瀧殿縁起 第一章「孤高の王」1
第一章 孤高の王
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七限終業のチャイムが鳴った。
その瞬間しゃべりだす誰かの声、テキストやノートをバサバサ閉じる乾いた紙の音、引いた椅子が床を擦り、教室前方と後方の扉が大きく開け放たれる。戸が開いた途端、運動部の声出しや管楽器のロングトーン、開放的なざわめきが流れ込む。廊下の窓の向こうは梅雨入りしたての厚い雲、だが今日はまだ、雨は降っていない。
七限の数学はいつも演習で終わる。授業時間に解けなかった分は宿題になるから、あとは放課。部活やバイトに急ぐ者、授業中は操作厳禁の携帯端末を取り出して忙しなく指を滑らせる者、引き続き演習に取り組む者――夏服に衣替えをした生徒たちが、三々五々。
春田三月は猫背気味に丸めた背筋を伸ばして、教室をぐるりと見回した。背が高い分座高も高いため、席に着くとかがむような姿勢を取るのが癖になっていた。今の席は一番後ろなのに、癖は抜けない。
『彼』はもういない。あーあ、やっぱり今日もか。三月は小さくため息を吐いた。
今日で三日連続、『彼』とは言葉を交わしていない。三月のクラスでは必修である朝のゼロ限――通常の一限より前に行われる特別カリキュラム――にはどういうわけか参加していない『彼』は、昼休みは弁当を食べ終えると自分の席でさっさと寝てしまうし、七限のあとは風のように消えてしまう。部活動に参加していない、いわゆる帰宅部なのは承知しているから、とっくに帰ってしまっているのだ。それはいつも、あまりにも素早い――遭遇率が低いタイプ。確かにレアキャラみはあるよな。
「春田君、今日、時間ある?」
まだ耳に新鮮な、この地方のやわらかいイントネーション。声のした方を振り向くと、声の主は斜め前の席に座る髪の長い女子――名前、何だっけ? Aでいいや。梳かした前髪の向こうで困ったような表情を浮かべる彼女のすぐ傍に、肩上で切りそろえたボブヘアの女子B、それに男子が三人、C、D、E。
それとわかるかわからないか、ギリギリのラインのメイクをしている女子たちと、髪と眉をかっこよく整えた男子たち――クラス内の位置づけを説明する上でしばしば例えられるピラミッドの形、その上層に位置するグループの生徒たちである。クラスで何かを決めるときの発言力があり、教師受けもよく、他のグループのメンバーとも言葉は交わすが距離は等しく、仲間内の意識が特別に強い男女混合集団――いわゆる『陽の者たち』。
サッカーだかバスケだかの球技系部活動に参加している男子生徒たちは、エナメルを背負ってシューズバッグを手にしているところを見るとこれから部活に向かうようだが、吹奏楽だったか合唱だったかとにかく音楽に関する部活の女子二人はまだ教室を去る様子がない。
数学、英語、国語がローテーションになる七限の授業で、やはり数学だった一昨日、女子Aに演習問題の解き方を尋ねられて三月が教えた。数学教師がなぜかわざわざ授業中にクラスのみんなの前で確認したせいで、三月がすでにこの単元を終えていることがバレてしまった、それがたぶん、一つのきっかけ。グループのリーダー的な存在であるらしい男子Cは、三月と席が隣ということもあってか何かにつけて声をかけ気遣ってくれていて、そういう流れでここしばらく、三月の周りには終始このグループのメンバーがいる。『彼』と話す機会がないのはその所為だ――とは、さすがに言わないけれど。
「今日の演習の問四、全然わからへんくて……、」
彼女が言うとそこに被せるような勢いで、
「ウチ問二からもうあかんかった」
「序盤やん、そこはそんなムズないやろ」
「えもしかして全部終わったん? 見してえや」
