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君はポップスター(7・完結)
(7)
両手に触れる優心のボアジャケットは暖かいし、人の身体の硬さというのは案外心地良いものだと思う反面、いくら人気のないところとは言えそこそこ明るい夜の公園で、オレら何やってるんやろうな、と思わなくもない。
ふ、と笑って優心が呟く、
「賢太郎めっちゃコーヒーの匂いする」
どうやらしがみついている間にマスクがずれたらしい。ダウンを着こんでいるが、それでもわかるのか。
「何嗅いでんねん」
そう言いながらようやく優心の身体を引きはがすと、案の定マスクはおかしな風にはずれている。
「寒なってきた。コーヒー、おごったるし店戻ろう」
不意に思いついてそう提案すると、優心はマスクを直しながらうーんと唸って、
「や、せっかくやけどやめとくわ。実はあんま時間ない」
と言った。今まで一度も開かなかったスマホを取り出し時刻を確認して、うん、と頷く。
「は?」
「最終で帰るわ。明日朝から稽古あんねん」
「うそマジで!? 間に合うんか!?」
ちらりと見えた画面の時刻は八時四十分。
「間に合う、けど、もうそろそろ行かんと」
「うそうそうそ、お前こっちに何時に着いたん!? ホンマにオレにしか会ってないやん」
「だから最初から言うてるやん、賢太郎に会いに来たて。用事も、全部済んだもん」
目元だけでにこりと笑う優心を見ていたら、急に寂しくなってしまう。
「ん……、」
「また改めてちゃんと帰ってくるわ、年明けてからやけど」
「うん、今度は普通にな」
「そうする」
返事をしながらひらりと立ち上がる。キャップを被りなおし、身づくろいをして――その所作がいちいちかっこいい。どんな格好をしていたって、やっぱり優心はユーシンなんやなあ、とおかしな感想を抱く。時間はないとわかっているのに、なあ、と呼びかける。
「優心さ、……舞台のオファーどうこうはさておきやけど、オレがホンマにメッセ気付かんかったら、オレと会わずに帰るつもりやったん?」
もしメッセージに気付かなかったら。家に帰ってからそれに気付けば、賢太郎は慌てて公園に向かうだろう。だけど優心がどこにもいなかったら。会えへんかったし帰るわ、なんてメッセが後から来たら――そんなん、泣いてまう。そんな想像が寂しさに拍車をかける。
まだ中身のある炭酸水のペットボトルを両手で転がしながら、優心はけろりと言う。
「考えてなかった」
「何やそれ」
「けど……なんやろな、ああいうこと言った後からでアレやけど、賢太郎は気付くやろうなって思ってたから」
だから賭けた――賢太郎に会えたら、大きい方頑張ってみよ、って。そう気づいて、賢太郎は嬉しくなる。期待に応えることができて、優心の背中を押すことができて、本当に良かった。だけどその喜びは表情だけにとどめて、
「謎の自信やなあ」
と冗談ぽく答えると、優心はさらにそれに重ねるように、
「だってオレの賢太郎やもん」
と冗談ぽく――案外本気のつもりかもしれない――返してきた。
「待て待て、いつからお前のになってん」
「え、あかん?」
「いやあかんていうか……まあ、ええか。お前もオレのやしな。よう考えたらオレも、テレビに映ってるお前見ながら『さすがオレの優心』とか言うてるもんな」
その度に妹から『そういうの後方彼氏面って言うねんで』とウザがられているが。
輝く照明と派手な演出、ファンの歓声。キラキラのステージの上で王子様みたいな衣装を着て笑顔を振りまく優心も、いろんなことを真剣に考え、真面目に悩み、一生懸命努力する優心も――賢太郎にとってはそのすべてが、何物にも代えがたい一番大事な宝物だ。
アイドルであるユーシンを独り占めはできないが、『神谷優心』を誰よりも知っていて誰よりも応援しているのは自分だと思いたい。せめてテレビの前でだけくらい、オレのものだと言ってみたい――そういう、半分冗談のつもりの戯言だった。図らずも今日、優心からお墨付きをもらってしまったが、これは妹には黙っていようと思う。
何それ、と優心が笑う。
「いつからオレのになってんとか言うて、普通に言うてるんやん」
「学校とかでは言うてないから! 家でだけやから」
「……年明けに帰ってきたら、賢太郎ん家にちゃんとご挨拶に寄せてもらうわ」
「うん? 普通においでや。オカンも喜ぶわ。タコパしよ」
優心が急に真面目な顔をして言うので、よくわからず返事をすると、
「やっぱあれかな、息子さんを僕にください、かな」
「は!?」
身構えないところへ急に爆弾を落としてくるからたまったものじゃない。冗談にしてもほどがある言いぐさに一瞬で顔が熱くなる。ホンマ、あほか、お前。
「何言うてんねん」
「だってお嬢さんちゃうやんか。お土産『ばな奈』でいい?」
「そこちゃうわ、もうはよ行け。電車いってしまうで」
本心は別れ難いのに、この手の冗談は恥ずかしすぎて聞いていられない。賢太郎が追い立てると、優心は笑いながらスマホで時間を確かめて、ホンマや、と呟きもう一度笑う。
「駅まで行こか」
「や、ううん、ここでいい」
「うん」
それは、優心が東京へ旅立つとき交わしたのと同じ言葉。あれから三年近くが過ぎて、自分たちの関係はずっと変わっていないと思っていた。たぶん、それは半分正しくて、半分間違っている。
優心はもちろん、賢太郎自身も成長していて、それとともに二人の関係は変わっていく。
だけど、互いの気持ちの根底にあるもの、一番大切なもの、大事にしたいものはずっと同じ。
だから、離れていても、遠くにいても、会えなくても、大丈夫だとはっきり言える。信じている。
「ホンマ、仕事中にごめんな。じいちゃんにも謝っといて。ありがとう、ほな」
優心がひらりと手を挙げて、公園を出て行く。ユーシン、なんて呼びかけてややこしいことになっても困るから、賢太郎はベンチのそばから見送る。
「おう。頑張れよ、ってもう充分頑張ってるから、えーと、いってらっしゃい!! 気をつけて。家着いたらメッセくれ!」
ごく自然に、家からどこかへ出かける人を見送るように声をかけると、優心はもう一度笑った。
「行ってきます! 賢太郎もな! また連絡するし!」
そして二、三歩進んだところで何かを思い出したのか振り返り、右手を握りこぶしにして左胸を二回叩き、その手を突き上げた。
「あ……、」
一瞬で思い出し、ウソやん、と思いながら同じ仕草を返す。優心は手を振りながら笑顔を残し、駅の方へ足早に立ち去った。
高校一年のゴールデンウィーク。優心と二人で見た映画の、主人公たちのジェスチャーだ。君に栄光あれ、とか、冥福を祈る、とかそういった、相手を讃えるサイン。
優心が最初の事務所入りを迷っていたとき、賢太郎は優心に、アイドル向いてると思う、と言い切った。そしてその後、こう続けたのだ。
『もしいつかさあ、優心がテレビに出ることになったら、オレにだけわかるサイン、やってや』
野球選手がホームラン打った後とかになんかやるやん、ああいうの、と賢太郎が説明すると、優心は笑って、わかった、考えとくわ、と答えた。優心の姿が見えなくなり、その余韻に身を任せるようにどさりとベンチに座り込む。
さっきまですぐそばにあった温もりが今はなく、夜の公園はとても寒い。夜空は暗いし空気は冷たい――だけどその分、星は輝く。
「なにあれ、固定ファンサやん」
思わず呟いて、自分で自分の言葉に赤くなる。
全方向に隙が無くかっこいいのは相変わらずだ、と思ったが、それどころの話じゃない。前よりずっと、画面で見るよりずっとずっと、優心はかっこよくなっている。やっぱり、好きだ、と思う。
離れたくない、離したくない、自分の知らないところで自分の知らない人と関わらないでほしい――というような独占欲は、ない。トイラブのユーシンはもとより、ただの神谷優心に対しても。
優心の仕事がアイドルである、というのももちろんあるが、それ以上に、優心が自分を好いてくれているという自覚があるからだ。それは昔からずっと――そして今は、ある程度『そういう意味』での好意だということにも、気がついている。
いつ頃からそうだったのかは覚えていないが、賢太郎にとって優心からのそれは、やっぱり普通に心地よかったし、与えられたものを同じだけ返したいと自然に思えた。だからさっきのハグは、たぶん優心にとって、そして賢太郎にとっても、今できる精いっぱいの意思表示。
お互い、はっきりとは言わない。
言わない方がいいのだ、今はまだ。
この先いつか、状況が変わって――そんなことは想像もしていないけれど、もし、万が一――独り占めしてもいい時が来たら、打ち明ける、かもしれない。そうならなければ、それはそれでいい。
