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瀧殿縁起 第一章「孤高の王」4

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 雨が降ったりやんだりの週末は先生とお母さんの庭仕事と買い物に付き合い、例の『進路希望調査票』は誰にも相談せず適当にこっちの大学名を書き、週の明けた月曜日は朝から少し強めの雨が降っていた。
 ゼロ限に出るための電車は、出勤や通学の乗客でそこそこに混んでいた。たぶん、羽戸駅を通過する電車で一番混み合うのがこの時間なのだ。
 雉師からのスクールバスはこの電車には間に合わないのだから、星野君がいるはずもない。だが、金曜日の帰宅時を思い出して、三月は進行方向右手のドアに目をやった。空いた車両のドアの横で、車窓の遠くを眺める星野君の表情はどこか物憂げで、容姿と相まって神秘的ですらあった。二人になれたのは初めてだったのに、ろくな話をしなかったな、と、今の三月が気にしているのはそれだけだ。
 もちろん、そのあと駅前で星野君から言われた言葉も忘れてはいないし、どういう意味なのか聞いてみたいのは間違いない。本人に聞いたらええ、と先生も言った。だが、それよりもっと聞きやすいはずの、あの日の視線、あの日の表情の意味さえずっと尋ねられずにいるのに、『気持ち悪いってどういう意味?』と、どうやって切り出せばいいのか。取り付く島もないなりに、追いかけて、話しかけて、やっと帰ってきた反応がアレなのだ。心が折れるとまでは言わないが――折るつもりもないが――、さすがに少し、作戦は変える必要があるのかもしれない。
 さて、どうしたらいいか。すぐに思いつくようなものでもない。あれこれ悩むくらいなら、今できることをやった方がいい――諦めが悪いときも、飽きたときも、切り替えが早いのは自分の長所だと思っている。
 そういうわけで三月はこの日も、ゼロ限が終わってから登校してきた星野君に、いつものようにおはようと挨拶をし――意外なことに、というか、そんな気はしていたというか、星野君もいつもと変わらずそっけない態度でうんと頷いただけだった――、昼間は例の陽キャグループとのくだらない話に興じ、そして七限が終わったらできる限り急いで星野君の後を追いかけるつもりでいた、のだが。
 七限が終わった後、あろうことか――星野君の方から三月に話しかけてきたのだった。
 チャイムが鳴る、教室に満ちるざわめき、教師が次回授業の予告をして教室を出る、丸まった背中を大きく伸ばして周りを見回す――そこに、星野君がいて、三月は一瞬固まってしまった。
「えっ」
 思わず声が漏れた。すでに帰り支度を済ませ、黒いリュックを背負った星野君は、
「春田――君、」
 と、どう呼ぶか迷った形跡をうかがわせながら三月に呼びかけて、
「……その、……、金曜、ごめん」
 と一言、謝った。
 一瞬、クラス中が水を打ったように静かになった。三月の、ではない、星野君の行動に、注目しているのだ。
「……えっ、と?」
 状況がまるでつかめず、三月にしては心もとなげな声が出た。星野君は詳しく説明するつもりはないらしく、
「……そんだけ。じゃ」
 いつもより少し慌てたような様子で教室を出ていく。
「え、えっ、あ、待って、ちょっと、待って」
 ハッと気が付いたときには、星野君の姿は廊下に消えていた。
 三月は急いでバッグにペンケースとテキストを放り込み立ち上がる。斜め前の席で、滝本さんがまるで『頑張って』とでも言うように、両手を握りしめて胸の前に掲げて見せた。その状況もよくわからないなりに、三月はがくがくと頷いて、
「また明日!」
 と誰に言うでもなく声を張り上げ、教室を飛び出した。
 
 *
 
 星野君の足の速さは尋常ではない。
