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瀧殿縁起 第一章「孤高の王」2

 
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「両親の海外転勤で、親戚の家に預けられることになりました」
 という、設定である。
 三月はクラス全員を前にして転入の挨拶をしながら、ぐるりと教室を見渡した。それだけでも、クラスの空気感というのはなんとなくわかる。転校の初日、朝一番の――と言ってもこのクラスは特進なのでゼロ限を終えた後の――朝学活の時間。
 教室後方のロッカー――扉も鍵もついてないただの棚――は全体的に片付いていたし、掲示物も整然と貼られている。バッグはみんな机の横にかけていて、大体黒のリュックやスクールバッグ。派手な色のものと言ったらおそらく運動部の生徒のバッグにフェルト製のぬいぐるみがぶら下がっている程度で、総じて落ち着いていた。衣替えを前にして暑い日が続いていたからみんなブレザーは着ていなかったが、ネクタイもリボンタイもみんなちゃんと結んでいたし、奇抜な髪形や髪色の生徒もいない――そのとき、ふっと気付いて、視線を戻した。
 窓際前から二番目、きっとつまらなさそうに頬杖をついていたに違いない、その手が中途半端な高さで握られていて、そこに乗っていたはずの顔が、なぜか驚いたような表情で三月を見つめている。三月が一瞬見つめ返すと、彼はパチパチと目を瞬かせ、それからすぐに視線を外した。
 それが、三月と星野君の最初の出会い――正確に言えば、三月が星野君を認識した最初のシーン、だ。
 そのときは当然、まだ名前も知らない。最初に惹かれたのは美しい褐色の肌の色。だが次の瞬間、その表情と眼差しに射抜かれた。
 お化けでも見たような、という表現が正しいのかどうかはわからない、ただ、星野君は、どこまでも真っすぐで真っ黒な瞳で、驚愕の中に三月の何かを――存在自体を――見定めるような、確かめるような、強い眼差しを向けていた。
 異性から、ときには同性からも、注目を集める容姿をしている自覚はある。だが、彼の視線はたぶん、そういう種類のものではないと思った。
 何、今の、その目は――気になる。
 彼の視線の意味、表情の意味を、知りたい。普段の三月は他人への興味が薄いのに、この衝動はとても珍しい。
 それから二、三日のうちに、三月は彼の名前を知り、可能な範囲で彼の人となりを知り、彼の学校生活のパターンを知った。
 星野啓太、千鳥高校二年三組の生徒。部活動には所属していない、いわゆる帰宅部。三月の見た感じでは、特別仲の良い友達はいないらしい。特進クラスにいるくらいなので勉強もそこそこはできるようだ。特筆すべきなのは運動神経の良さ。足も速い。
 そして――彼は恐ろしく無口だった。クラスメイトとの意思疎通には問題ない程度にちゃんと話をしているようだし、授業中に指されたら発言もする、だが、自分から誰かに話しかけるようなそぶりを見せたことは一度もない。教室では大体一人でいるが、いじめられているとかはじかれているとかそういうことではなく、逆に、一目置かれているような気配があった。特進クラスでは全員が受けることになっているゼロ限に、彼だけは来ない。そして、やはり全員が受けることになっている七限が終わると、風のように教室を出て行ってしまう。それでも、彼に集まる視線は、彼を非難しない。
 これが――三月が最初の三日ほどで把握し得た星野君の全てだ。