「だってもう、オレのやて言うたしな……、て、何言うてんねんオレは」
優心が持ってきたお土産の紙袋を片手に立ち上がる。右手をポケットに突っ込むと、優心が残していったカイロが指に触れて、思わずふふ、と笑ってしまう。
「年明け、てツアー終わってからやんな。ホンマに挨拶来る気かな……、『ばな奈』持ってきたらそんでオッケーやでウチの家。て、いやホンマ、何言うてんねんオレは!」
照れ隠しの大きい独り言は、しかしこの時間のこの場所では明らかに不審者だ。賢太郎は周囲を伺いつつ、んんっと咳払いをして足早に公園を離れる。
クリスマスケーキの予約を募るコンビニのポスター、年々派手になる隣の居酒屋の電飾、賢太郎が店を出た時の常連客は、まだじいちゃんと喋っている。
ちりんちりん、軽やかなドアベルの音は、この時期の有線で自動的に流されるジャズ調のクリスマスソングに良く似合う。
「ただいま」
と挨拶をすると、祖父と常連客二人がそろって、
「おかえり」
と返してくれて、思わず笑ってしまう。この店の居心地の良さは案外そういうところにあって、だから賢太郎も、優心にとってそういう自分でいたいと思う。ここがそういう場所であればいいと思う。
新幹線の終電て何時に東京着くんやろ。帰ったら、『ばな奈』食べながら去年のライブツアーのDVD見よ。ほんで優心からメッセあったら、今見てるって言うたろ。
そんなことを考えながら、ダウンジャケットを脱いで奥の事務所に放り込む。
慌てて気づいてカイロだけを抜き取って、パンツの尻ポケットに入れなおす――これ、たぶんいつまでも捨てられへんのやろな、オレ。了
+2 -
君はポップスター(6)
(6)
不意に吹いた風が頬を刺す――が、それほど寒いとは思わなかった。興奮しているせいだろう。
優心はしばらく固まったように俯いていて、やがて小さく息を吐き、
「ありがとう。なんか、できそうな気、してきた」
そう言って笑った。
街灯のあかりだけでは心もとないが、心なしか表情が晴れたような気がする――もしかしたら、賢太郎がそう思いたいだけかもしれないけれど。そう思いたいだけ――そう考えた瞬間、なぜだか急に不安になった。
いつものメッセで送られてくる泣き言とは違って、今日の優心は自分で結論を出せていたし、そもそも今日は何の相談もされていないのに、勝手に感づいて色々言って、優心も話さないと決めていたはずの『今はまだ秘密』の仕事の話をさせて――あれ、なんていうのこれ、どっかで見たぞ。握手会とかで推しに説教するアホの話。頼んでないし何様やねんみたいな。いやいや優心はそんなこと言わんし。言わんよな……? 急に風が冷たく感じる。
「いや……なんか、ごめん?」
とっさに謝り、視線を外す。
「は? 何が」
「余計な……ことを、言うたかな、とか、いまさら」
「いまさら」
「オレめっちゃうざない? 大丈夫?」
言葉にしたらその分余計に、そんな気がしてくる。なんやろ急に。今までこんなん、考えたことも無かったのに。
ぐ、はは、と籠った笑い声。そろりと首をかしげて伺うと、優心が肩を揺らして笑っている。お返し、と言わんばかりに、背中を叩かれた。
「ホンマいまさらやし。賢太郎のそんなん、今に始まったことちゃうやん」
「え!?」
それはつまり、以前からそう思われていたということだろうか? 良かれと思ってやっていた、というのがなかなか最悪では――何を察したのか、ちゃうで、と優心は言った。
「賢太郎、オレイヤやったらイヤやて言うし。お前に気なんか遣わへん」
「それは知ってるけど」
「賢太郎はそんでええねん、ていうか、そのままでおってや。……、」
そのあと小声で呟いた、そういうとこ好きやもん、という言葉は、今は聞こえない振りをした。
「優心がそんなら、ええけど」
「うん、そんでええ」
「ええでて言われたら、またやるで」
「うん、そんでええよ」
「待ち受けも変えんでいい?」
「うん、そんで……、」
途中で何かに気づいたのか、優心はこらえきれずに吹き出した。その笑い声によって、賢太郎の束の間の不安は氷解する。優心がいいなら、いい。賢太郎が気にするのはそこだけだ。
優心にとっても自分の言葉が――自分の存在が、不安を打ち消すものになっていればいいなと願う。
ひとしきり笑ったあと、なあ賢太郎、と優心が言った。
「うざいついでにお願いがあんねんけど」
「ついでてなんやねん」
別にええけど、という返事を言外に置いて答えると、優心は――少し視線を泳がせて、
「オレの、て言うて。今の」
と言った。
「今の?」
「『オレの優心は、大丈夫』って、言うて。前みたいに」
「まっ……、」
それは、あまりにも予想外の『お願い』で、一瞬言葉が続かない。
「……前、みたいて、お前いつからオレのものになってん」
「高校卒業して、オレが東京行くとき、賢太郎が言うた」
「そんなん言うた……か? 言うたかな、……あれ、言うた気がしてきたな……」
言葉にするたびによみがえる記憶。物事の覚えがいい方とは言えない自分が、そういうことだけはだけは鮮明に覚えているのはどうなのかと常々思っている――が、おそらくこれも愛のなせる業。
優心が東京へ旅立つ日、そういえばあのときも、話していたのはこの公園だ。『トリップ』で祖父が淹れてくれたカフェオレを飲んだあと、新幹線の駅まで送ると言ったのに、優心はここでいいと笑った。何か気の利いたことを言いたくなって、口をついて出た言葉――、
『住んでるとこは遠なるけど、そんだけやし。何も変わらんし。オレの優心は、きっと大丈夫や』
――けどあれは、オレの友達の、とか、オレの知ってる、とかそういうつもりで言うて。自分でもびっくりして、自分がそう思いたかったんやな、って気付いたりして……、まあ、ええか。
優心が欲しいというのなら、自分にできることならなんだって。
気取るつもりはないのに、えへんと咳ばらいを一つ。ベンチに座ったまま半身だけを優心に向けて、その両肩をがしっと掴む。
「オレの優心は、大丈夫。来年の舞台も、えーと年末のフェスも、ツアーも、絶対成功する!」
優心は、暗がりでもわかるくらいに一瞬目を丸くして、それからくしゃりと目じりを下げて、噛み締めるように頷いた。
「うん、……、うん。ありがとう」
そして、
「これもついでや」
と呟いて、急にぐらりと身体を倒す。え、と思っているうちに、その両手が賢太郎の背に回り、パンパン、と背中を二度叩かれた。優心の肩を掴んでいる賢太郎の両腕にそのままぼすっと納まって、いわゆるハグの状態。
「何やねん急に、アメドラか」
と、答えながら賢太郎もその手を背に回す。
「東京の人だいたいこんなんやで」
「ウソやんマジで!?」
「ウソ」
「お前なぁ」
優心はそのままの姿勢ではは、と笑い、賢太郎のダウンジャケットに顔を押し付けたまま、くぐもった声で言った。
「オレ、賢太郎が言うてくれたら、頑張れる」
「そうなん?」
「最初の事務所に入ったときもそうやったもん」
「オレ何か言うたっけ」
最初の事務所、というのは高校生になったばかりの頃に所属した、例のご当地アイドルの主宰のところ。忘れもしない、ゴールデンウィークに二人で映画を見に行って、買い物をしたその帰りにターミナル駅でスカウトされたのだ。こんなん初めてや、と優心は言ったが、賢太郎はいつかそういうこともあるんじゃないかと思っていた――こんな田舎に、見る目のある人がおらんだけで。
優心は続けた。
「ちょっとでもやりたいんやったらやったらええやん、て。優心歌うまいしかっこいいから、アイドルとか向いてると思う、て」
「あー、……うん、そう、やったな そんなストレートに言うたかな……いや、言うたな」
名刺を受け取ったときの優心のはにかんだ笑顔は今でもはっきり覚えているし、興味を示していることはそのときすぐに分かった。
その後事務所の人が家へ挨拶に来て、まだ子供の自分にはわからない契約だとかそういう話も両親を交えてちゃんと説明をしてくれた、と賢太郎に話す優心は、最後の一歩が踏み出せずに迷っているように思えた。だから。
腕の中で、優心がのそりと身をよじる。まるで賢太郎の心音を聞くみたいに顔を傾け、ふふ、と小さく笑った。
「前に、賢太郎に偉そうに言うたけど、オレも、一番大事やと思てることやってんねん」
「うん?」
優心の顔を見ようにも、キャップが邪魔で伺えない。帽子に口づけるような姿勢になっていることに気付いて、これはハグなのか、と一瞬疑問に思ったが、その後の優心の言葉で、全てどうでもよくなった。
「賢太郎が信じてくれた、オレ自身を信じる、てこと。オレの一番大事なこと」