 雨の中でも泥跳ねも気にせず走るようなスピードだ。気付いてすぐに追いかけたのに、追いついたのは学校を出てずいぶん行ったところだった。
「待って、待って星野君」
 呼びかけたって振り向くはずもないのは承知の上で、三月は紺色の大きな雨傘の背中に向かって声を上げた。多少の身長差はあるから、三月はストロークを活かして大股で駆け寄る。県道にたどり着いたところで星野君は傘を上げてちらりと振り返り、また視線を前に戻した。車道の信号が赤になる。渡るつもりなのか、と三月は察して、引き続きその後を追う。
 横断歩道を渡り、駅にたどり着き、傘を畳みながら階段を上り、流れるように改札を抜けて人の少ないホームへ降りて――電車が来るまで、あと一分。
 肩で息をする三月の横で、星野君は顔色一つ変えていない。
 荒く息を継ぎながら声をかける。
「あの……、はあ……、星野君、足早いって、ついて来れて、よかった、けど」
 意図しない言葉が溢れてしまう。違う、今言うべきなのはそんなことではない。もう一度大きく息を吸って、吐いて、三月は言った。
「その、……なに、ごめん、って」 
 星野君は、ちらりと横目で三月を見て、ちょっと気まずそうに視線を落とし、ぽつりと言った。
「……、だから、金曜」
「うん、」
「……、気持ち悪いて言った、こと」
「なん、で、」
 どういう意味だったのか、なぜそんなことを言ったのか、そういうつもりで尋ねた質問だったのに、星野君は『なぜ謝ったのか』と受け取ったようだった。そして、
「怒られた、から」
 と――これまた予想外の返事をよこしてきた。
「……え、誰に?」
「さく……、滝本に」
「えっ」
 滝本――下の名前は、さくら、だったか、さくや、だったか――さん。三月の斜め前の席に座る、髪の長い女子。陽キャグループのメンバーで、星野君とは小学生の頃の幼なじみで、さっきは三月に向かってガッツポーズのような仕草をして見せていた、彼女。だが、幼なじみだったとはいっても、教室で言葉を交わしているところは見たことがない――、星野君が言った。
「何でもかんでも、気持ち悪いて言うな、て、メッセで」
「……、え、と、」
 『メッセ』――携帯端末のメッセージアプリ。つまり星野君と滝本さんは、メッセでつながっている『友だち』なのだ。三月は、ここへ来てまだ誰ともIDを交換していない、が、それはさておき、
「何でもかんでも、って?」
 と三月は尋ねた――そこへ、ホームに響く電子音とアナウンス。三月の呼吸はやっと落ち着いて、背筋を伸ばして電車の方を見る。いつも乗る、四両編成ロングシートの普通列車。ついでに見上げた西の空は、少し明るくなってきていた。
 例によって車内は空いている。星野君は金曜日とは違い、車両後方の三人掛けシートに腰を下ろした。三月もその隣に座る。向かい側も、ドアを挟んだ七人掛けのシートにも、乗客は誰もいない――どうやら、星野君は事情を話してくれるつもりなのかもしれない。
 電車が動き出してから三月は言った。
「あの――、なんで滝本さんが知ってるの、金曜のこと。星野君が言った?」
「言うてない」
 星野君は、両足の間に置いたリュックのポケットから携帯端末を取り出した。星野君がこういう操作をしているのはあまり見たことがないな、と新鮮な気持ちで眺めていると、その画面がズイと三月の前に差し出された。見慣れたメッセの画面。見ていいの、と尋ねると、星野君は頷いた。
 日付は今日、時間は十二時半ごろだから昼休みだろう。
『春田君と何かあった? 金曜は一緒に帰ったんでしょ』
 ――そこからバレてるのか。
『べつに なんで』
『春田君が啓太のこと気にしてる感じが、先週より慎重やから』
 三月に向かっては星野君と呼んでいたが本人へは呼び捨てなのか、という気付き。しかしそれ以上に、滝本さんの観察眼の鋭さが気になる。今日の三月の態度が、先週よりも『探る』ような感じになっていたのは確かだった。そしてさらに衝撃だったのが、