 たぶん、彼自身はどちらかというとおとなしい方の、どこにでもいるとは言わないがごく普通の高校二年生。だが、肌の色や大きな目、長い手足――そういう見た目で飾られた彼は、例えば高貴な存在は身をやつしても隠せない、というような『異質さ』をまとっているように三月には感じられた。
 『孤高の王』――そんな言葉が、三月の中に思い浮かんだ。
 頭の上に王冠を戴き、その背中を重厚な赤いローブで覆い、背をまっすぐに伸ばして立つ――三月の頭の中に佇む星野君は、あの日三月に向けられた、どこまでも真っすぐな目をしていた。強く鋭く、何もかもを見透かすような視線。思い出すたび、なぜか胸のあたりがざわざわと騒いだ。
 誰かのことをこんな風に知りたいと思ったのは、たぶん初めてのことだった。
 しかし、それから一週間が過ぎても、三月の知りたいことは何一つわかっていなかった。
 転入の挨拶をする三月に向けてきた、あの表情、あの視線の意味を知りたい。なのに三月は、それを彼に訊けずにいた。王に対して恐れ多い、というわけではない。ただ単純に機会の問題――だがそれも、機会さえあれば訊けるのかというと、そうでもない気がしている。
 同級生の顔は一日で覚えた。そして三月は初日から、きちんと向き合って、なるべく目を合わせて挨拶をした。それは一日でも早くこのクラスに馴染むため、そして自分自身の立ち位置を明確にするためだ。『都会からやってきた謎の転校生』の、紳士的な振る舞い――朝会えばおはよう、帰るときはまた明日、それに加えて二言三言、大体のクラスメイトとは、挨拶以外の会話も成立するし、時々冗談も言いあう。新しい学校のクラスメイトは、息をするように面白いことを言う。
 だが星野君とは、なぜか、うまく行かない。
 三月が声をかけても、彼の反応はいつもそっけないのだ。
 星野君おはよう、と三月が言っても、星野君はうんと頷くか、よくておはようという一言が返ってくるだけ。帰り際に声をかけたら、うんという返事もそこそこに、彼は階段を駆け降りて行ってしまった。無視されたとまでは思わないが、急いでいるなら一言あってもよさそうなものなのに、それもない。
 驚いたような表情も強い視線も、三月に向けてきたのは最初のあの一度切りだった。無口なのは別に構わない、だが、ここまで反応がないと三月にはもう、どうしようもない。
 反応がない、どうしようもない――それは三月にとって、初めての挫折と言ってもよかった。
 物心ついたころから今現在まで、少なくとも前の学校にいた頃までは、自分から話しかけて会話が成立しなかったためしはない。相手が同性であろうが異性であろうが、あるいは子供同士でも大人を相手にしても、三月が対話をしたいという気持ちで臨めば、みんなちゃんと向き合ってくれた。
 例外はある。三月の父、三月の母、三月の妹、それに、数える程度しか会ったことのない祖父母たち。三月にとっての、家族とか親族とか呼ばれる立場の人々とは、そもそも会話というイベントがほとんど発生しなかった。だが、そうでなければ誰もが、三月の言葉には言葉を、笑顔には笑顔を返してくれた。小学生の頃まではそれが当たり前なんだと思っていたし、中学生の頃には、それは当たり前ではないが少なくとも自分は『そう』なんだと自覚していた。
 なのに――星野君は違う。星野君だけが、違う。
 ――あんな目で見てきたくせに、そんな態度を取るなんて。
 ――あの目で、その視線で、いったい自分の何を見たんだろうか。
 なのに星野君は、それを尋ねる機会も、きっかけさえも与えてくれない。
 わからない、ちょっと悔しい、それ以上になぜか寂しい、なぜなのかを考えるのが楽しい――それが、ここへきて初めて、三月の心に火をつけてしまった。
 攻略したい、と、思ってしまったのだ。
 