「いや終わってないけど、てか問二は解けへんかったから飛ばしたけど」
「ちょっとどの口が言うてんねん」
「この口ですぅ」
みんな口々に好き勝手なことをしゃべり出す。男子生徒たちは部活に行くのだから、要するに女子二人が三月に演習問題の解き方を教えてほしいと言っているのだ。こっちの人たちの会話って本当にすぐに漫才みたいになるんだなあ、と心の片隅で感心しながら、三月は少し残念そうな笑顔を作って答えた。
「ああ、ごめん。今日は用事あって、もう帰んなきゃダメなんだ」
「あ、そうなんかあ。あー、そっか、じゃあ、今日は自分で頑張ってみるわ」
「うん、頑張って。今日のは結構素直な問題だったと思うよ」
答えながら、バッグにテキストとペンケースを放り込む。焦げ茶色のレザーボストンは、こちらの学校では鞄の指定がないし、型押しの校章もそれほど目立たないので、以前からの物をそのまま使っている。
帰んなきゃダメな用事、なんて、実は特にない。だが残って彼女たちに数学を教える気分でもない。バッグを肩に掛け、じゃあ、と三月が手を上げると、男子三人が、オレらも行こか、そやな、ほな、と口々に言い、すると女子二人も、待って待ってウチらももう行くし、と慌てた様子でテキストを机に仕舞った。テキストを置いて帰るのなら、今日は『頑張らない』んだな、とうっすら思ったが、そんなことは間違っても口にはしない。
部活へ急ぐ必要も特にないらしい男子たちは、談笑しつつ他のクラスメイトとも時折挨拶を交わしながら、戸口で女子たちの帰り支度を待つ。
帰る三月は昇降口へ。他のみんなは部室に行くのだろう。この学校では、運動部の部室棟は体育館の傍にあり、音楽系の文化部ならばおそらく部室は音楽室――ただし楽器の練習は校舎のいたるところで行われているようだ――で、特別教室も普通教室とは別棟になる。特別教室棟は一階の渡り廊下でつながっているからいずれも一階まで降りるのは同じだが、何もみんなで連れ立って行く必要はない。だが、『みんなで一緒』というのが、たぶん彼らの仲間意識の中核にあって、そういう仲であるグループが好きで、そういうグループにいる自分が好きなのだ。それに付き合うのは、三月にとっては礼儀のようなもの。
お待たせしましたぁ、と彼女たちがやってきて、そしてようやく、六人揃って教室を出る。
どちらかと言えば背が高い、無駄な肉のない体つきに自然な清潔感を備えた顔つきの男子たち。その肩ほどの身長で見た目も態度も『それ』らしい女子たち。今のところそんな様子は感じられないが、たとえメンバー同士の誰かと誰かが付き合っていたとしても極めて健やかな関係に見える――絵に描いたような爽やか高校生グループ。
三月はその男子たちより、さらに背が高い。顔つきや体格、つまり見た目もそう悪い方ではない――これは己惚れではなく、これまでの経験から客観的に判断した結果の認識である。己惚れていいなら、いわゆる『顔面偏差値』は高い方――。人当たりもよくあろうと心掛けている。だから、というと露悪的すぎる気もするが、おそらく彼らは、三月を自分たちのグループに迎え入れようとしているらしかった。
そうと明言されたわけではないけれど、『そういう感じ』に、三月は敏感だ。そして、『そうなるだろう』予想も立てていたし、『そうなるように』振る舞おうとも考えていた。
背が伸び始めた中学生の頃から、いや小学生の頃から薄々気付いてはいた。春田三月という存在は、どうあっても目立ってしまう。それなら、『そういう』自分は『そういう』場所で、まわりに求められる役割を演じること。相手の期待は裏切らず、自分は期待しないこと。自分からは動かず、出しゃばらず、何かに執着しないこと。それが日々を穏やかに過ごすための方法だ――そう、思っていた。そう、あろうとしてきた。
