君はポップスター(1)
(1)
――わたし、メリーさん。今、あなたの近くのパンダ公園にいるの。パンダ公園なのに、パンダがいないの。
「……、メリーさん、この一年帰ってきてないからなあ……」
スマホを握りしめ思わずつぶやく。メッセージの送り主はもちろんメリーさんではない。
「じ……マスター、ごめんちょっと出てくる。すんません、失礼します」
頷く祖父――マスターを尻目にエプロンを着けたままダウンジャケットを羽織り、カウンターの常連客に笑顔で頭を下げ、ドア横の鏡で一瞬髪を整えて――暗めの茶髪は先週カットに行ったばかり。行っといて良かった!――七尾賢太郎(ななお・けんたろう)は店を飛び出した。ちりんちりんと軽やかなドアベルの音が、すっかりクリスマスムードに彩られた夜の商店街に響く。隣の居酒屋は、毎年店の前に派手なイルミネーションを置く。年々パワーアップしている気がする。
バス通りの交差点で、信号待ちの間にスマホを見る。メッセージの受信時間は午後六時五十分、今は七時二十五分。三十分前だ。このタイミングで気づけたからまだ良かった、下手をしたら店を閉めて家に帰るまで気がつかなかった可能性もある。考えただけで背筋が凍る。
「もう、なんでメッセやねん、ていうか何で公園やねん」
思わず小声で悪態を吐き、早く変われと念じながら車道の信号を見つめる。そちらが赤になった瞬間、歩行者用の色が変わらぬうちから歩き出す。
通称『パンダ公園』は、賢太郎の祖父が営んでいる――賢太郎がアルバイトしている喫茶店『喫茶トリップ』を出てすぐの横断歩道を渡った先、コンビニと交番とに挟まれた児童公園だ。
広く開けているうえに夜でも明るく、ついでにお巡りさんもすぐ近くにいるというので、近隣に住む部活帰り・塾帰りの生徒たちの、健全な溜まり場である。
賢太郎も中高生の頃はよくここで遊んだ。コンビニで駄菓子やジュースを買って、遅くまでくだらない話をして過ごした。大学三回生、二十一歳になる今振り返ってもそう遠い昔ではないが、自分の青春はほとんど祖父の店かこの公園で出来上がっている、と賢太郎は常々思っている――が、だからと言って、『今』、『ここ』はないやろ。お前のファン層、ティーン女子ちゃうんか。
コンビニの駐車場を斜めに突っ切って公園に足を踏み入れる。今年に入っていくつかの遊具が撤去され、砂場と鉄棒だけになってしまったパンダ公園――街灯の下のベンチに腰掛け炭酸水のペットボトルをもてあそぶ、若い男が一人。思わず息を止めてしまう。
高校生たちの姿はない。そらそうや。確かにあの頃の自分たちも、先客がいる、あるいは後から誰かが来たら、潮が引くように公園を離れた。それが知らない大人なら尚更だ。とにかく今日は、人目について騒ぎになる可能性が減ったのは喜ばしい。
ベンチに座っている男は、目深にかぶったキャップにジョガーパンツ、それだけならランニングの途中に見えなくもない。がそれにしてはおしゃれなスニーカーと暖かそうなボアのジャケットを着こみ、口元にはマスク。要するに、大学でよく見る――そこら辺にいる賢太郎と同年代の量産型の男子である。たまに教室で隣になったら上着が色まで被ってて、めっちゃ気まずいやつやんこれ。
一瞬立ち止まって深呼吸、気持ちを整え、それから、
「なんでいきなりここやねん、もうちょっとじわじわ近づいてきいやメリーさん」
そう賢太郎が声をかけると、若い男が勢いよく振り返った。
「賢太郎!」
指でマスクを下ろして、満面の笑み。
その瞬間――目の前にいたはずの『そこら辺にいる量産型男子』はパッと消え去り、脳内にはキラキラの衣装を身につけた王子様が現れる。街灯のあかりはまるでスポットライト。胸のあたりがドキンと大きな音を立て、軽くめまいを覚える。口元が見えただけでこの有様だ、完全にマスクを外してキャップを脱いだら、そのあかりはもしかしたらステージを彩るド派手な電飾に見えてしまうかもしれない。突然の状況に、相当浮かれている。
「わー初めて見たその格好。かっこええやん、長いエプロン。足長く見えんな」
「見えるんちゃうねん長いねん、あ、ちょっ、捲るな」
「下はいてんのやしええやんか」
「当たり前やろ! てかもういいから、マスクしといて」
一瞬ライブ会場になりかけた空気は、そういういつもの冗談によってただの師走の夜の公園に戻り――賢太郎は男の隣に腰かけた。