「……、そう、なんや」
「うん」
「そうか」
不意を突いてそういうことを言う、優心はずるい。深く刺さってちょっと泣きそうになる。
優心が心からそう思ってくれているのなら、うざかろうが何だろうが、言葉にして、声に出してこれからも伝え続けようと思った。+1 -
君はポップスター(5)
(5)
言い募る優心にどうしても反論したくなって、賢太郎は言った。
「え」
「少なくともオレは、テレビで優心見たら元気になるしなあ。頑張ってんの見て応援したなるし。アイドルてそういうのやろ? 優心そのものやん」
まあ自分の場合は、トイラブのユーシンより前に神谷優心を応援したい気持ちがあるわけだけれど――ふと視線を感じて振り向く。
「……え、と、その」
優心が、顎にマスクをひっかけたままでパクパクと口を開いたり閉じたりしている。
「ん、何」
「賢太郎、見てんの? テレビとか」
「当然やん何言うてんねん。公式チャンネルの配信も見てるわ」
何なら目覚ましの曲はデビューアルバムのユーシンのソロやし、ライブには行っていないけどついこの前も映像見返したところやし――今日久しぶりに優心の顔を見た時に『実物だ』とそわそわしてしまったのは、たぶんこのせいだ――スマホの待ち受けはパンフレットに載ってた写真を自分で撮影したやつやし、と、勢いでしゃべってからふっと我に返る。
「……あ、」
優心は自身のメディアでの露出を、友達にあまり見られたくない――わかってたしこの一年は特に気を付けていたのに。やってもうた。
目の前の優心は握りこぶしを口元に当てて、絶句している。
「……ごめん、ウソ、今の忘れて。ウソウソ、冗談」
と、慌てて取り消すがもう遅い。
「え、ウソなん?」
「……ウソ……ではないです」
「スマホ見せて」
「……、」
言葉の圧力がすごい。とっさに差し出し、画面を見せる。そのライブはカフェでデートというコンセプトで、他の撮影で使うカップを真剣に選んでいる写真――パンフの中で賢太郎が一番好きなユーシンのオフショットだ。
「うわっホンマや……」
想像以上にガチなトーンの優心の言葉が、胸に刺さる。
「ごめんて……、」
「や、……えっと、え、その、パンフも買ってくれて、ん、の?」
「ライブは行かんほうええかと思って、パンフとDVDだけ買って……」
「マジで……、」
「そやしごめんて、もう言わへんから」
見るのをやめるとは言いたくないので言わないし、できれば待ち受けも許してほしい――なんでなん、と優心が言った。
「なんで、て」
「あ、いや、じゃなくて、なんでていうのは、もう言わへん、て。オレ、賢太郎があんまりそういうの言わへんから、見てへんのかなって思ってたのに」
優心の言葉の風向きが微妙に変わった――気がする。
「え、だって、前にそういうの言われンの恥ずかしいとか言うてたから、」
「それって、前会うたときの話?」
去年の夏、優心がこっちに帰ってきて、中学の頃からの地元の友達五人で集まったときの話だ。夜の報道バラエティ番組で新人アイドルについての特集をやっていて、デビューしたばかりのトイラブがほんの数秒映った。曲も少しだけ流れた、それを、集まったみんなが見ていた。その話題になったとき、優心は、そういうの恥ずかしいし嫌や、と言っていて――だから。
うん、そう、と賢太郎が頷くと、優心は、それは、と一瞬言葉を探し、
「それは、……他の人、の話やんか」
と言い直した。他の人――賢太郎以外の?
「見たでぇ、って、なんか……からかうみたいに言うから。そういうのは、恥ずかしい、ていうか、……普通に嫌やし。けど、賢太郎やったらええねん。ああいうのと違うてわかってるから」
「そう……そうなん?」
賢太郎が問うと、優心は強く頷いた。
「うん。賢太郎やったら、いい。嬉しい」
それは――優心との間の信頼、とか、そういうものだろうか。優心の口元は笑っている。賢太郎が見ているのに気付いたからか、優心は慌ててマスクを引き上げ両手でその頬を押さえ、んん、と咳払いを一つ。全力で引かれたかと思ったけれど、これは待ち受けも許されたということだろうか?
「……ほな、言うけど、めっちゃ見てる」
「めっちゃ見てんのかあ……、」
「てかオレが見いひんで誰が見るねんて。……や、見るか。ユー担の子いっぱいおるもんな」
賢太郎がそう言うと、優心は手を頬に当てたまま、ひえ、と変な声を上げた。
「担とか!」
「ユーシン担当やろ」
「賢太郎にそういうん言われんのは、やっぱなんか恥ずかしいな……」
「ごめん。イヤやったらもう言わへんけど、待ち受けは許して」
賢太郎のその言葉に、優心は今度は声を立てて笑った。
「ええと、ほんで何の話やったっけ……、」
声に出してから思い出す。舞台のオファーを受けた優心の迷い。他のメンバーと自分を比べて感じる不安。どうしても決められず賢太郎に託された選択――優心の行動の謎が解けてすっきりした。相変わらず、悩み方が真面目やな、と思う。
「あのな、優心。オレはっきり言ってトイラブの他の人のことはあんまり見てないしよう知らんけどさ」
それは半分ウソで半分本当。ピンク、オレンジ、黄色、水色――トイラブの他の四人の名前やキャラクターは、公式サイトやネット上の百科事典に掲載されている情報程度なら知っている。優心しか見ていない、というのだけが、事実。
「やっぱ五人おるんはそれぞれ持ち味ていうか、そういうのがある訳やん? 別々に仕事依頼が来るんやったら、他の人と比べることでもないやん」
賢太郎がそう言うと、優心もまじめな顔になって、
「……ん、」
小さく頷いた。
「そんなん言うたら、雑誌の連載あるのは優心だけやんて話やし」
「え、まさか賢太郎アレも読んでんの!? 女子向け雑誌のお悩み相談コラムやで」
「妹が買ってきてくれんねん」
四つ年下で今年高校二年の妹のことは、優心もよく知っている。アイドル好きになったのは賢太郎が高校生の時に優心が当時やっていたご当地アイドルのステージに連れて行ったのがきっかけらしいのだが、彼女は今、ドームツアーが当然のビッグネームなアイドルを箱推ししている。
「めぐちゃんええ子やな……」
優心がしみじみと言うので、一応真実も伝えておく。
「残念イケメンが今月も偉そうなこと言うとる、て言いながら持ってくんねん」
ぶは、と優心が笑った。
「ひっど! まあでもオレ自分でもそう思ってるけどな、なに偉そうなこと言うてんねんとかって」
優心が担当しているコラムのテーマは、学校で友達とうまくいかないとか彼氏ができないとか、そういうティーンのかわいらしい悩みだ。それに対して優心は、賢太郎にしてみれば完璧に、トイラブのユーシンとしてそつなく親身に回答している。ある程度は編集の手が入っているのだろうと想像はしているが、これは惚れてまうやろ、と毎月思う。
賢太郎の妹のめぐみはそれこそ幼稚園の頃から優心のことを知っていて、優心は当然このルックスだし、めぐみは当時からすでに面食いで、優心君がお兄ちゃんやったらいいのに、くらいのことは平気で言っていた。ただ、優心の上京が決まったころから、優心のことを『残念過ぎるイケメン』と呼びだした。彼女の言を借りれば、『優心君はイケメンやのにお兄ちゃんのことが好きすぎるのが残念』ということらしい――これは優心公認の、ある意味愛のある悪口である。本人に向かって言うと、『そやろ、残念やねん』と返されるそうだ。賢太郎はまだ聞いたことがない。
「なあ、さっきさ。今日はオレに会いに来たって言ったやん」
「……ん? うん。言うた」
「オレちょっと待たしてしもたけど、来たやん」
「うん、」
「会えてよかったって、思った?」
「……、うん、思った」
優心が頷く。その声に、強い意志を感じた――優心はたぶん、賢太郎の質問の意味に気付いている。
「そっか」
思った通りの返事があって、賢太郎はニカっと笑う。
つまり、優心の中には、たぶん最初からその気持ちがあったということだ。
「ほんなら、もう、決めてるんやな」
演じること自体に自信はないしトラウマでもある、だが自分に与えられたチャンスを掴みたい。大役を頑張ってみたい――でも。だけど。だから。
優心は、うん、と頷き――かけて、まあ一応な、と付け足した。
「けど、こんなんまだ決めたてホヤホヤやもん、湯気でてるし」
「湯気は出んやろ」
「まだ迷ってんのはバレたやん」
それは湯気のせいじゃなくてオレやし気付いたんやで、とは、思っていても言わない。
んん、と優心は少し考えるように視線を落とし、
「……ホンマに大丈夫かな、とかオレでええんかな、とかはたぶんこれからもずっと思ったままやと思う。けど、……ちゃんと会えたから。そやし今日はいつも愚痴ってるみたいにぐちゃぐちゃ言わんで、かっこよく爽やかにほなまたな!って言いたかったんやけどなあ」