ここに来るまでは――否、『彼』に会うまでは。
*
春田三月は、転校生である。
今、三月に求められている役割を明文化するならば、『中途半端な時期に都会の私立校から田舎の小規模公立高校にやってきた、態度も見かけもそこそこによい、謎の転校生』――といったところか。彼らの方言を話さない、というのも、ポイントは高いかもしれない。自分のことはあまり話さず、転校の理由も曖昧にごまかして『謎』を演出。誰に対しても紳士的な態度を心がけているし、みんなが三月に対して抱きたいイメージを壊すような言動もしない。そして、転入してからもうすぐ二週間になろうとしている今、例の陽キャグループからお声がかりがあったところを見ると、三月の思惑は成功していると言っていい。
四月に学年が上がってクラス替えがあり、新しい級友に慣れ始めた五月、大型連休が明けて中間試験が始まり、採点と返却も済んで学校全体がそろそろ落ち着きを見せ始めたその月末、三月はこの学校――県立千鳥高等学校――の二年三組に転入した。
一学期の中間試験は前の学校で受けたところだった。その成績が新しい学校でどのように評価されるのか、三月は知らない。テスト勉強は頑張った、というほどでもないが、それなりの結果は出したはずなので無駄にされたくはない。だが、そのあたりは全く曖昧にされたまま、三月は転校することになったのだった。
二年三組の教室で黒板の前に立ち挨拶をしたのは先週の月曜日――前の学校で『事』が発覚からわずか十日のことである。さすがに早すぎる、とは三月も思った。制服なんて当然間に合わないから、数日の間は前の学校のものを着る羽目になった。
普通こういう転校などというものは、もちろん事情はそれぞれだろうが多くの場合、親の仕事などに従って発生することが多いのだろうし、例えば春の異動なら春休みとか、秋の異動なら夏休みとか、長い休暇の間に手続きを済ませ、引っ越しを済ませて、満を持して行うものじゃないのか――まあでも、普通じゃないしな。春田の家は。
大体、三月の転校は親の『仕事の』都合ではないから、季節に縛られるものでもない。祖父の名前と人脈を使えば書面的な意味での時短はできるのだろうし、そもそも早すぎるとは思ったがそれが不満なわけでもない。
三月としては、むしろ歓迎したい処遇だった。
一分、一秒でも早く、あの家から出たかったのだ。ここじゃない、帰りたい、と、ずっと思っていたあの家から。
行き先はどこでもよかった。全寮制の兄弟校でも、縁もゆかりもない他県の田舎の小規模校でも――いや、しかしそれは、正直全く予想していなかった転校先だったわけだが。
*
運動部の男子二人DとE、その後ろに三月とCが並び、その後ろにAB女子二人。七限があるのは各学年に一組ずつの特進クラスだけで、それらはどの学年もすべて教室棟の四階に集められている。だからこの時間、賑やかに人の気配があるのは四階だけだ。だらだらとした足取りで人気の少ない階段を下りながら、
「春田君、電車やっけ?」
とCが言った。通学方法を尋ねているのだろうことはわかる。
「うん、そう」
三月が頷くと、前を歩く男子Dが振り向き加減に言葉を継いだ。
「家どの辺なんやっけ」
自分のことを尋ねられても、あれこれ詳細に話す気はない。一時的な、会話を持たすためだけの興味だとわかっている。そもそも前にも同じことを聞かれた気もする――三月にしたって覚えていないが。だから質問されたら軽く答えるに留めて、
「えっと……駅は羽戸駅、で、そこから山の方に歩いて五分くらい……って説明で、わかる?」
「あー、あっち方面か。わかるわかる。駅近くてええやん」
その返事から察するに前に尋ねてきたのは彼ではなかったのか、と頭の片隅で考えながら、
