらしい。特進クラスにいるくらいなので勉強もそこそこはできるようだ。特筆すべきなのは運動神経の良さ。足も速い。
     そして――彼は恐ろしく無口だった。クラスメイトとの意思疎通には問題ない程度にちゃんと話をしているようだし、授業中に指されたら発言もする、だが、自分から誰かに話しかけるようなそぶりを見せたことは一度もない。教室では大体一人でいるが、いじめられているとかはじかれているとかそういうことではなく、逆に、一目置かれているような気配があった。特進クラスでは全員が受けることになっているゼロ限に、彼だけは来ない。そして、やはり全員が受けることになっている七限が終わると、風のように教室を出て行ってしまう。それでも、彼に集まる視線は、彼を非難しない。
     これが――三月が最初の三日ほどで把握し得た星野君の全てだ。
     たぶん、彼自身はどちらかというとおとなしい方の、どこにでもいるとは言わないがごく普通の高校二年生。だが、肌の色や大きな目、長い手足――そういう見た目で飾られた彼は、例えば高貴な存在は身をやつしても隠せない、というような『異質さ』をまとっているように三月には感じられた。
     『孤高の王』――そんな言葉が、三月の中に思い浮かんだ。
     頭の上に王冠を戴き、その背中を重厚な赤いローブで覆い、背をまっすぐに伸ばして立つ――三月の頭の中に佇む星野君は、あの日三月に向けられた、どこまでも真っすぐな目をしていた。強く鋭く、何もかもを見透かすような視線。思い出すたび、なぜか胸のあたりがざわざわと騒いだ。
     誰かのことをこんな風に知りたいと思ったのは、たぶん初めてのことだった。
     しかし、それから一週間が過ぎても、三月の知りたいことは何一つわかっていなかった。
     転入の挨拶をする三月に向けてきた、あの表情、あの視線の意味を知りたい。なのに三月は、それを彼に訊けずにいた。王に対して恐れ多い、というわけではない。ただ単純に機会の問題――だがそれも、機会さえあれば訊けるのかというと、そうでもない気がしている。
     同級生の顔は一日で覚えた。そして三月は初日から、きちんと向き合って、なるべく目を合わせて挨拶をした。それは一日でも早くこのクラスに馴染むため、そして自分自身の立ち位置を明確にするためだ。『都会からやってきた謎の転校生』の、紳士的な振る舞い――朝会えばおはよう、帰るときはまた明日、それに加えて二言三言、大体のクラスメイトとは、挨拶以外の会話も成立するし、時々冗談も言いあう。新しい学校のクラスメイトは、息をするように面白いことを言う。
     だが星野君とは、なぜか、うまく行かない。
     三月が声をかけても、彼の反応はいつもそっけないのだ。
     星野君おはよう、と三月が言っても、星野君はうんと頷くか、よくておはようという一言が返ってくるだけ。帰り際に声をかけたら、うんという返事もそこそこに、彼は階段を駆け降りて行ってしまった。無視されたとまでは思わないが、急いでいるなら一言あってもよさそうなものなのに、それもない。
     驚いたような表情も強い視線も、三月に向けてきたのは最初のあの一度切りだった。無口なのは別に構わない、だが、ここまで反応がないと三月にはもう、どうしようもない。
     反応がない、どうしようもない――それは三月にとって、初めての挫折と言ってもよかった。
     物心ついたころから今現在まで、少なくとも前の学校にいた頃までは、自分から話しかけて会話が成立しなかったためしはない。相手が同性であろうが異性であろうが、あるいは子供同士でも大人を相手にしても、三月が対話をしたいという気持ちで臨めば、みんなちゃんと向き合ってくれた。
     例外はある。三月の父、三月の母、三月の妹、それに、数える程度しか会ったことのない祖父母たち。三月にとっての、家族とか親族とか呼ばれる立場の人々とは、そもそも会話というイベントがほとんど発生しなかった。だが、そうでなければ誰もが、三月の言葉には言葉を、笑顔には笑顔を返してくれた。小学生の頃まではそれが当たり前なんだと思っていたし、中学生の頃には、それは当たり前ではないが少なくとも自分は『そう』なんだと自覚していた。
     なのに――星野君は違う。星野君だけが、違う。
     ――あんな目で見てきたくせに、そんな態度を取るなんて。
     ――あの目で、その視線で、いったい自分の何を見たんだろうか。
     なのに星野君は、それを尋ねる機会も、きっかけさえも与えてくれない。
     わからない、ちょっと悔しい、それ以上になぜか寂しい、なぜなのかを考えるのが楽しい――それが、ここへきて初めて、三月の心に火をつけてしまった。
     攻略したい、と、思ってしまったのだ。
     