「それは無理やろ」
「どういう意味やねん」
「どうもこうも」
それが神谷優心の魅力だからだ。まばゆいステージの上のユーシンからは想像もつかない、もしかしたら賢太郎の前でしか見せない――そうであってほしい――優心の素直でかわいいところ。
そして賢太郎の使命は、迷っている優心の背中を押すことだ。
「オレは、優心のいてる業界ってよう知らんけど、芸人の無茶振りみたいに、出来へんことやれていうんとは違うやろ。適材適所っていうかさ? テレビ向きとか、モデル向き、とかさ。ほんで優心は、たぶん映像より舞台の方が向いてるって思われたからそういう仕事が来たんやろうし」
本当のところは何一つわからない。優心なら映画だってドラマだって、モデルだって何でもやれるんじゃないかと思っている。それは、優心がちゃんと努力できる人間だから。
「だいたいトラウマ言うて、亀の時かて本番はちゃんとできたやんか」
「それは……だってめちゃくちゃ練習したし……。賢太郎も付き合ってくれたやん」
「ほな、練習したらええやん、今度も」
「……、」
「芝居なんて普段やってないこと、自信なくて当然やん。だから練習するんやし。ダンスもめちゃくちゃ頑張ってるやん。努力できるのも才能やで」
小学生の時から音楽にもスポーツにも秀でていた優心だが、こう動かなければならない、と意識すると動けなくなる――だからダンスも、変に意識するとあかん、と前にメッセで言っていた。だがPⅤやライブ映像、生放送の歌番組でさえ違和感はないから、よっぽど練習しているのだと思う。優心は、おそらくその真面目さゆえに、頑張ることができる。
無言でいる優心の様子を伺うと、優心は揃えた膝がしらに両手を置いて、
「……うん、」
小さく頷いた。
その丸くなった背中を、ぱん、とはたいてそのまま肩に手を置き、賢太郎は笑いかける。
「どんな舞台かもどんな役かも知らんけど、お前が芝居してるとこ、オレは見てみたい。見たいて思てるユーシンのファンも、めっちゃおると思うし。ほんで、同じ見るんやったら出番多い方が嬉しいし」
言ってから、まるで自分はただのファンではないから、と言いたいみたいになったな、と思ったが、実際そうなので訂正はしない。賢太郎はユーシンのファン、ではなくて、神谷優心そのものを応援している。大事に思っている。これは恋ではなく、たぶん愛と呼ばれるものだ。
出番が多い方がいいなんて軽く笑い話のように言ったが、出番が多ければそれだけ、役柄が重要ならさらにその分、優心が感じるプレッシャーは大きくなる、それはわかっている。上手くできなかったら、失敗したら、苦手意識があればそんな不安はなおさらだ。だけど。
「大丈夫や、優心。お前やったら」
見えないところで努力をして、悩んだり不安になったりなんてしょっちゅうで、だけどそれは表に出さず、ライブでも配信でも、雑誌の紙面上でさえ眩しいくらい輝いている、そんな優心なら、きっと何でもやれるし何にでもなれる。
それでもやっぱり不安なときは、――オレがいつでもここにおるからな。+1 -
君はポップスター(4)
(4)
名前を呼んで、なあ、と振り返る。
公園の前を車が行き交い、スマホで何事かを話しながら歩道を通り過ぎる人がいて、公園は街灯だけが明るく、その足元の賢太郎と優心を照らしている。
優心は、
「……、」
帽子の下で目を丸くして、ただ白い息だけを零しながらしばらく固まったように賢太郎を見つめて――それから、ぐい、とキャップのツバを掴んで俯いた。ぽつりと呟く、
「……何で賢太郎て、いつもそうなんやろなあ……、」
「えっ」
その言葉に思わず声が出る。その反応は、なに?
「え、オレ何か変なこと言うた? あの、そやし、なんていうの、もう自分にはこれしかないねん、みたいに思い詰めんでもええし、なんかあったら帰ってきたらいいんやし、背水の陣みたいな状況ではないんやし、て、そういうことが」
「いや、ちゃうねん、わかってる、賢太郎の言いたいことは。……そうじゃなくて、」
優心は、はあ、と溜息をつき、それから小さく笑って、顔を起こした。
上着のポケットに両手を突っ込んで、ベンチに座ったまま突っ張るように足を放り出して、あのな、と言った。
「……これ、ホンマに絶対誰にも言うたらあかんで。まだ企画段階の話で、どこにも出てないから」
「えっ……、と、いやオレはそんなん絶対言わんけど、……ええの? 守秘義務みたいなやつ」
こんな前置きをされるのは初めてのことで、どう考えても優心の仕事の話だ。『今はまだ秘密』の――今優心が直面している何事かを、賢太郎に話してくれるつもりなのだろうけれど、緊張する。
「どう説明したらええかわからんもん。賢太郎のこと信じてるからな」
「や、それは、大丈夫や、信じてくれ」
「ん」
優心が頷いて、すいと顔を寄せてきた。つられて顔を寄せ合って、内緒話の姿勢になる。優心が声を潜めて話すのによると――来年秋以降の予定で、ユニットではなく優心個人に、舞台出演のオファーが来ているのだという。
「……え、すごいやん!」
賢太郎はそちら方面には詳しくない――ユーシンとトイラブ以外の芸能界にはあまり興味が無いのだ――が、舞台は舞台で役者がアイドルみたいな状態のようだし、舞台俳優のアイドルユニットというようなものもあるらしい。逆にアイドルである優心に舞台出演の声がかかっても、不思議ではない。他のジャンルから声がかかると言うことは、それだけ認められているということじゃないのか。
「すごい……、んやんなあ、そうやんな……、」
けれども優心の返事は歯切れが悪い。
「何、」
「……賢太郎、覚えてへん?」
「何が?」
「……、浦島太郎のさ、亀……」
だんだん尻すぼみになる優心の言葉を頭の中で反芻し、
「……あああ、」
ようやく思い出した。
「亀その三!」
思わず声を上げてしまう。優心は無言で賢太郎の膝を叩いた。痛い。ぎゅっと眉根を寄せて、きっと顔は赤い。そんな場合ではないが、かわいい。
「トラウマやねんアレホンマに……、」
小学校三年か四年か――自分たちがまだ何も考えてないただのアホだった頃の、学習発表会でやった創作劇だ。浦島太郎も乙姫も亀も三人ずついたその舞台で、優心は亀その三だった。
そのころすでに歌を習っていて舞台慣れしていたはずの優心は、しかし残念なことに『演技が苦手な性質』だった――賢太郎ですら見ていて気の毒になるくらいに。
こうしなければならない、と意識すればするほどできなくなるらしく、右手と右足が同時に出るぎこちなさに加え、多くないセリフも棒読みの方がマシなくらい不思議なイントネーションになっていて、とにかく大変だったのだ。賢太郎も決して上手だったわけではないが、とりあえずセリフがちゃんと言えればそれでいい、というゴールを決めて、毎日一緒に練習した。本番は出番ギリギリまで袖で青い顔をしていて――もしかして舞台の上で泣いてしまうんじゃないかと心配したほどだ。舞台はなんとか上手くいったし優心は泣きはしなかったが、劇なんてもう絶対やらへん、と零していた。
確かにそれから先、賢太郎の知る限り優心が芝居をしたことは一度もないが、まさかトラウマと言うほどになっていたとは。
「そうかあ……、」
絶対やらへん、と決めた、舞台のオファー。
「……それは、イヤやったら断ってもええっていう話なん?」
賢太郎が問うと、優心はううん、と首を振った。
「……ぶっちゃけ、やらへんていう選択肢は、無い」
「そうなんや」
「だから、……イヤでもなんでも、やるのはやる、ん、やけどさ」
優心はふい、と視線を落とした。賢太郎は、言葉の続きを待つ。
「……、んん、どう説明したらええんやろうな。その、……色々あって」
「色々、」
「うん、色々。とにかく、な、……オレに来てる役、がさ、二種類、になってしもて。どっちか選んでええでって」
「二役、じゃなくて、どっちか?」
「どっちか。ひとつは、元々来てた役で、……なんていうんかな、三番手か四番手って感じの、」
「主人公の友達みたいな?」
「ああー、そうそう、そんな感じ。まあどういう役かはオレも知らんねんけど。あんまり、メインではない、かな。ほんでもう一つが、……二番手、ていうか。その、……準主役、らしいねん」
「マジで!?」
「マジで……、」
映画のスタッフロールなら主役に次ぐ二番目か、あるいは一番最後に出てくるポジションだろう。主人公の一番の相棒、ライバル、最後の敵――アイドルとしての歌やダンス、ではない分野に初めて進出する、その一作目なのに大抜擢が過ぎる。なんとなく察するに、色々、というのはいわゆる『大人の事情』で、本来依頼していた役者の側か制作会社の都合でキャスティングが変更になったのかな、と、まあうっすら想像はつく。