「みんなは、自転車だっけ」
逆に質問で切り返す。
「そー、チャリ通」
Dが頷く。男子三人は同じ中学の出身で、そのときから部活のチームメイトなのだという話は、前に聞いた。
「オレらの家らへんて駅めっちゃ遠いんやんか。そやし、電車乗ってまた駅から歩くより、山越えてきた方が早いねん」
「え、山越えるの? 毎日!? すごいね」
そして返答には肯定的な相槌を打つ。これで相手は、一時的な興味をはぐらかされたことは気にせず、三月との会話に満足感を覚える。
「体力つくしええで」
「はは、すごい運動部メンタルじゃん、さすが」
「春田君は部活やらへんの」
今思いついたのか、それともずっと聞きたかったのか、リーダー格のCが尋ねてくる。いつかは誰かに聞かれると思っていた、想定内の質問。答えはちゃんと準備してある。
「あー、うん。今のところ考えてない。時期も半端だしさ」
「そうなん? けどその身長で何もやらへんのもったいなくない?」
これも当然想定内。三月が曖昧に笑って見せると、
「春田君、気ぃつけや。テライが狙ってるって聞いたで」
と、これは想定にないコメントが後ろから飛んできた。ボブヘアの女子Bだ。狙ってるってなんかイヤやし、とロングの女子Aが笑った。
「テライって?」
「男バレの顧問。一年の体育」
男子バレー部、そして体育教師――この学校ではまだそういう話には遭遇していないが、どうだろう、二年のこの時期でまだあるかな、と三月は思った。中等部に入った時点ですでに身長が百七十センチを超えていた三月は、以降毎年のようにバレー部やバスケ部から声が掛かった。
「あー、部員ギリやもんな」
リーダーCが苦笑を浮かべて言う。突然、三月たちの前を言葉少なく歩いていた男子Eが、アッと声を上げた。階段の途中、三月は驚いて思わず立ち止まり、その背にぶつかりそうになってきゃあと小さい悲鳴を漏らしたのは、ロングヘアの女子A。
「ちょっと、危ないなぁ」
Bが抗議の声を上げると、Eは踊り場で振り返って、
「思い出した! 星野君や」
と晴れやかな顔で言った。
星野君――星野啓太。
唐突に飛び出した『彼』の名前を聞いた瞬間、三月の心臓が、ドクン、と跳ねた。
「何がよ」
女子Bが聞き返す。
「電車通学の人さ。羽戸駅て誰かおったよなーて。テライで思い出した」
「星野君はそうやけど、何でそんなんで思い出すの」
女子Aが笑いながら言う。『星野君はそうやけど』、その妙に自信ありげな口調は、何だ。
「一年の時にめっちゃスカウトされてたやん、身体測定のあと。そのバネ欲しい、とかって」
「あー、あったあった」
と、男子Dは頷いたが、女子二人は知らない話だったらしい。二人そろって、えーっ、と声を上げた。
「それ知らんし! ヤバ! すご!」
女子Bが興奮気味にそう言うと、
「あ、でも星野君、小学校のときもスカウト来たって話あったよ。バレーかバスケか、プロのジュニアチーム? 育成チーム? なんかそんなん」
女子Aが、やはりなぜか得意げにそう言って、
「マジで!?」
「やっぱヤバ~!」
「さすがタダモノじゃないな、星野君」
女子Bと男子Eが揃って歓声を上げ、リーダーCは感心したように嘆息を漏らす。『やっぱり』『さすが』という言葉に、彼らから見た『彼』の立ち位置が垣間見えた気がして、三月の心臓が、また、ドクンと跳ねた。
と――、一足早く階段を降りていた男子Dが下から振り向いて、おい先輩行かはったぞ、とチームメイト二人に声をかけた。部活の先輩の後姿でも見えたのかもしれない。男子Eは同じ口で「マジで、」と今度は慌てたように呟き、残りの階段を一段飛ばしで降りて行く。
リーダーCだけは律儀に、
「あ、ほな、また明日」