 携帯端末で遊ぶソーシャルゲームは、日々を穏やかに過ごしたい三月の、中学生の頃から続けている唯一の趣味である。といっても、必死に素材を集めたり、課金をしたり、ランキングに血道を上げるようなプレイはしない。ルールの緩いギルドに在籍しているのはミッションクリアのためだけで、イベントが始まっても積極的に走ることはないし協力プレイやマルチにもほとんど参加していない。お気に入りのキャラクターというのも特になく、欲しいのは挑戦中のバトルをクリアするのに必要なスキルやアイテムくらい、だがそれも、手に入らないなら別にそれで構わない。執着はしない。
 そもそもゲームは暇つぶしだ。誰の手も借りず、誰にも迷惑をかけず、飽きたらやめればいい――自分一人で完結する遊び。
 しかし、そんなプレイスタイルの三月にも、ゲーマー的な感覚はしっかり根付いてしまっていた。

 転校当初――三月はここで、余生を過ごすような気持ちがあった。
 どうせここは逃避の先だ。大きな波風を立てず、穏やかに控えめに過ごせばいい。そこで自分に与えられた役割を果たす――今までも、これからも、三月に求められているのはきっとそれだけだ。
 だが、三月は星野君と出会ってしまった。その眼差しに射抜かれてしまった。
 話しかけてもそっけない、言葉に言葉を、笑顔に笑顔を返してくれない。うまくいかない、悔しい、どうやったら攻略できるか――普段、ゲームに対してだってそんなに入れ込むことはないのに、こうやって悩むのは楽しいと思った。
 このイベントを最後まで走り切ったら報酬は何だろう。謎の答え? 三月自身の満足感? それとも、星野君からの言葉、笑顔――何が得られるのかはわからない、けれど一つだけはっきりしていることがある。
 星野君のことを考えている三月自身が、今、楽しいと感じている。だからこのとき――転入十日目にして、三月は密かに決意した。
 ――星野君を攻略してやる。

 *

 図らずも知ってしまった、星野君が七限の後に急いで帰る理由。無視するような勢いで帰っていったあの日も、彼は単に急いでいただけなのだ。
 スクールバスの時間に間に合うように、星野君は羽戸駅にたどり着かなければならない。学校最寄りの千鳥駅はそこそこ大きくて快速列車も停まるが、羽戸は利用客も少なく、当然快速はスルーする駅だ。羽戸駅の時刻表は一時間に多くて三本、時間帯によっては一時間に一本。七限終了後に彼が急いで乗りたい電車はおそらくあれだろう――そこまで必死に走ったりしなくても、たぶん間に合う。
 声をかけて一緒に帰ろうと言うのは、実はちょっと気まずい。かといって、教室を飛び出すように出ていく星野君の後を追って、一緒に飛び出すというのもどうか。転校してきてまだ二週間にもならない三月がやるには奇行が過ぎる気がする。なるべく悪目立ちしたくないのは『星野君攻略クエスト』とはまた別の話だ。
 普通に教室を出た後ちょっと急ぎ足で駅に向かったらいつもより早い電車にぎりぎり乗れてしまった、そこにたまたま彼がいた――よし、これで行こう。真剣な顔をして演習に取り組んでいる振りをしながら、三月は今日の放課後の算段を立てていた。
 
 金曜の七限は国語で、学習内容は古典。どこかの大学の入試問題を題材に、本文を現代語訳した上で設問を解くのが今日の演習の課題だ。
 特進クラスのゼロ限と七限は、簡単に言えば入試対策で、だから演習の多くは入試の過去問題が中心になる。
 『入試』。大学だとか進路だとか――その辺りに、今の三月は全く無頓着である。考える必要があるのかどうかさえ分からないでいた。
 地元の公立小学校から私立の中高一貫校に行ったのは親からそこを受験するように言われたからだし、今の転入先も三月自身の希望ではない。この先の進路と言われても、三月はどうしていいかわからないのだ。そもそも進学することになるのか、それともどこかで働くことになるのか、三月自身が選んでいいのか、中学のときのようにここへ行けと言われて自動的に進路が決まるのではないのか――だから今日の六限の後、いわゆる終学活で『進路希望調査票』なるものが配布されたとき、三月は困ってしまった。提出は来週月曜日。週末にご家族とよく話し合うように――そう言われても、話し合う相手などいない。
 まあどこでもいいから適当に書いておいたらいいか、と小さくため息をつき、三月は視線をそっと窓際に移した。
 星野君は書類を握りしめたまましばらく何事か考えこんでいる。何か悩みでもあるのだろうか、と三月が思った瞬間、彼はふっと首をかしげた。
 そして、あろうことか三月の方を――教室の中列後方を振り向いた。
 三月はびくりと肩を竦めて慌てて視線と姿勢を落とした。まさか、呼んでもいないのだから気付かれるはずもないし、おそらく彼は三月を見たわけではないのだろうけれど、盗み見ていたのがバレた気がして非常に気まずい。縮めた首をそろりと伸ばすと、星野君はもうこちらを見ていなかったので、三月はホッと胸をなでおろした。
 