すごいやん、とは思う。どう考えたって、準主役の方を選ぶべきだ。だが――優心は、芝居をしたくない、のだ。
優心は言った。
「オレもさ、すごい話、なんやと思う。メンバーの他の人らでもそこまでの大役はまだやもん」
「そう……なんや、」
優心が、空を仰ぎ見るように顔を上げた。息苦しかったのかマスクを指でずらし――白い息がふわりと立ち上った。
「あのさあ、賢太郎、聞いて」
直接聞くのは久しぶりの、優心の言葉。賢太郎は、優心の横顔を見つめて、うん、と答えた。
「オレな、自分だけ一周遅れてるみたいな気しててん。他のみんなは、ソロでドラマとか映画とかの仕事来てて、でもオレだけ何も無くて。焦る、とかはないけど、オレはなんか足らんのかな、とか思ったりして」
けど雑誌の連載持ってんの優心だけやんか、と賢太郎は思ったが、それは言えずに、んん、と唸るような相槌を打つ。
「そやし、今度声かけてもらえたんはめちゃくちゃ嬉しいねんで。そやけどさ、……なんで舞台なんかな、て。ドラマとか映画やったらさ、上手くできるまで何テイクもやって、いいとこだけ使うとかできるけど、舞台てそうじゃないやん。一回きりやん。そもそも苦手やし、トラウマやし、ホンマ自信ない。こんなん、他のメンバーに相談できへん、そやからって、メッセとか通話で賢太郎に言う訳にもいかへんし、て……」
「そう、やなあ」
何もなければこの話も、賢太郎は聞いていないはずだ。優心は真面目。話していいこととダメなことの線は、ちゃんと引いているしそれを守れる。今の話だって、詳細には何も触れていない。
真面目――だから、迷っている。過去の体験のせいで苦手意識はあるけれど、仕事として依頼があった以上は受けなければならない。役に大小はないかもしれないが、やはり三番手よりは準主役の方が、感じる責任やプレッシャーはより大きくなるだろう。だけど。
「そやし、……もう、賢太郎に決めてもらおうと思て」
「……ん?」
一瞬視線を落とし、それから優心はチラリと伺うように賢太郎を見た。口元がかすかに笑っているのが見えて、だけどそれはちょっと強張っていて、賢太郎は小さく息を飲む。
「今日。メッセ一通だけ送って、……もし賢太郎に会えたら、大きい方、頑張ってみよって。会えへんかったら、最初から来てた方で精いっぱいやて言おう、って、思って、そんで」
ああ、と胸の内で呟く。
なんとなく、そんなような気がしていた。賢太郎が気付くかどうか試した、賭けか運だめしのようだと思ったその勘は当たっていた、がまさか、
「知らん間に、そんな大役背負ってたんか。オレ」
はは、と笑い交じりにそう言うと、優心はごめん、と呟いた。
「勝手に使て、そんなんで決めようとして、さ。けど、オレホンマに自信なくて。今までは好きでやってることやから頑張れたけど、オレに求められてることができへんかもしれん、て思ったら、この業界、ホンマは向いてないんかな、とかいろいろ考えてしもて、もう、頭ごちゃごちゃになってしもて……」
「向いてなくは、ないやろ」+1 -
君はポップスター(3)
(3)
賢太郎の卒業後の進路がようやく定まったのは、ほんの数日前のことだ。
父親は継がなかった祖父の喫茶店を、賢太郎が続ける――せっかく大学まで行ったんやから、一度はどこかの会社に就職して、喫茶店やるのはその後でもええやんか、と両親は言った。学費を払ってもらっている手前、親の意見ももっともだとは思った。けれど、そろそろ歳やしなあ、と引退を匂わす祖父から店のことを教わるなら、回り道をしている暇はない。
説得を続け、あまりいい顔をしていなかった両親、主に母親が、最近になってようやく折れてくれた。
去年の冬頃から、優心には時々打ち明けていた。
大学ではそれなりに勉強もしているし、友達もいる。居心地が良くて手伝い始めた喫茶店のアルバイトもなかなか楽しい。そこそこ充実した学生生活。卒業してからやりたいことも特に思いつかないのなら、大学の友達と揃ってリクルートスーツを着て、適性試験を受けたりして業界や会社を選んで、説明会へ行って試験を受けて……それがええのかなあ、と思うこともあった。
だけど、心のどこかで、ほんまにそんでええのか、と思っている自分もいる。ネクタイを締めて革靴を履いて通勤電車に揺られて――働く自分が想像できない。
高校の頃からちゃんと自分のやりたいことがわかっていた優心なら、なんと言うだろう? メッセで相談していた時、優心は言った。
『もし選べるんやったら、自分が今ホンマに大事やと思ってること、やるんが一番いいと思う。誰かに言われて選んだ先で、うまくいったらいいけど、あかんかったら、誰かのせいにしてしまうやん。』
どっかの誰かの受け売りやけど、と舌を出した笑顔の絵文字をくっつけて送られてきた言葉の意味を、賢太郎はそれからしばらく考えていた。
『ホンマに大事やと思ってること』――オレが、今、一番大事にしたいものは何やろ?かけがえのない、誰にも譲れない、大切にしたいもの――すぐに思い浮かんだのは、やっぱり優心のことだった。
東京で頑張ってる優心がいて、それを遠くから応援して、でも時間が合えばメッセの返事はすぐに来るし、しょうもないこと言い合って、たまに通話もして、相談したりされたり、励ましたり励まされたりする、こういう時間は誰にも譲れない。
だけど、それがどう『やりたいこと』になるのか、全くわからない。好きなもの、好きなこと、と思えばすぐ考えつくのにな。自分の単純さに呆れるばかりだった。
祖父がそろそろ店を畳むか――なんてことを言いだしたのはまさにその頃で、それでやっと賢太郎の迷う心に光が差した。
優心が世界で一番好きだと言ったナポリタン。優心と一緒に祖父に意見した、アイスクリームのウェハースの種類。高校くらいまではそれほど美味しいと思えなかったコーヒーも、最近ようやく上手く淹れられるようになったから優心にも飲んでみてほしい。優心と一緒に過ごした祖父の店、その場所を、その時間を、大切だと思う。大事にしたい。続けていきたい――できるかな? いや、できるかどうかじゃなくて、やるねん。
喫茶店継ごうかなと思って、親の説得はこれからやけど、と優心にはそれだけ伝えてあった。ええやん、絶対いい、応援してる、そう優心に励まされ、両親から卒業後は専門学校へ行く了承を得るまでに半年かかって――からの、今だ。
優心、優心、優心。思った以上にそればかりの自分に、あれ、オレそんなにか、と、ちょっと恥ずかしくなって、けれどもすぐに開き直った。だってホンマにそうなんやもん、しゃーないやん。
小学三年生で同じクラスになってからの、長い付き合い。優心は反論するかもしれないが、先に懐いてきたのは優心だ。
あの頃からすでにかっこよくて、スポーツ万能、性格も良くて歌も上手いのに決して驕らない。天に二物も三物も与えられたような非凡な存在から寄せられる好意が、賢太郎は単純に嬉しかった。
一緒に帰ろうと誘われたら次は自分から誘ったし、親の不在が多かった優心を家に呼んだり、祖父の店の隅で一緒に宿題をしたり――たぶん、小学生の間は、勉強に関しては自分の方がちょっとはマシだったと思う。算数が苦手だった優心に解き方を教えて、先生より分かりやすいと尊敬の眼差しで見つめられると鼻が高かった。
最初は、これといったとりえもない平平凡凡を地で行く自分が『あの』優心に好かれている、というどこか誇らしいような気持ちもあったが、ちょっと勉強が苦手で食べ物の好き嫌いも多くて、案外言うことが腹黒くて大笑いすると表情が崩れる、そういう色んな面を知るうちに、キラキラしているところもそうじゃないところも全部含めて、賢太郎自身が優心のことを好きになった。
信頼されれば同じだけ返したい、自分のやりたいことに全力で取り組む優心を心から応援したい、そのためにできることがあれば何だってやりたい――でもそれは、優心のため、ではなく、全部自分のためだ。
ずっと一緒にいて、今は遠く離れて、それでも気持ちはずっと変わらない。
自分でも驚くくらいに、賢太郎は優心のことが好きだった。+1 -
君はポップスター(2)
(2)
優心が東京へ行ってから今日まで、顔を合わせたのは三回。デビュー前の年は二度帰省していて、去年は夏に一度だけ。このときは他の友達も一緒だったから、二人きりになるのは二年ぶり。