     携帯端末で遊ぶソーシャルゲームは、日々を穏やかに過ごしたい三月の、中学生の頃から続けている唯一の趣味である。といっても、必死に素材を集めたり、課金をしたり、ランキングに血道を上げるようなプレイはしない。ルールの緩いギルドに在籍しているのはミッションクリアのためだけで、イベントが始まっても積極的に走ることはないし協力プレイやマルチにもほとんど参加していない。お気に入りのキャラクターというのも特になく、欲しいのは挑戦中のバトルをクリアするのに必要なスキルやアイテムくらい、だがそれも、手に入らないなら別にそれで構わない。執着はしない。
     そもそもゲームは暇つぶしだ。誰の手も借りず、誰にも迷惑をかけず、飽きたらやめればいい――自分一人で完結する遊び。
     しかし、そんなプレイスタイルの三月にも、ゲーマー的な感覚はしっかり根付いてしまっていた。

     転校当初――三月はここで、余生を過ごすような気持ちがあった。
     どうせここは逃避の先だ。大きな波風を立てず、穏やかに控えめに過ごせばいい。そこで自分に与えられた役割を果たす――今までも、これからも、三月に求められているのはきっとそれだけだ。
     だが、三月は星野君と出会ってしまった。その眼差しに射抜かれてしまった。
     話しかけてもそっけない、言葉に言葉を、笑顔に笑顔を返してくれない。うまくいかない、悔しい、どうやったら攻略できるか――普段、ゲームに対してだってそんなに入れ込むことはないのに、こうやって悩むのは楽しいと思った。
     このイベントを最後まで走り切ったら報酬は何だろう。謎の答え? 三月自身の満足感? それとも、星野君からの言葉、笑顔――何が得られるのかはわからない、けれど一つだけはっきりしていることがある。
     星野君のことを考えている三月自身が、今、楽しいと感じている。だからこのとき――転入十日目にして、三月は密かに決意した。
     ――星野君を攻略してやる。

     *

     図らずも知ってしまった、星野君が七限の後に急いで帰る理由。無視するような勢いで帰っていったあの日も、彼は単に急いでいただけなのだ。
     スクールバスの時間に間に合うように、星野君は羽戸駅にたどり着かなければならない。学校最寄りの千鳥駅はそこそこ大きくて快速列車も停まるが、羽戸は利用客も少なく、当然快速はスルーする駅だ。羽戸駅の時刻表は一時間に多くて三本、時間帯によっては一時間に一本。七限終了後に彼が急いで乗りたい電車はおそらくあれだろう――そこまで必死に走ったりしなくても、たぶん間に合う。
     声をかけて一緒に帰ろうと言うのは、実はちょっと気まずい。かといって、教室を飛び出すように出ていく星野君の後を追って、一緒に飛び出すというのもどうか。転校してきてまだ二週間にもならない三月がやるには奇行が過ぎる気がする。なるべく悪目立ちしたくないのは『星野君攻略クエスト』とはまた別の話だ。
     普通に教室を出た後ちょっと急ぎ足で駅に向かったらいつもより早い電車にぎりぎり乗れてしまった、そこにたまたま彼がいた――よし、これで行こう。真剣な顔をして演習に取り組んでいる振りをしながら、三月は今日の放課後の算段を立てていた。
     
     金曜の七限は国語で、学習内容は古典。どこかの大学の入試問題を題材に、本文を現代語訳した上で設問を解くのが今日の演習の課題だ。
     特進クラスのゼロ限と七限は、簡単に言えば入試対策で、だから演習の多くは入試の過去問題が中心になる。
     『入試』。大学だとか進路だとか――その辺りに、今の三月は全く無頓着である。考える必要があるのかどうかさえ分からないでいた。
     地元の公立小学校から私立の中高一貫校に行ったのは親からそこを受験するように言われたからだし、今の転入先も三月自身の希望ではない。この先の進路と言われても、三月はどうしていいかわからないのだ。そもそも進学することになるのか、それともどこかで働くことになるのか、三月自身が選んでいいのか、中学のときのようにここへ行けと言われて自動的に進路が決まるのではないのか――だから今日の六限の後、いわゆる終学活で『進路希望調査票』なるものが配布されたとき、三月は困ってしまった。提出は来週月曜日。週末にご家族とよく話し合うように――そう言われても、話し合う相手などいない。
     まあどこでもいいから適当に書いておいたらいいか、と小さくため息をつき、三月は視線をそっと窓際に移した。
     星野君は書類を握りしめたまましばらく何事か考えこんでいる。何か悩みでもあるのだろうか、と三月が思った瞬間、彼はふっと首をかしげた。
     そして、あろうことか三月の方を――教室の中列後方を振り向いた。
     三月はびくりと肩を竦めて慌てて視線と姿勢を落とした。まさか、呼んでもいないのだから気付かれるはずもないし、おそらく彼は三月を見たわけではないのだろうけれど、盗み見ていたのがバレた気がして非常に気まずい。縮めた首をそろりと伸ばすと、星野君はもうこちらを見ていなかったので、三月はホッと胸をなでおろした。
     