 古典の課題演習は、そういうことがあったそのあとの七限である。進路の話は星野君との会話のきっかけになるのか、それともこっそり見ていたことがバレていて、もしかしたら軽蔑されたりしないだろうか――盗み見られる対象になることはあっても自分からそんな行動に出たことがないから、三月にはその『はしたなさ』の度合いがわからない。
 自分なら盗み見られたくらいでどうということはないけれど、もしかしたら気持ち悪いと思われただろうか、そんな相手から一緒に帰ろうと言われるのは嫌かもしれないからやっぱり誘いにくい、いやしかしそういう形であっても彼から反応があればそれはそれで嬉しい気もする、だがそもそも彼は気付いたのだろうか、たまたまこちらを振り返っただけなのではないか、だって彼が三月を『見て』いたとしたら、あの真っ直ぐ突き刺さってくる視線でなければおかしいし、いやそもそもあの視線は一体どういう意味なんだろう――およそ演習とは何の関係もない疑問が頭の中で渦を巻き、ノートの片隅に大きな『?』を三つ書く。そのとき――七限終了のチャイムが鳴った。
 張り詰めた空気の緊張が解け、教室のあちこちから声や物音が上がり、いつもの放課後の雰囲気。じゃあ次回解説しますから残りは宿題、と言い置いて教師は出て行った。部活に向かう者、バイトへ行く者、携帯端末を取り出す者、星野君は早々とリュックを背負って教室を出て行った。それを視界の隅にとらえて、三月も慌ててバッグにテキストをしまう。椅子から立ち上がって初めて周りに視線をやると、斜め前の席から女子A――じゃない、滝本さんが何か言いたそうな顔をしてこちらを見ていた。
 目が合っても――見られていたと気付いても、やっぱり自分は、別になんとも思わない。
「また明日――じゃないや、また来週」
 三月が笑顔を浮かべて言うと、滝本さんもにこりと微笑んで、うん、また来週、と頷いた。今日に限っては、クラスメイトといちいち顔を合わせている余裕はない。春田君バイバイ、と飛んでくる声に少し振り向いて手を振って、三月はまっすぐ、昇降口に向かった。