会わない間もごく当たり前にメッセージは送り合っていたし、優心に時間があるときは通話もしていた。優心の仕事上『今はまだ秘密』というようなことは多々あって、それは絶対に言わないし、賢太郎も聞かない。だけど、仕事で疲れたとかダンス難しいとか、いろいろあってへこんでる、なんて言ってくることはよくあるし、悩み事があれば賢太郎聞いて、と打ち明けてくれる。メンバー同士遊びに行ったり買い物に出かけたりするし普通に仲がいいと言っていたから、賢太郎に相談するということは要するに『トイラブのユーシン』としてでなく『神谷優心』として尋ねているのだな、と思うので、賢太郎もそのつもりで返事をした。
賢太郎の方も、例えばここしばらくの悩みの種だった卒業後の進路について意見を聞いたりして、要するに祖父の店やパンダ公園での関係は、形や頻度を変えてもずっと続いていた。
けれどやっぱり、そうやって電波の上や文字だけで遣り取りをするのと、実際に会って話すのとは全然違う。ビデオチャットにしたってメッセや通話と同じ、声の温度や空気感はわからない。
今、優心は賢太郎の隣にいる。
空は暗く気温は低いが、立ち上る白い息に体温を感じる。
声が、すぐそばで聞こえる――CDや配信で聞くのと同じ声なのに、やっぱり違う。
数百、数千のファンに向けるものとは別の――つまり、テレビや動画やライブDVDで見るトイラブのユーシンのそれではない――くだらない冗談を言い合う賢太郎の幼なじみ、神谷優心の笑顔が、こんなに近くにある。
どこかくすぐったいような喜びを感じる。
賢太郎と優心の共通の友人のこと、賢太郎の家族のこと、それから、昔よく遊びに行った駄菓子屋が潰れて更地になり、近所一帯に開発がかかってマンションが建つこと――話題が話題を呼び、取り留めもなく止めどなく話す。
賢太郎の大学の話は、尋ねられればする。優心の仕事の話は、本当はいろいろ聞いてみたい気持ちはあるが、優心が話したい時だけ聞く。賢太郎と話している時は『トイラブのユーシン』じゃなくて素の神谷優心だ。こちらから根掘り葉掘りしない、絶対に。これは賢太郎が自分に課しているルール。
そして優心の実家のことは、敢えて尋ねない。優心が話さない以上、以前から変化はないのだろう。
優心の家族は、輸入関係の仕事で海外赴任の父親と、展示だ仕入れだと全国を飛び回っているアクセサリー作家の母親。高校の頃の優心はほぼ一人暮らしの状態だった。通いの家政婦さんに家事の一切を任せ、朝食は抜きかたまにシリアル、昼食は私立校の食堂、そして夕食は賢太郎の祖父の店で食べる。だから優心と賢太郎は、学校が違ってもほとんど毎晩顔を合わせていた。
どちらかというと暑苦しい家族観をもつ賢太郎から見ると、神谷家はドライすぎるようにも思えるが、優心はその距離感がちょうどいいと感じているらしい。話題にしないからと言って愛がないわけじゃないし、顔を合わせなくても家族は家族。
賢太郎は過去に二度、神谷家が三人そろっているのを見たことがある。中学の卒業式のとき、それから、高校三年で優心が今の事務所に移籍することになったとき。
その頃の優心は、地元の小さな芸能事務所に所属していて、部活感覚でご当地アイドルのようなユニット活動をしていた。だが運営会社自体がダメになり、その時いくつか声をかけてきた事務所の中で、一番大きく安定しているところへ移ることになったのだ。
その契約の場に、優心は『喫茶トリップ』を選んだ。優心と両親、事務所の偉い人、それから、のちにトイラブのマネージャーとなる女の人が来た。同席はしないが賢太郎も祖父と一緒に店にいて、その様子を見守っていた。店は貸し切りだった。
神谷夫妻はいつ見ても、纏う雰囲気が明らかに庶民ではなかった。一言でいえばノーブル。美オジと美魔女、そして間違いなくその遺伝子を受け継ぐ優心。
いつも優心と仲良くしてくれてありがとう、これからもよろしくね、と笑いかけられ、はいよろこんで、とどこかの居酒屋みたいな返事をして、普段学校では取り澄ましたような顔をしていた優心が破顔してしばらく笑い続けていたことは、今でも時々思い出す。
ご近所ネタもあらかた話し尽くして、まあざっとこういう感じよ、この辺は、と賢太郎がまとめると、優心の最初の感想は、
「七尾家は相変わらずやな」
という笑い交じりの一言。お笑い芸人にやたらと詳しい両親と、トイラブではない別のアイドルグループを箱推ししている妹、旅行好きが集う喫茶店の名物マスターとしてブログか何かで紹介されたせいでちょっと有名になってしまった祖父、そして賢太郎。
「まーうちはずっとこんな感じやろうなと思う」
そう言うと、優心はマスクの下で小さく、ふふ、と笑った。そして、
「……うちも、相変わらず、なんやけどさ」
と続けた。
「……、おう」
思わず驚いたような声が出てしまう。
優心が家の話をするのは、ものすごく珍しい。
あまりにも話題にしないから、家族のことを嫌っているのだろうかと思ったこともあるが、そうでないことはすぐに分かった。七尾家とは形の違う、家族の情がちゃんとある。
優心が、ポツリポツリと話し始めた。
「こないだ、めっちゃ久しぶりに電話で話したんやん。したらなんか……、ウチの母親の作ったコサージュがめっちゃ売れてて、もう予約もいっぱいで受けられへんくらい、とかって」
「へえ~。おばさんも変わらずすごいな。コサージュて、なんか飾りやんな? 入学式とかでお母さん方がつけてるヤツ」
「そう、そういうの。ほんで、……別に何か意識したわけではない、て、母親は言うてるんやけど、笑てたからそれたぶんウソで……その、色が、さ。紫色、の、シリーズを出したんやって」
探り探り話すユーシンの言葉。その色を思い浮かべて、すぐにピンとくる。
「え、それって……?」
紫はトイラブにおけるユーシンのイメージカラーである。優心は、ウン、と頷いた。
「オレさ、公表はしてないけど、インタビューとかで母親がアクセサリー作ってるって言うたことあったかもしれんくて」
かもしれん、じゃなくて、言うてたで――と賢太郎は思ったが、ただ、うん、と相槌を打つにとどめた。どうやら優心は、そういうメディアでの露出を、友達にあまり見られたくないようなのだ。
今年の四月ごろ、若い主婦向け雑誌に載ったトイラブのインタビュー記事で、母の日のプレゼントというテーマがあった。ユーシンは、母親がアクセサリー作家なのでアクセサリーはまずやめとこうかなと思います、みたいなことを言っていた。
「ほんで母親の屋号も、」
「ああ、マダム・カミヤ」
賢太郎の知る限りユーシンが母親のブランド名を公に言及したことはないが、ユーシンの本名はネットで調べれば普通に出てくるし、神谷、アクセサリー、と並べれば、もしかしたらと思う人もいるかもしれない。そこへきて、紫色の新作シリーズ。
ファンの間で噂になって、もしかしたらユーシンのお母さんかもしれない、そうじゃなくてもカミヤというブランド名なのがいい、色もぴったり、というわけで、ユーシン担の口コミが広がり――予約が殺到している、というのだ。ああ、想像に難くない。
「ん、それって夏ごろの話?」
「電話で聞いたのは九月ごろかな。なんで?」
「や、うん、そうかあ」
言われてみればその頃、どこかの知らない誰かのSNS投稿でまさにそのコサージュの写真を見たような気がする――たいていそういうのは、トイラブとかユーシンとかで検索をした時の話だ。推しメンカラーのアイテムとみれば買ってしまう人は多いらしく、その時も紫色の大ぶりなアクセサリーの写真を見て、ああユーシン担か、と思った覚えがある。
マスクの下で見えないが、心なしかユーシンの頬が、少し笑ったように見えた。
「なんかさー。オレがこういう仕事させてもらってるのって、オレが好きでやってるだけってずっと思ってたけど、何ていうか――何かするにしても、オレ一人の問題じゃなくなってきてるんやな、て、思ってさ」
遠くを見るように顔を上げ、それからベンチに置いていた炭酸水を口に含む。いる? と差し出されてとっさに受け取り、一口飲んだ。意識しなければ特に問題のないごく自然な行動なので、深くは考えない。間接ナントカ、なんて、考えてへん。考えたらあかん。あかん。
ありがとう、とペットボトルを優心に返しながら、賢太郎の予感は確信に変わる――やっぱり、なんかあったんやな。
ふわふわしているように見えて、優心は案外真面目だ。自分が好きでやっているだけだと、これは以前から嘯いてはいたけれど、本当にそうなら悩む必要も、迷うこともない。好きなことだけやる、そうじゃないことはやらないという道を選ぶことだってできる。だけど優心はそれをしない。昔から、悩み、迷い、賢太郎に相談してくれた。大人の知恵が必要な時は、賢太郎の祖父にも意見を求めた。