と残る三人へ挨拶をして、やはり二人のチームメイトの後を追って――廊下の向こうに消えた。
その背中を目で追いながら、
「先輩怖いんかな」
と女子Bが笑う。思い出すように女子Aが答えた。
「最後の大会前なんちゃうかったっけ、三年生」
「あ、そっか。ブロック大会って言うてたっけ」
しかし、三月にとってそんなことはどうでもよかった。聞きたいのは『彼』――星野君の話。
この学校に通うことになって――星野君を認識して十日ほどになるが、朝も帰りも電車で一緒になったことはないし、まして同じ駅を利用しているなんて考えもしなかった。
「知らなかった……、」
内心のつぶやきが思わず声になっていた。それをすかさず拾って、Bが答えた。
「大会前の雰囲気全然ないやんね、あの人ら」
だがそのコメントは全くの見当違いで、三月は一瞬混乱する。
「え、」
「え?」
Bが驚いた表情で三月を見上げてくる。言葉の意味にはすぐに気付いて、
「ああ、えっと、そうじゃなくて」
それはどうでもよくて、とは言わずに笑ってごまかすと、ああ、とAが言った。
「星野君?」
「あ――そう、星野君。家、同じ方だったんだなって。羽戸の人って少ないんでしょ?」
学校の所在地は千鳥市の西部で、今三月が暮らしているのは千鳥市の東隣に位置する羽戸町。人口一万人に満たない小さな町だ。そのうえ、千鳥とは反対隣の瑠璃川市にも公立高校があって、距離としてはそちらの方が近いので、羽戸から千鳥高校に通う生徒は少ない、らしい。
「ええと、同じ方、でもない、かな」
少し考えるように首をかしげてAが言った――さっきから彼女は、星野君の事情に通じている気配がある。
「星野君の家はキジシやから――あ、ええと、キジシ地区ってわかる? 羽戸山の上の方」
羽戸山というのが、三月が暮らしている地域の北側に位置する山の名前だということは知っている。けれど、特定の地名となると三月には全くわからない。ううん、と首を振ると、Aはバッグから携帯端末を取り出した。地図アプリを立ち上げて、三月に画面を見せてくれる。
「ここが羽戸駅、で、ここが羽戸山口のバス停で、……、ここの辺がキジシ」
画面上に指を滑らせ、拡大して地名を表示した。『雉師』。ぐねぐねした林間の山道を登って行った先の、小さな集落のように見える。
「え、めちゃくちゃ遠くない?」
三月が言うと、Aは長い髪を揺らしてうんと頷いた。
「ウチ小学校まで雉師に住んでたから、星野君家とご近所やってん。中学のときこっちに引っ越してきたんやけど、雉師はホンマに、めっちゃ山奥。めっちゃ遠い」
「そうなんだ」
なるほど、だから彼女は星野君のことを――小学校時代の彼のことを知っているのか。三月の中で彼女の輪郭が、少しはっきりして見えるようになった。
女子A――たきざわ……いや、滝本さん、だ。
「……あ、じゃあ、ゼロ限出てないのも」
三月が言うと、滝本さんはそう、と笑った。
「雉師の子って、みんなスクールバスで羽戸の学校行くんやんか、小学校も中学も。ほんで、バスの時間って基本的に中学に合わせてあって、星野君それに便乗して駅まで降りてきてるから、ゼロ限は出られへんねんて。帰りも、七限終わったら走らんと電車間に合わへんって。バスは待っててくれへんらしくて」
「ああ、そういうこと!」
思わず大きな声が出てしまい、慌てて口をつぐむ。滝本さんがふふっと笑ったので、少し恥ずかしくなった。
まさかこんな形で星野君のことを知れるとは思わなかった。
要するに滝本さんは、星野君の幼なじみなのだ。教室で二人が言葉を交わしているところは見たことがないけれど――それはしかし、彼女に限った話ではない。
星野君は、いわば『孤高の王』なのだ。
「てゆうか春田君、星野君のことめっちゃ気にしてるん、何なん」