 星野君は、やはりもういない。二足制の靴を履き替え外に出て、駐輪場を抜けてスロープを降り、部活の声が響くテニスコートの角を曲がる。学校から駅までは、三月の足で普通に歩けば徒歩十分の距離。ここを七分で行けば、目的の電車には間に合う計算だ。角を曲がって学校が見えなくなった所から、三月は足を早めて坂道を下った。
 なんとなく、自分の行動を他人には知られたくなかった――なんでだろう? 自分で自分の態度に『?』。
 別に隠す必要などないはずなのに、なぜそんな挙動になったのか。それを言ったら教室で声をかけても構わなかったのに、なぜそれをしなかったのか。盗み見がバレたかもしれない気まずさなんて、そんなのは三月が開き直れば済む話だ。学校や他の生徒たちに背を向けなければならない理由なんてない――と、思う。
 クリーニング店の角を曲がったあたりから、周りに千鳥高生の姿は見えなくなった。六限上がりのクラスと七限上がりのクラス、それぞれの帰宅時間の、ちょうど谷間の時刻なのだ。星野君もいない。比較的交通量の多い県道の横断歩道をいいタイミングで駆け抜けて――この信号で引っ掛かったら、たぶん電車には間に合わない――、三月は橋上である千鳥駅の階段を駆け上った。改札を抜け、今度はホームに続く階段を駆け降りる。
 ホームにたどり着いたその先に――ゆるく癖のかかった黒い髪、制服の白いシャツから伸びる細い褐色の腕、背筋を伸ばした姿勢のいい後ろ姿。星野君がいた。
 彼の姿を確かめたところで、三月は歩調を緩めた。間に合ったという安心感、よし声をかけようという決意、だがさらに一歩足を踏み出したところで、三月はふと、立ち止まってしまった。
「……、」
 唐突にこみ上げる不安。
 ――このまま、勢いで星野君に話しかけても、いいのかな。
 張り切って追いかけて、頑張って声をかけて――こんなにも星野君に対して能動的になっている自分が、急に怖くなってしまった。
 もうずっと長い間、三月は『誰か』に『何か』を期待せず生きてきた。自分から進んで『誰か』に『何か』をしようとしなかった。『自分からは動かず、出しゃばらず、何かに執着しないこと』。
 それはなぜか。『望めば失う』ことを、繰り返してきたからだ。
 優しくしてくれた家政婦は三月が懐くと解雇された。
 習っていたピアノは楽しいと思い始めた頃に辞めさせられた。
 ずっとここにいたいと思ったのに連れ戻されてしまった――のは、いつのことだったか。
 ああ、だからだ――そして同時に、自分の行動を隠そうとしてしまう理由にも、思い当たってしまった。
 星野君を気にしている自分を、人に知られたくない。自分が興味を持ったものを、秘密にしたい。だって、誰かに知られてしまったら、それは三月の手を離れていってしまう。『望めば失う』。
 どうしよう、どうしたら――三月の視線の先の星野君が、ちょっと首をかしげた。そして、くるりと振り向いた。
 ほんのわずか、星野君が目を見張った――三月の心の準備が整う前に、本人に気付かれてしまった。
「あ、」
 ――ドクン。
 驚いたような星野君の呟きが耳に届いた瞬間、三月の中からは全てのモヤモヤが吹き飛んだ。
 そうだ、僕は星野君を落とすんだ。攻略方法なんて知らない。当たって砕けても死ぬわけじゃない。ここはあそこじゃない――三月は笑顔を浮かべて彼に歩み寄った。
「やっぱり星野君だ、そうかな、違うかなって、思ってた!」
 自分で言っていて白々しい。星野君はなんという表情も見せずに、うん、と頷いた。その顔が、すい、と線路の方に向けられる。ホームに電子音とアナウンスが鳴り響き、普通電車の到着を告げた。

 *
 
 四両編成、ロングシートの普通列車。同じドアから乗り込むと、星野君は奥のドアに寄りかかるようにして立った。車内は空いていたが、星野君が座らないのなら三月もそれに倣う。
 東西に走る鉄道路線の千鳥駅から羽戸駅まで、間に駅は三つ、乗車時間はおよそ十五分。チェーンの大型スーパーや大きめの飲食店で駅前が賑わっているのは千鳥だけで、そこから東に向かう車窓は、ずっと民家と田んぼ、畑、時々竹藪。
 星野君はそこがいつもの定位置とでもいうような自然なそぶりで、ドアに左肩を預けて遠くを見ていた。その視線の先にあるのは、やっぱり民家や田んぼ、畑、その向こうに連なる濃い緑色のなだらかな山、相変わらずの灰色の空――三月はそれを正面から眺め、様子を伺いながら話しかけた。
「星野君も羽戸なんだってね。全然知らなかった、朝も帰りも、会ったことなかったしさ」
 車窓に向けられていた視線が、ちらりと三月に向けられる。その視線の意味が――これはわかる。
「あの、滝本さんが教えてくれて」
 三月が答えると、星野君はふうんと言わんばかりに小さく頷いた。
 空いた車内には他の高校の生徒と思しき制服姿、おそらく大学生だろう若い人、お年寄りと呼んでよさそうな年代の老男女――同じ車両に、二人の他に千鳥校生はいない。
 電車は進む。三月が話しかけ、星野君は時々小さく頷いたり、ちらりと視線を投げかけてくる。反応はある。だがこれでは、会話が弾んでいるとはとても言えない。
 『取り付く島もない』というのは、まさにこういう状況だ、と三月は思った。会話になっていないから、質問ができない。結局肝心なことは何一つ聞けないままどうでもいいことばかり話しかけ――男子高校生が二人いて、話題のほぼ全てがこの梅雨空の天気の話に終始した。話の広がらなさにもほどがある――、電車は羽戸駅に到着した。