『なんか変な気がしたからきもちわるいて言った』
 という星野君の正直すぎる返事、それに対する滝本さんの、怒涛のスタンプ連打。三月の知らないアニメかマンガ、ファンシーなキャラクターたちが叫んでいる。
『ウソでしょ!?』
『アカーン』
『アホなの?』
『前にも言ったよね』
 そして、さらに続くメッセージ。
『何でもかんでもその言葉使うのやめやって言ったでしょ!!!』
 出た――『何でもかんでも』。三月は顔を上げて隣の星野君に視線を流す。星野君は向かい側の窓から外を眺めていたが、その横顔は少し、居心地が悪そうに見えた。
 メッセは続く。
『ごめん』
『ウチに言ってどうするん、春田君にちゃんと謝り』
『わかった』
 星野君の発言に『既読』のマークがついていて、対話はそこで終わっている。滝本さんに怒られた、という状況は、まあわかった。三月は携帯端末を星野君に返し、
「なんか変、な感じ、だった?」
 と聞いてみた。星野君は少し躊躇ったように口をつぐんで、それから小さく頷いた。続けて尋ねる、
「その……、変、ていうのはさ。見た感じ、とか、そういうの? それとも、挙動とか、態度とか? 話し方とか、その、言葉遣いとか?」
 お母さんと先生の話が頭をよぎって、それも付け足す。星野君はしばらく考えて、それから、あ、と小さく声をあげ、
「……い、わ、かん?」
 と自信なさげに呟く。
 『違和感』。三月の何かに違和感を覚えた、それが、『気持ち悪い』――滝本さんの言葉の意味が、なんとなくわかってきた。何でもかんでも、というのはつまり、
「もしかしてさ、収まりが悪い、とか、納得いかない、とか、そういうのも『気持ち悪い』になるの?」
「……、なる」
「風邪ひいたとかでさ、体調が悪いとか、吐き気がするとか、そういうときだって言うでしょ」
「……、言う」
「じゃあ、うーん、なんていうの、例えばさ、電車で見かけて可愛いなって思った人のあとを追いかけて、どこに住んでるのか確かめる、みたいなやつ」
「それは、『キモい』」
 我ながら酷い例えだと思ったが、星野君は意図を汲んでくれたらしく、的確に答えて――そういうのはまた別なんだ、と三月は思った――、そして、肩を揺らしてちょっと笑った。
 星野君が、笑った。
 初めて触れる表情に、三月の心臓がドクンと跳ねた。そんな顔もするのか――三月は小さく息を吸い、その驚きはとりあえず置いておいて頭の中を整理する。つまり星野君のあの言葉は、三月の見た目だとか態度だとか言葉遣いだとか、そういうことに対する辛辣な感想ではなく、三月のなにがしかに星野君が違和感を抱いた、その落ち着かない気持ちを言い表したものだったわけだ。
 三月は、今度は深々と息を吐き出した。
「よかった、嫌われたとか、そういうんじゃなくて……」
 そう呟いてから――三月は、自分で自分の言葉に驚いていた。
 自分は、星野君に嫌われることを恐れていた、のか――今初めて気がついた。
 あの発言を受けてなお、星野君に嫌われたかもしれない、という可能性に、三月は今まで全く思い至らなかったのだ。
 言葉には言葉を、笑顔には笑顔を返してくれる人たちは、要するにみんな三月に好意的だった。三月にとって、他者とはそういうものだった。その『他者』において、星野君は最初からイレギュラー。だから、必ずしも自分に対して好意的ではないかもしれないと、三月は気付くべきだった。なのにそんなことは全く考えず、毎朝挨拶をしたり、急いで追いかけて声をかけたりした。さっきの例え話ではないけれど、これは『気持ち悪い』と言われても仕方がないのでは――ああ、あれは『キモい』か、しかしそんなことはどっちだっていい。いまさら不安がこみ上げてきて、
「……、そういうんじゃ、ない、の、かな?」