女子Bが、からかい半分、興味半分、といった表情で言う。なんとなく下世話な好奇心を感じてしまい、三月の胸の奥にもやっとしたものが広がった――が、それを顔や言葉に出すことはしない。
「気にしてるっていうか――、まあ、そうかな。だって彼、目を惹くっていうか、目立つじゃない」
それは三月の、率直な感想でもある。
星野君は、とても目立つ。
何より際立つのはその肌の色――日焼けのそれとは明らかに違う、美しい褐色。
黒目がちでくっきりした二重の大きな目、意志の強そうな形の唇、緩やかな癖で波打つ少し長めの黒い髪。身長はおそらく百七十前半、すらりとしたバランスのいい手足――『きれい』だ、と三月は思う。
だが別に、三月は星野君の外見だけを気にしているわけではないし、それを今ここで説明するつもりもない。自分が星野君に興味を持っても不思議ではない理由を、それもなるべくわかりやすいものを、提示したに過ぎない。
「なんていうの、――独特の雰囲気、あるっていうか」
三月が言うと、独特の雰囲気、と、Bだけでなく滝本さんまでもがオウム返しに呟き、そして笑った。
「え、なんかおかしかった? 変なこと言ったかな」
言葉を選んだ割には上手いことを言ったと思っていたのに、笑われてしまった――二人の反応に戸惑って三月が尋ねると、女子Bは、いや、だってそんなん、とまた笑ったが、滝本さんは三月を指差すように手を挙げて、
「そう、それ。わかる。雰囲気、あるよね」
と言って微笑んだ。それで気付いた、二人が笑ったのは別の理由だ。
たぶんBにとって、星野君はそれほど重要ではない位置にいるのだ。小学生の頃の話を聞いたときの反応だって、それはただ単純に『スカウトされた』という事実に対する興味と好奇心だけ。独特の、だってそんなん――見たらわかる、とでも言いたげだ。
だが滝本さんは、三月のその表現に理解を示してくれた。ただ単に見た目だけを指して『他と違う』と言っているわけじゃない、その意味に気付いている――三月が彼を『孤高の王』だと感じるように、滝本さんの中でも星野君には、たぶんなにか特別なラベルが着けられている。
また明日、と手を振って、一階の渡り廊下から特別教室棟へ向かう二人の背中を見送り、三月も昇降口に向かう。すれ違った生徒たちが振り返り、あんな人おったっけ、めっちゃでかい、てかカッコよくない、と囁きを交わすのが聞こえたが、自分のことなんて、今はいつも以上にどうでもよかった。
ふうっと大きく息を吐き、人知れずこっそり笑みを浮かべる。
星野君とはこの三日、一切言葉を交わしていない。
だが、滝本さんやグループのメンバーの言葉の中に、星野君を知ることができた。彼らと付き合うのは、自分だけが悪目立ちしないようなグループに身を置くため。『木を隠すなら森の中』、そんな程度のつもりでいたのに、これは思わぬ収穫だった。レアアイテムのドロップと言ったところか――三月は少し、浮かれていた。だからつい、校舎を出た瞬間スラックスのポケットの中で震えた携帯端末を何の気なしに操作して、かつての友人から届いたメッセージに、うっかり『既読』をつけてしまった。このままスルーしたら、たぶんもっと面倒くさいことになる。
『夏休みはこっち戻ってくるんでしょ?』
『ねえ』
『おーい』
まあいいか、今は気分が良いから――三月はそのまま返事を送った。
『ごめん、さっきまで授業中で見てなかった』
『夏休みも状況がどうなってるかわからないから、また連絡するね』
そして今度は端末をカバンの中に放り込んだ。相手の返事を待つことはしなかった。
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※こちらは2023年8月12日発行の同人誌『瀧殿縁起』のサンプルです。