 *

 二人と一緒に、数人が降りた。乗り込む人も数える程度。夕方のこの時間でさえ乗降客は少ない、田舎の駅。二人が降りた正面、駅の南側に改札があり、実家の方ではあまり見ないタイプの簡易的なタッチ改札を通過し、会話がないまま外に出る。
 学校の最寄である千鳥駅の傍を通っている幹線道路は、途中で線路を外れて南へ下がっている。羽戸駅の前を走っているのは、かろうじていくつかの店舗が並んでいるものの商店街と呼ぶにはあまりに寂れた細い道。だが、駅前は広く、大きなロータリーがある。バスやタクシーというよりも、地元の人の乗降に供されるのだろう。実際今も、同じ電車から降りてきた人が迎えに来ていた車に乗って去っていった。
 滝本さんは、星野君は小・中学校のスクールバスに便乗しているのだと言った。見回してもバスの姿はない。時間が早いのか、それとも、乗り場は駅前ではないのだろうか。
 バスは駅前まで来るのか、それとも中学校とかの方まで行くのか、そう尋ねてみようと三月が口を開いたちょうどそのとき、星野君がくるりと振り向いた。その目が――三月を射抜く。ドクン、と心臓が跳ねた。
 転入してきたあの日と同じ、三月の何かを探るような、見定めるような、何もかも見透かされそうな目。
 そうだ、この視線の理由が知りたかったのに――三月は思わず口を閉じ、どうでもいい言葉を飲み込んだ。 
 俄かに冷たい風が吹き、空が掻き曇った。どこか遠くで、空が轟いた。三月に向かって、星野君が言った。
「なんか……、」
 迷っているのか、それとも言葉を選んでいるのか。強い視線を三月に向けたまま、星野君は何かを言いかけて、やめて、――やがて続けた。
「お前、なんか……、気持ち悪い」
「……、えっ」
 聞き違い――だろうか。いや、たぶん、そうではない。だが、聞き返すのも気が引ける、ようなことを今、星野君は言った気がする。
 『お前、気持ち悪い』。
 星野君から自分に向けられた『言葉』として、これは今までで一番長い。だから、とにかく何か返事をしたいのに、喉のあたりに言葉がつかえて出てこない――やがて、ポツリ、と水滴が三月の額を打った。
 ポツ、ポツ、パラパラ、バラバラバラ。
 雨が降り出した。
 思わず、あ、と声を上げ、二人同時に天を仰ぎ見た。頭を下ろすと、もう一度星野君と目が合う。雨脚が急に強まり、痛いくらいの雨粒が降り注ぐ。強い視線が、鋭い刃のように三月を切り裂く――星野君は踵を返し、白く煙る雨の中、ロータリーから南に向かって走り去った。
 どうやらスクールバスの乗り場は、駅前ではないらしい。だがそんなことは、本当に、本当にどうでもよかった。

瀧殿縁起 第一章「孤高の王」 3 ≫

※こちらは2023年8月12日発行の同人誌『瀧殿縁起』のサンプルです。