 恐る恐る尋ねると、星野君は横目で三月を見て小さく首を振り、言い切った。
「違う」
 それで三月はもう一度、ふうっと息を吐き出した――よかった。
 よかった、けれどもそれならば、星野君が三月に抱いた『違和感』というのは、一体何だったのだろう。初めて顔を合わせたときに星野君が見せたあの表情、三月に向けたあの視線は、その違和感に関係があるのだろうか。
 今なら聞ける気がして、三月は言った。
「――僕が転校してきて、最初に挨拶したときさ、星野君すごい驚いてなかった?」
「……、うん」
 星野君が頷く。
「あれは、どうして?」
「……、あれは、……、似てたから」
「誰に?」
「……もう、会えん人」
 その答えに、三月は一瞬息を飲んだ。
 深読みしようと思えばいくらでもできそうな言葉――どこか遠くに引っ越したとか、そういうことならそう言うだろう、とは思う。でも、そうじゃなかったら。
「……、そっか」
 三月の返事はそれだけにとどめて、あとは二人、肩を並べて、羽戸に着くまで電車に揺られた。
 
 *
 
 駅を出ると、雨はすっかりやんでいた。雨が上がった後の雨傘ほど持て余すものはない。星野君がロータリーで立ち止まるのを見て、三月は金曜日に聞けなかったことを尋ねてみた。
「星野君の乗るバスはどこまで来るの。中学校の方?」
 星野君は首を横に振り、
「ここ」
 と言った。
「あれ、そうなんだ。でも、こないだはあっちの方に走ってったでしょ」
「コンビニ、あるから。走らな濡れるし」
「え、雨宿り、しに?」
「買い物。雨宿りやったら、駅でええやん」
 それは確かに。なんだか自分がおかしなことを言っている気がして、三月は笑った。地図で見た限りでは『駅前の』と呼ぶには少し遠いが、確かにこの先の県道沿いに、チェーンのコンビニが一軒あったのを三月は思い出した。あのとき星野君が走り去ったのは、一刻も早く三月から離れるためだとか、顔も見たくない声も聴きたくない、とか、そういうことではなく――単に、コンビニに用事があっただけなのだ。
「え、じゃあバスが来るまで、まだ時間あるの?」
 星野君は頷いた。
「でも、次やったら間に合わへん」
「ああ、なるほど」
 次の『電車』だと間に合わない――今の時間帯なら、学校の最寄り駅を出る電車は二十分に一本のダイヤ。スクールバスは、当然のことながら時刻表に合わせた運行ではないのだろう。
 相変わらず人気のない駅前だ、それならここで、もう少し話をしていてもいいかな――不意に星野君が、まじまじと三月の顔を見た。
 あのときほど強い視線ではない、しかし確かに、三月の何かを見透かすような目。ドクン。
「……、なに?」
 三月が問うと、星野君は少し考えこんで――おそらく言葉を探しているのだ――言った。
「わかった、かも。違和感、の理由」
「え」
「お前、思ってることと、言ってることが違うような感じがしたから」
 言い淀んでいた『春田君』呼びはやめて、一足飛びに『お前』になった。
 だが三月はそれが、嫌ではなかった。むしろ嬉しいとすら思った。
 そして同時に、星野君が言わんとしている言葉自体にも察しがついてしまった。思わず傘の柄を握りしめる――彼は、『気付いている』。
「それが、違和感?」
 冷静な振りをして聞き返すと、星野君が言った。
「ホンマの顔が、見えへんて思って」
「……、」
 『ホンマの顔』――そんなの絶対見せない。見せられない。穏やかに、控えめに、出しゃばらず、波風を立てず、与えられた役割を果たす。そうしていれば、三月には安寧の地が約束されている。期待しない。執着しない。そういう自分であるために仮面を被り始めたのはいつの頃だろう。
 星野君は続けた。
「笑っててもつまんなさそうやし、滝本らと仲良さそうにしてるけど、気ィ張ってるていうか、許してないっていうか、線引いてる。それが、違和感」