賢太郎もそうだった。悩み事や迷いがあれば、親より先に優心に打ち明けた。自分がクソがつく方の真面目な性質である自覚はあるから、きっとそういうところが、自分と優心は似ているのだと思っている。
だから――今呟いた優心の気持ちが、賢太郎にはなんとなくわかる。
何かをするにしても、自分一人の問題ではなくなってきている――優心はおそらく今、これまでとは違う何かしらの責任、そして迷いや不安を感じている。やりたい、やりたくない、できる、できない、やらなきゃいけない――自分のファンによってマダム・カミヤのコサージュがバカ売れして嬉しい、というだけの話ではないのだ、たぶん。けれど、それを真正面から賢太郎に打ち明けないのは、優心の仕事に関わる問題だから。『今はまだ秘密』の話が、優心の仕事にはついて回る。
ダウンのポケットに両手を突っ込んで右手に触れたカイロを握りしめ、
「なあ、優心」
と、呼びかける。
ん、と返事をして優心が振り向く、それを見届けて今度は賢太郎が顔を上げて夜空を仰いだ。雲はなく晴れた夜空は、その分暗い。
今日の優心は、賢太郎に会いに来ただけ。もしかしたら全部賢太郎の思い過ごしで、悩み事なんて何もないのかもしれない。それならそれでいい、だけど。
「優心てさ、……けっこう責任感強いとこあるやん。心配したり、悩んだり、いろいろ考えてしまうのって適当ができへんからやんか。オレ、そういうの大事やと思うねん、何をするにしても。お前のそういうとこ、す……ええと思うで」
「……、」
優心の視線を感じる。振り向かなくてもわかる。賢太郎は続けた。
「そやし、……オレは、優心今の仕事向いてると思うし、何でもやれるし何にでもなれるって信じてる、けど、もしなんかあって、もう無理、てなっても、ちゃんとここに帰ってくるとこあるからな。ウチの店で雇ったるから、仕事もあるで」
全く具体性はなく、曖昧で、中途半端な言葉。だけどなんとなく、今の優心に伝えておきたかった。
「……ん、と、え、ウチの店、て、ほな」
「うん、親も納得してくれてん。卒業したら一年専門行って、もうしばらくはじいちゃんの弟子やけど」
自分が、ホンマに大事やと思ってること、やるんが一番ええねんもんな、だから。
「何があっても、オレはここにおるし、ちゃんと見てるから。優心」
お土産なんかいらんしな。ギリギリまで悩まんでいいから、いつでもただいま、って普通に帰っといで。+1 -
君はポップスター(1)
(1)
――わたし、メリーさん。今、あなたの近くのパンダ公園にいるの。パンダ公園なのに、パンダがいないの。
「……、メリーさん、この一年帰ってきてないからなあ……」
スマホを握りしめ思わずつぶやく。メッセージの送り主はもちろんメリーさんではない。
「じ……マスター、ごめんちょっと出てくる。すんません、失礼します」
頷く祖父――マスターを尻目にエプロンを着けたままダウンジャケットを羽織り、カウンターの常連客に笑顔で頭を下げ、ドア横の鏡で一瞬髪を整えて――暗めの茶髪は先週カットに行ったばかり。行っといて良かった!――七尾賢太郎(ななお・けんたろう)は店を飛び出した。ちりんちりんと軽やかなドアベルの音が、すっかりクリスマスムードに彩られた夜の商店街に響く。隣の居酒屋は、毎年店の前に派手なイルミネーションを置く。年々パワーアップしている気がする。
バス通りの交差点で、信号待ちの間にスマホを見る。メッセージの受信時間は午後六時五十分、今は七時二十五分。三十分前だ。このタイミングで気づけたからまだ良かった、下手をしたら店を閉めて家に帰るまで気がつかなかった可能性もある。考えただけで背筋が凍る。
「もう、なんでメッセやねん、ていうか何で公園やねん」
思わず小声で悪態を吐き、早く変われと念じながら車道の信号を見つめる。そちらが赤になった瞬間、歩行者用の色が変わらぬうちから歩き出す。
通称『パンダ公園』は、賢太郎の祖父が営んでいる――賢太郎がアルバイトしている喫茶店『喫茶トリップ』を出てすぐの横断歩道を渡った先、コンビニと交番とに挟まれた児童公園だ。
広く開けているうえに夜でも明るく、ついでにお巡りさんもすぐ近くにいるというので、近隣に住む部活帰り・塾帰りの生徒たちの、健全な溜まり場である。
賢太郎も中高生の頃はよくここで遊んだ。コンビニで駄菓子やジュースを買って、遅くまでくだらない話をして過ごした。大学三回生、二十一歳になる今振り返ってもそう遠い昔ではないが、自分の青春はほとんど祖父の店かこの公園で出来上がっている、と賢太郎は常々思っている――が、だからと言って、『今』、『ここ』はないやろ。お前のファン層、ティーン女子ちゃうんか。
コンビニの駐車場を斜めに突っ切って公園に足を踏み入れる。今年に入っていくつかの遊具が撤去され、砂場と鉄棒だけになってしまったパンダ公園――街灯の下のベンチに腰掛け炭酸水のペットボトルをもてあそぶ、若い男が一人。思わず息を止めてしまう。
高校生たちの姿はない。そらそうや。確かにあの頃の自分たちも、先客がいる、あるいは後から誰かが来たら、潮が引くように公園を離れた。それが知らない大人なら尚更だ。とにかく今日は、人目について騒ぎになる可能性が減ったのは喜ばしい。
ベンチに座っている男は、目深にかぶったキャップにジョガーパンツ、それだけならランニングの途中に見えなくもない。がそれにしてはおしゃれなスニーカーと暖かそうなボアのジャケットを着こみ、口元にはマスク。要するに、大学でよく見る――そこら辺にいる賢太郎と同年代の量産型の男子である。たまに教室で隣になったら上着が色まで被ってて、めっちゃ気まずいやつやんこれ。
一瞬立ち止まって深呼吸、気持ちを整え、それから、
「なんでいきなりここやねん、もうちょっとじわじわ近づいてきいやメリーさん」
そう賢太郎が声をかけると、若い男が勢いよく振り返った。
「賢太郎!」
指でマスクを下ろして、満面の笑み。
その瞬間――目の前にいたはずの『そこら辺にいる量産型男子』はパッと消え去り、脳内にはキラキラの衣装を身につけた王子様が現れる。街灯のあかりはまるでスポットライト。胸のあたりがドキンと大きな音を立て、軽くめまいを覚える。口元が見えただけでこの有様だ、完全にマスクを外してキャップを脱いだら、そのあかりはもしかしたらステージを彩るド派手な電飾に見えてしまうかもしれない。突然の状況に、相当浮かれている。
「わー初めて見たその格好。かっこええやん、長いエプロン。足長く見えんな」
「見えるんちゃうねん長いねん、あ、ちょっ、捲るな」
「下はいてんのやしええやんか」
「当たり前やろ! てかもういいから、マスクしといて」
一瞬ライブ会場になりかけた空気は、そういういつもの冗談によってただの師走の夜の公園に戻り――賢太郎は男の隣に腰かけた。
へへ、と笑って頷いて、マスクを戻す横顔を眺める。
長い睫毛、筋の通った鼻梁、くっきりしたフェイスライン。耳の横からのぞいている髪は黒い。生放送の歌番組で見た夏頃は明るい色にしていたが、やっぱり黒髪が一番似合うなあと思う。キャップの下は、たぶん後頭部を短めに刈り上げたマッシュヘア。顔が小さいので、これも似合っている。
その気になってじっくり見れば、帽子を被ろうがマスクをしようが、相変わらず全方位に隙の無い整った顔立ち。今は座っているから目立たないが、手足も長いしバランスがいい。かっこいい。かっこよすぎて、昔から嫉妬心すら湧かない。むしろ見惚れるし、なんならため息が出る。改めて『実物』だ、と思ったら、またドキドキしてきた――妙な緊張と喜びが混ざり合っている。
まだ行ったことはないしたぶんこの先も行くことはないが、握手会ってこんな感じかな、いやあかんあかん、こんなん、普通のファンみたいやんか。
今はただの、いつもの、素の『優心』やから――賢太郎は、ふう、と小さく息を吐いた。
男――神谷優心(かみや・ゆうしん)は、小・中と同じ学校に通った賢太郎の幼なじみである。
高校は別の学校に通い、卒業後、賢太郎は地元の私立大学へ。そして優心は新たなステージを目指して上京し、今年で三年目になる。
この場合の『ステージ』は比喩でも何でもない。優心は今、職業として様々なステージに立っている。最初はCDショップのインストアライブやイベントの特設ステージ、それからすぐに同じ事務所の他ユニットとの合同ライブに出るようになり、今や単独開催ができる規模、ただし残念ながらアリーナはまだだ。だがテレビなら最近は、BSや有料チャンネルの専門番組だけでなく地上波の歌番組にも出演するようになった。