     古典の課題演習は、そういうことがあったそのあとの七限である。進路の話は星野君との会話のきっかけになるのか、それともこっそり見ていたことがバレていて、もしかしたら軽蔑されたりしないだろうか――盗み見られる対象になることはあっても自分からそんな行動に出たことがないから、三月にはその『はしたなさ』の度合いがわからない。
     自分なら盗み見られたくらいでどうということはないけれど、もしかしたら気持ち悪いと思われただろうか、そんな相手から一緒に帰ろうと言われるのは嫌かもしれないからやっぱり誘いにくい、いやしかしそういう形であっても彼から反応があればそれはそれで嬉しい気もする、だがそもそも彼は気付いたのだろうか、たまたまこちらを振り返っただけなのではないか、だって彼が三月を『見て』いたとしたら、あの真っ直ぐ突き刺さってくる視線でなければおかしいし、いやそもそもあの視線は一体どういう意味なんだろう――およそ演習とは何の関係もない疑問が頭の中で渦を巻き、ノートの片隅に大きな『?』を三つ書く。そのとき――七限終了のチャイムが鳴った。
     張り詰めた空気の緊張が解け、教室のあちこちから声や物音が上がり、いつもの放課後の雰囲気。じゃあ次回解説しますから残りは宿題、と言い置いて教師は出て行った。部活に向かう者、バイトへ行く者、携帯端末を取り出す者、星野君は早々とリュックを背負って教室を出て行った。それを視界の隅にとらえて、三月も慌ててバッグにテキストをしまう。椅子から立ち上がって初めて周りに視線をやると、斜め前の席から女子A――じゃない、滝本さんが何か言いたそうな顔をしてこちらを見ていた。
     目が合っても――見られていたと気付いても、やっぱり自分は、別になんとも思わない。
    「また明日――じゃないや、また来週」
     三月が笑顔を浮かべて言うと、滝本さんもにこりと微笑んで、うん、また来週、と頷いた。今日に限っては、クラスメイトといちいち顔を合わせている余裕はない。春田君バイバイ、と飛んでくる声に少し振り向いて手を振って、三月はまっすぐ、昇降口に向かった。