 彼は、気付いている――そんな人間は、今まで三月の周りにはいなかった。ドクン、ドクンと胸が高鳴る。三月は言った。
「今は、どう?」
 星野君は、パチパチと目を瞬かせて、言った。
「今は――別に、なんとも思わん、けど」
「うん。今は、だって何にも隠してないから」
 隠していないというよりは、隠す余裕がない、あるいは隠す気がない、というのが本当のところかもしれない。星野君の前でも取り繕うつもりなら、いつもの三月は間違っても『嫌われたんじゃなくてよかった』なんて、絶対に言わない。
 学校で星野君に謝られて、驚いて、なりふり構わず追いかけた。たぶんそのときからすでに、三月の仮面は外れている。
「……、」
 彼は気付いている。それなら、隠さなくていい。身構えなくていい。仮面を被らなくていい。それがひどく安心した。それがとても、嬉しかった。
「見透かされてるみたいな気がするって思ってた。ほんとに見透かされてて、びっくりしてる」
 三月が言うと、星野君は少し戸惑ったような視線を向けてきた。
「『ホンマの顔』、見せてないのはその通りだし、クラスの人の前では気、張ってる。線も引いてる」
「なんで、」
「ずっとそうだったからかなあ。前の学校でも――中学のときから。そうした方がいいって気付いたのは小学校の頃だけど――いや、まあ、でもそんなことはどうでもよくてさ、僕が言いたいのは、今は何にも隠してない、ってこと」
「……うん……?」
 三月だってできることなら、期待したいし、執着したい。望んだものを奪われたくない。嫌われたくない。何なら好かれたい。自分から進んで仲良くなって、相手のことを知りたい――今は何より、星野君のことを。
「星野君にはわかっちゃう、っていうか、見えちゃうんだね。なんでだろうな、でも、それが星野君でよかった」
「……、」
「星野君、最初に会ったときも、さっきのなんでもお見通しみたいな目してたでしょ。驚いた顔でこっち見て、そんな視線向けてきて、何なんだろうって思ってた。星野君のこと知りたいって思ったのは、それが最初。他の人と違うし、全然会話になんないし、気持ち悪いとか言うし、」
「だから、それは、ごめん、って……、」
「や、それはいいんだ。だってそれで、星野君に嫌われたくないって気付いたし」
 バスが来るまで、あとどのくらい時間があるのだろう。この際だから、言いたいことを全部言ってしまおう、と三月は思った。星野君は、なんだか居心地が悪そうに身じろぎをした。だが三月はそれを見て見ぬ振りをして続ける。
「星野君のこと知りたいし、嫌われたくない。僕は星野君と友達になりたい」
 自分から誰かと友達になりたい、だなんて、そんなことを言ったのは初めてだった。
 星野君はパチパチと瞬きをして、それから、きゅっと眉根を寄せた。凛々しい表情に陰りが見える――これは、困ったような顔、だろうか。
「……そんなん、わざわざ言うこと、ちゃうやろ」
「わざわざ言わなきゃ、伝わらないこともあるでしょ。ま、今のは僕が言いたかっただけ」
「なんやねん、それ」
 星野君が呆れたように言い、そして笑った。
 星野君の態度が、ずいぶん柔らかくなったような気がする。そして、思っていたよりも饒舌だ。普段学校で口数が少ない理由はわからないが、もしかしたら本来の彼はそうでもないのかも。三月が裏表のない態度でいるから、違和感がないから、気を許してくれているのだろうか――なんて。
 雨が上がったのはいいが、同時に日差しも出てきた。この季節の西日は、眩しいし暑い。
「うわ、今全然風吹かないね。蒸し暑いなあ、まだ慣れてないんだよね、この気候。湿度高いと、髪の毛とかぶわぶわになるし」
「言うてたな」
 と星野君が頷く。この話をしたのは――金曜の放課後、あの『取り付く島もなかった』電車の中だ。話題の広がりようがなくて、無難な天気の話に終始したあの日。まさか、