そこそこ大きい芸能プロダクションのもと三年前に結成し、二年前にメジャーデビューを果たした五人組ダンスアンドボーカルユニット『トイボックス・ラブシアター』、略称『トイラブ』。神谷優心――ユーシンは、そのメンバーの一人である。歌は文句なしに一番で、ダンスでは断トツに上手い二人がいるのでユーシンを含む三人が同率三位、という印象である――賢太郎の独断なので、ひいき目の自覚はある。
ある時はキラキラの王子様、またある時はモノトーンなおしゃれスーツ、時々何だかよくわからないが派手でかっこいいステージ衣装を身にまとい、歌をうたい、ダンスをし、トークもこなす。番組の企画によっては食レポもする。まだ端役だがドラマや映画に出演したメンバーもいるし、ユーシンは雑誌にコラム連載がある。公式が配信している最新の動画では、芸術の秋と銘打って陶芸チャレンジをしていた。完成品の出来はそれほど良くはなかったが、それはそれで味があった――ひいき目の自覚は、やっぱり、ある。
シングルは恋の歌や応援ソングが多く、アルバムにはメンバーのソロ曲もある。CDをリリースすればお渡し会もやるし握手会やチェキ会もある。『トイラバー』と呼ばれるファンたちは推しメンバーのイメージカラーを身につけイベントに出かけ、推しメン色のサイリウムを握りしめてライブに参加する。
SNSを検索すると、トイラブから夢や希望や生きる意味を受け取ったトイラバーたちの熱い呟きがこれでもかと流れてくる。時々、背筋が寒くなるヤバい感じの書き込みもあるが、これが有名税というやつか、と思いながらブロックする――賢太郎が個人的に。ただし賢太郎のそういう行動を、優心は知らない。要するに、賢太郎の幼なじみの神谷優心は、『アイドル』なのである。
十二月は忙しい、クリスマスライブが終わったら年末は年越しフェス、年が明けたらライブツアーも始まるし、毎日練習、時々集録、たまに取材、合間にレッスン。しんど!――というようなハードスケジュールをメッセで伝えてきたのはつい最近のことで、東京で忙しく仕事をしているはずの優心が、ただの平日のこんな時間に、なぜかパンダ公園で賢太郎の隣に座っている。前に会ったのは去年の夏頃で、一月にあった『成人のつどい』にすら帰ってこなかったのに――まあ、それは仕方ないな、とは思うけど。
会ってはいないがテレビでは見ているし、メッセの遣り取りも頻繁なのでそれほど久しいとは感じていないのだが――久しぶり、という挨拶もそこそこに、賢太郎はまず尋ねた。
「てか急にどうしたん。実家に用事かなんか?」
「いや? 家には寄ってない。てかたぶん誰もおらんし」
「は?」
「賢太郎に会いに来てん」
キャップの影になった優心の目元が、賢太郎をまっすぐ見て笑う。マスクの下の口元もきっと笑っている――心臓が痛い。オレにファンサしてどうすんねん、という言葉を飲み込んだら、賢太郎の喉からは、ぐ、という変な音が漏れた。何を言うてんねん、とツッコむ前に、優心が小ぶりな紙袋を突き出してくる。
「はいこれお土産」
「は? え、あ、ありがとう」
反射で受け取って中を覗き込むと、街灯のあかりにもはっきりわかる、黄色い包みの東京銘菓。
「おお、サンキュー。これオカンと妹がめっちゃ好きやねんなあ」
「……賢太郎は?」
「ん? 好きやで」
ただ一人占めするほど食い意地も張っていないので、とりあえず自分の分は確保してからリビングに置いておくか――なんて考えながらそう答えると、優心は目元を細めて、どこか満足げに、ふふ、と笑った。明るいところで見たら、きっとそれは、はにかんだような笑み。ホンマやめて、心臓が持たへん。
「次はいっぱい入ってんのん買ってくるわ」
「や、嬉しいけど気遣わんでええで、嬉しいけど。なんか別のバージョンのやつとかもあるやん、あれも好きやけど」
動悸をごまかすように冗談めかして賢太郎が言うと優心は、今度はハハハと声を立てて笑った。
もう一度ありがとうと言って紙袋を脇に置き、優心に向き直って話を戻す。会いに来た、と言うのなら、
「こんな寒いとこ待ってんで、店来たらええのに」
「んー、まぁ、そうなんやけど。ここの前通ったら、久しぶりやなーと思って。パンダ公園やのにパンダおらんくなってるやん、びっくりして」
理由になっているような、なっていないような――だけど思い入れがあるのはそうだったかもしれない。今は亡き『パンダ』は、他の新しい公園みたいに弾んだり揺れたりしないただパンダの形をしているだけのベンチで、優心のお気に入りだった。
「今年の二月くらいに撤去されたわ、パンダ。ひび入ってて、老朽化やって」
「そうなん! かわりのパンダ来おへんかったら、パンダ公園とちゃうなるやん」
優心は、こういう素ボケたことを普通に言う。テレビの中では東京言葉を話し、顔立ちに似合ったアルカイックスマイルを浮かべて、トイラブのエレガント担当――なんのこっちゃ。時々隠しきれずに地元の言葉が出て、可愛いとか言われている。
「別に正式名称ちゃうからな!? オレらがそう呼んでるだけで」
「あそっか。ほなこれから何て呼んだらええんやろ、鉄棒とか砂場なんて大体どこにでもあるしなあ」
「パンダ公園はパンダ公園でええやろ、伝われば」
「そっか。そやな。伝わったもんな、今日も。よかった」
「よかった、とちゃうわ、なんでメッセやねん。気づかんかったらどうすんねん、せめてこういう時は通話にして。それか、もうちょっと前から言うといて」
この季節、この寒空の下で三十分も待たせてしまう羽目になった。賢太郎はそれが気になって仕方がないのだ。オレが気付かんかったせいで、風邪でも引いたらどうすんねん。
「はは、ごめん。今日昼からオフやったんやけど、なんかなーって思ってるうち気がついたら新幹線の切符買ってて、」
「は? 夢遊病かなんか?」
「次、気がついたらそこの駅におって、賢太郎に言うとこて気づいたん、ここに着いてからやねん。メリーさん計画性なかったわ」
「計画性ないどころかメリーさんフットワーク軽すぎやん。オレなんかまだ一人で新幹線乗ったこともないのに」
「二時間ちょっとやもん、そんな遠くないで」
「いや遠いやろ」
アイドルにだって、地元もあるし友達だっている。会いに来たと言われればただただ嬉しい。だけど、急に思い立ってふらっと帰ってくる距離じゃない。
が、ふと気づく。
国民的というにはまだまだ知名度が足らない、とはいえ優心は――トイラブのユーシンはテレビにも出ている芸能人だ。有名俳優が主演を務めたドラマの主題歌も歌っているし、雑誌の表紙になることだってある。目撃情報が飛び交う昨今の対策として――まじまじと眺めてその顔立ちに気付かれさえしなければ、という注釈はつくが――優心のこの姿は変装としては完璧だと思う。
つまり優心は、そこまで念入りに身なりを整えたうえで――しかもお土産まで買って――新幹線に飛び乗って帰って来たのだ。
――何かあったんかな。
だけどそう尋ねても、優心はきっと、大丈夫何もないで、なんて言って話さない。もし賢太郎に聞いてほしい話があるのなら、賢太郎聞いて、と最初から言うのが優心だ。
ただのアホだった小学生時代はともかく、いろんなことを考えるようになった中学生の頃、そして別の学校に通っていてもほぼ毎晩顔を合わせていた高校の頃、優心と賢太郎はずっとそういう関係だった。
学校の友達には言えないここだけの話。進路に対する悩みや迷い。家族の愚痴。内緒話をしたのは、いつもこの公園だった。
賢太郎に会いに来た、と優心が言うのならそうなのだ。祖父や他のお客さんもいるかもしれないから店には来ず、賢太郎が気付くかどうかもわからないメッセージを一通送っただけで呼び出して――ホンマに、オレが気付かんかったらどうしてたんやろ。来るまで待ってた? それとも、会わずに帰った? 賢太郎がメッセージにすぐに気付くかどうか、例えば賭けか運試し――考えすぎか。
優心のその行動だけが些か謎ではある、けれども、自分が今でも、遠く離れたところで頑張っている優心にとって会いたいと思える存在であることは、素直に嬉しい。
「……寒ないん、」
若干遠回しに、優心の都合を尋ねる。平気だと言うなら、このままここで話せばいい。
「大丈夫。背中にカイロ貼りまくってるしポケットにも入れてる」
「一周回って好感度高いヤツやん」
「一個あげるわ」
ボアジャケットのポケット両側から出てくる、小さい使い捨てカイロ。はい、と一つ手渡され、
「両手かい。ありがと」
思わず吹き出しながら受け取って、握りしめる。少しかじかんでいた指先が、じわじわと息を吹き返してきた。
優心の温もりが伝わってくるような感覚――これは手つないでると言っても過言ではないのでは、とか考えてしまう自分が、ちょっと気持ち悪い。+1