     星野君は、やはりもういない。二足制の靴を履き替え外に出て、駐輪場を抜けてスロープを降り、部活の声が響くテニスコートの角を曲がる。学校から駅までは、三月の足で普通に歩けば徒歩十分の距離。ここを七分で行けば、目的の電車には間に合う計算だ。角を曲がって学校が見えなくなった所から、三月は足を早めて坂道を下った。
     なんとなく、自分の行動を他人には知られたくなかった――なんでだろう? 自分で自分の態度に『?』。
     別に隠す必要などないはずなのに、なぜそんな挙動になったのか。それを言ったら教室で声をかけても構わなかったのに、なぜそれをしなかったのか。盗み見がバレたかもしれない気まずさなんて、そんなのは三月が開き直れば済む話だ。学校や他の生徒たちに背を向けなければならない理由なんてない――と、思う。
     クリーニング店の角を曲がったあたりから、周りに千鳥高生の姿は見えなくなった。六限上がりのクラスと七限上がりのクラス、それぞれの帰宅時間の、ちょうど谷間の時刻なのだ。星野君もいない。比較的交通量の多い県道の横断歩道をいいタイミングで駆け抜けて――この信号で引っ掛かったら、たぶん電車には間に合わない――、三月は橋上である千鳥駅の階段を駆け上った。改札を抜け、今度はホームに続く階段を駆け降りる。
     ホームにたどり着いたその先に――ゆるく癖のかかった黒い髪、制服の白いシャツから伸びる細い褐色の腕、背筋を伸ばした姿勢のいい後ろ姿。星野君がいた。
     彼の姿を確かめたところで、三月は歩調を緩めた。間に合ったという安心感、よし声をかけようという決意、だがさらに一歩足を踏み出したところで、三月はふと、立ち止まってしまった。
    「……、」
     唐突にこみ上げる不安。
     ――このまま、勢いで星野君に話しかけても、いいのかな。
     張り切って追いかけて、頑張って声をかけて――こんなにも星野君に対して能動的になっている自分が、急に怖くなってしまった。
     もうずっと長い間、三月は『誰か』に『何か』を期待せず生きてきた。自分から進んで『誰か』に『何か』をしようとしなかった。『自分からは動かず、出しゃばらず、何かに執着しないこと』。
     それはなぜか。『望めば失う』ことを、繰り返してきたからだ。
     優しくしてくれた家政婦は三月が懐くと解雇された。
     習っていたピアノは楽しいと思い始めた頃に辞めさせられた。
     ずっとここにいたいと思ったのに連れ戻されてしまった――のは、いつのことだったか。
     ああ、だからだ――そして同時に、自分の行動を隠そうとしてしまう理由にも、思い当たってしまった。
     星野君を気にしている自分を、人に知られたくない。自分が興味を持ったものを、秘密にしたい。だって、誰かに知られてしまったら、それは三月の手を離れていってしまう。『望めば失う』。
     どうしよう、どうしたら――三月の視線の先の星野君が、ちょっと首をかしげた。そして、くるりと振り向いた。
     ほんのわずか、星野君が目を見張った――三月の心の準備が整う前に、本人に気付かれてしまった。
    「あ、」
     ――ドクン。
     驚いたような星野君の呟きが耳に届いた瞬間、三月の中からは全てのモヤモヤが吹き飛んだ。
     そうだ、僕は星野君を落とすんだ。攻略方法なんて知らない。当たって砕けても死ぬわけじゃない。ここはあそこじゃない――三月は笑顔を浮かべて彼に歩み寄った。
    「やっぱり星野君だ、そうかな、違うかなって、思ってた!」
     自分で言っていて白々しい。星野君はなんという表情も見せずに、うん、と頷いた。その顔が、すい、と線路の方に向けられる。ホームに電子音とアナウンスが鳴り響き、普通電車の到着を告げた。

     *
     
     四両編成、ロングシートの普通列車。同じドアから乗り込むと、星野君は奥のドアに寄りかかるようにして立った。車内は空いていたが、星野君が座らないのなら三月もそれに倣う。
     東西に走る鉄道路線の千鳥駅から羽戸駅まで、間に駅は三つ、乗車時間はおよそ十五分。チェーンの大型スーパーや大きめの飲食店で駅前が賑わっているのは千鳥だけで、そこから東に向かう車窓は、ずっと民家と田んぼ、畑、時々竹藪。
     星野君はそこがいつもの定位置とでもいうような自然なそぶりで、ドアに左肩を預けて遠くを見ていた。その視線の先にあるのは、やっぱり民家や田んぼ、畑、その向こうに連なる濃い緑色のなだらかな山、相変わらずの灰色の空――三月はそれを正面から眺め、様子を伺いながら話しかけた。
    「星野君も羽戸なんだってね。全然知らなかった、朝も帰りも、会ったことなかったしさ」
     車窓に向けられていた視線が、ちらりと三月に向けられる。その視線の意味が――これはわかる。
    「あの、滝本さんが教えてくれて」
     三月が答えると、星野君はふうんと言わんばかりに小さく頷いた。
     空いた車内には他の高校の生徒と思しき制服姿、おそらく大学生だろう若い人、お年寄りと呼んでよさそうな年代の老男女――同じ車両に、二人の他に千鳥校生はいない。
     電車は進む。三月が話しかけ、星野君は時々小さく頷いたり、ちらりと視線を投げかけてくる。反応はある。だがこれでは、会話が弾んでいるとはとても言えない。
     『取り付く島もない』というのは、まさにこういう状況だ、と三月は思った。会話になっていないから、質問ができない。結局肝心なことは何一つ聞けないままどうでもいいことばかり話しかけ――男子高校生が二人いて、話題のほぼ全てがこの梅雨空の天気の話に終始した。話の広がらなさにもほどがある――、電車は羽戸駅に到着した。