「聞いてたんだ!?」
 三月が驚いて尋ねると、星野君は少し嫌そうな顔をして、
「聞いてたし」
 とどこか拗ねたような口調で答えた。
「だって、なんか――あんまり興味ないのかな、って思って。反応ないから……」
「それ、は、……、オレが、うまくできへんから。返事、とか」
「え?」
「なんて答えていいかわからんかったり、言葉、見つからんくて探したりとかしてて、……その間に話変わったりするし。そういうの、うまくできへんのに、話も聞いてなかったら、最悪や」
 訥々と言い募る星野君を見て、三月は思わず、ふふっと笑ってしまった。凛々しいとかきれいだとか、星野君に対して思い浮かぶ形容詞はいくつかあるが、今は『かわいい』だ。
 やっぱり星野君は、普通の高校二年生。容姿は確かに人目を惹くが、今ここにいる星野君には『異質さ』なんてどこにもない。口数が少ないのには理由があって、人を寄せ付けないわけでもなくて、だから彼は、――『孤高の王』なんかじゃ、ないのかも。

 南方面からロータリーに繋がる道を、白い小型のバスが走ってきた。星野君が、あ、と声を上げたところを見ると、あれがスクールバスなのだろう。
 間際に星野君から押し付けられた携帯端末の画面からメッセのIDを登録し――『友だち』になりたい、って、そういう意味ではないんだけど、伝わってるのかな――、端末を返したところにバスが到着した。
 羽戸町教育委員会と書かれたスライドドアが開き、運転手が星野君に向かって、おかえり、と声をかける。座席に座っているのは小学生が四人、中学生が三人。みんな一様に三月に注目している。星野君が誰かと一緒にいるのが珍しいのかもしれない。調子に乗って、こんにちは、と挨拶をすると、小学生は声を張り上げて、中学生はぼそぼそと、それでもみんな挨拶を返してくれた。
「――また明日」
 星野君は三月にそう言って、車に乗り込んだ。
「うん、また明日!」
 三月が応え、ドアが閉まる。一歩下がると、車が動き出した。星野君に見えたかどうか、ロータリーを回って走り去るスクールバスに向かって、三月はひらひらと自分の携帯端末を掲げた――メッセ、するからね。登録したってことは、そういうことだよね。星野君の少し嫌そうな顔が目に浮かぶ。もしかしたらあれは、照れ隠しのような何か、なのかもしれない。
 三月はもう一度、手の中の端末に目を向けて、それをいつもよりも丁寧にバッグにしまった。
 ここしばらくは、まるでゲーム専用になっていた。つまらないメッセージを時折届けてくるばかりのアプリが、星野君の連絡先を登録した今は光り輝いて見える。ゲームをしていないときは充電しているかバッグに放り込んだままだったが、今日からはちゃんと、手元に置くようにしよう。
 久しぶりの――いや、もしかしたら、今まで味わったことのない高揚感。星野君のことを知りたいと思った、知りたいと言えた、新しい一面を知ることができた。レベルが上がって、いろんなシナリオが一度に解放されたような充足感、だがこれからは、もうゲームではない。自分一人では完結しないし、させてはいけない。飽きたらやめる、なんてもってのほか――だって、相手は星野君だ。コンピューターやシナリオじゃない、生身の人間。攻略クエスト、なんて考えていたことが、恥ずかしいような、申し訳ないような気持ち。
 それに、彼には何一つ隠さなくていい――身構えなくていい、振りをしなくていい、仮面を被らなくていい。攻略も作戦もない、『ホンマの顔』のまま、素直に真っすぐ向き合えばいいのだ。
 そうできることが何よりも――三月には嬉しい。
 ――ここは『あの家』じゃない。星野君は『あいつら』じゃない。
 スキップしたいくらいなのをどうにか我慢して、三月は家路についた。

(続く)

※こちらは2023年8月12日発行の同人誌『瀧殿縁起』のサンプルです。