     *

     二人と一緒に、数人が降りた。乗り込む人も数える程度。夕方のこの時間でさえ乗降客は少ない、田舎の駅。二人が降りた正面、駅の南側に改札があり、実家の方ではあまり見ないタイプの簡易的なタッチ改札を通過し、会話がないまま外に出る。
     学校の最寄である千鳥駅の傍を通っている幹線道路は、途中で線路を外れて南へ下がっている。羽戸駅の前を走っているのは、かろうじていくつかの店舗が並んでいるものの商店街と呼ぶにはあまりに寂れた細い道。だが、駅前は広く、大きなロータリーがある。バスやタクシーというよりも、地元の人の乗降に供されるのだろう。実際今も、同じ電車から降りてきた人が迎えに来ていた車に乗って去っていった。
     滝本さんは、星野君は小・中学校のスクールバスに便乗しているのだと言った。見回してもバスの姿はない。時間が早いのか、それとも、乗り場は駅前ではないのだろうか。
     バスは駅前まで来るのか、それとも中学校とかの方まで行くのか、そう尋ねてみようと三月が口を開いたちょうどそのとき、星野君がくるりと振り向いた。その目が――三月を射抜く。ドクン、と心臓が跳ねた。
     転入してきたあの日と同じ、三月の何かを探るような、見定めるような、何もかも見透かされそうな目。
     そうだ、この視線の理由が知りたかったのに――三月は思わず口を閉じ、どうでもいい言葉を飲み込んだ。 
     俄かに冷たい風が吹き、空が掻き曇った。どこか遠くで、空が轟いた。三月に向かって、星野君が言った。
    「なんか……、」
     迷っているのか、それとも言葉を選んでいるのか。強い視線を三月に向けたまま、星野君は何かを言いかけて、やめて、――やがて続けた。
    「お前、なんか……、気持ち悪い」
    「……、えっ」
     聞き違い――だろうか。いや、たぶん、そうではない。だが、聞き返すのも気が引ける、ようなことを今、星野君は言った気がする。
     『お前、気持ち悪い』。
     星野君から自分に向けられた『言葉』として、これは今までで一番長い。だから、とにかく何か返事をしたいのに、喉のあたりに言葉がつかえて出てこない――やがて、ポツリ、と水滴が三月の額を打った。
     ポツ、ポツ、パラパラ、バラバラバラ。
     雨が降り出した。
     思わず、あ、と声を上げ、二人同時に天を仰ぎ見た。頭を下ろすと、もう一度星野君と目が合う。雨脚が急に強まり、痛いくらいの雨粒が降り注ぐ。強い視線が、鋭い刃のように三月を切り裂く――星野君は踵を返し、白く煙る雨の中、ロータリーから南に向かって走り去った。
     どうやらスクールバスの乗り場は、駅前ではないらしい。だがそんなことは、本当に、本当にどうでもよかった。

    瀧殿縁起 第一章「孤高の王」 3 ≫

    ※こちらは2023年8月12日発行の同人誌『瀧殿縁起』のサンプルです。

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    瀧殿縁起 第一章「孤高の王」1

    第一章 孤高の王

     1

     七限終業のチャイムが鳴った。
     その瞬間しゃべりだす誰かの声、テキストやノートをバサバサ閉じる乾いた紙の音、引いた椅子が床を擦り、教室前方と後方の扉が大きく開け放たれる。戸が開いた途端、運動部の声出しや管楽器のロングトーン、開放的なざわめきが流れ込む。廊下の窓の向こうは梅雨入りしたての厚い雲、だが今日はまだ、雨は降っていない。

  • テキスト

    覚えてもいないくせに

    【アホの横山とカシコの中田より 中田周と横山健琉】

     大人になって知った健琉の酒癖――悪いのではない。ただ、気持ちよく酔って適当なことを言い、ストンと寝落ちて翌日は何も覚えていない。
     金曜の夜。今日の健琉も酔って寝落ちた。一方の周は、楽しい気分になりこそすれ記憶をなくすことはない。後片付けを終えて居間に戻る。畳の上で気持ちよさそうに寝息を立てる健琉を見下ろして、周は小さいため息をひとつ。
     本気か、それとも酒の上での冗談か。なあ、オレらも買おっか、指輪とか―人を喜ばせるだけ喜ばせて返事も聞かずに寝てしまい、朝になれば覚えてもいないなんて。自分ばかりドキドキして、こんなの絶対フェアじゃない。だから決めた、朝になったら言ってやる―昨日のアレはプロポーズか?
     お前もちょっとは、ドキドキしろ。

    本編は高校2年生ですがお題SSで一足飛びに大人になりました。就職二年目くらい。本編後二人は無事同じ大学に合格し、就職先はさすがに別々で、同棲はしてないけど健琉が周の家に入り浸っているというざっくり設定です。本編を書き終えたら以降は二次創作みたいなノリで書いてしまう僕の悪い癖。卒業後社会人設定です!