へへ、と笑って頷いて、マスクを戻す横顔を眺める。
長い睫毛、筋の通った鼻梁、くっきりしたフェイスライン。耳の横からのぞいている髪は黒い。生放送の歌番組で見た夏頃は明るい色にしていたが、やっぱり黒髪が一番似合うなあと思う。キャップの下は、たぶん後頭部を短めに刈り上げたマッシュヘア。顔が小さいので、これも似合っている。
その気になってじっくり見れば、帽子を被ろうがマスクをしようが、相変わらず全方位に隙の無い整った顔立ち。今は座っているから目立たないが、手足も長いしバランスがいい。かっこいい。かっこよすぎて、昔から嫉妬心すら湧かない。むしろ見惚れるし、なんならため息が出る。改めて『実物』だ、と思ったら、またドキドキしてきた――妙な緊張と喜びが混ざり合っている。
まだ行ったことはないしたぶんこの先も行くことはないが、握手会ってこんな感じかな、いやあかんあかん、こんなん、普通のファンみたいやんか。
今はただの、いつもの、素の『優心』やから――賢太郎は、ふう、と小さく息を吐いた。
男――神谷優心(かみや・ゆうしん)は、小・中と同じ学校に通った賢太郎の幼なじみである。
高校は別の学校に通い、卒業後、賢太郎は地元の私立大学へ。そして優心は新たなステージを目指して上京し、今年で三年目になる。
この場合の『ステージ』は比喩でも何でもない。優心は今、職業として様々なステージに立っている。最初はCDショップのインストアライブやイベントの特設ステージ、それからすぐに同じ事務所の他ユニットとの合同ライブに出るようになり、今や単独開催ができる規模、ただし残念ながらアリーナはまだだ。だがテレビなら最近は、BSや有料チャンネルの専門番組だけでなく地上波の歌番組にも出演するようになった。
そこそこ大きい芸能プロダクションのもと三年前に結成し、二年前にメジャーデビューを果たした五人組ダンスアンドボーカルユニット『トイボックス・ラブシアター』、略称『トイラブ』。神谷優心――ユーシンは、そのメンバーの一人である。歌は文句なしに一番で、ダンスでは断トツに上手い二人がいるのでユーシンを含む三人が同率三位、という印象である――賢太郎の独断なので、ひいき目の自覚はある。
ある時はキラキラの王子様、またある時はモノトーンなおしゃれスーツ、時々何だかよくわからないが派手でかっこいいステージ衣装を身にまとい、歌をうたい、ダンスをし、トークもこなす。番組の企画によっては食レポもする。まだ端役だがドラマや映画に出演したメンバーもいるし、ユーシンは雑誌にコラム連載がある。公式が配信している最新の動画では、芸術の秋と銘打って陶芸チャレンジをしていた。完成品の出来はそれほど良くはなかったが、それはそれで味があった――ひいき目の自覚は、やっぱり、ある。
シングルは恋の歌や応援ソングが多く、アルバムにはメンバーのソロ曲もある。CDをリリースすればお渡し会もやるし握手会やチェキ会もある。『トイラバー』と呼ばれるファンたちは推しメンバーのイメージカラーを身につけイベントに出かけ、推しメン色のサイリウムを握りしめてライブに参加する。
SNSを検索すると、トイラブから夢や希望や生きる意味を受け取ったトイラバーたちの熱い呟きがこれでもかと流れてくる。時々、背筋が寒くなるヤバい感じの書き込みもあるが、これが有名税というやつか、と思いながらブロックする――賢太郎が個人的に。ただし賢太郎のそういう行動を、優心は知らない。
要するに、賢太郎の幼なじみの神谷優心は、『アイドル』なのである。
十二月は忙しい、クリスマスライブが終わったら年末は年越しフェス、年が明けたらライブツアーも始まるし、毎日練習、時々集録、たまに取材、合間にレッスン。しんど!――というようなハードスケジュールをメッセで伝えてきたのはつい最近のことで、東京で忙しく仕事をしているはずの優心が、ただの平日のこんな時間に、なぜかパンダ公園で賢太郎の隣に座っている。前に会ったのは去年の夏頃で、一月にあった『成人のつどい』にすら帰ってこなかったのに――まあ、それは仕方ないな、とは思うけど。
会ってはいないがテレビでは見ているし、メッセの遣り取りも頻繁なのでそれほど久しいとは感じていないのだが――久しぶり、という挨拶もそこそこに、賢太郎はまず尋ねた。
「てか急にどうしたん。実家に用事かなんか?」
「いや? 家には寄ってない。てかたぶん誰もおらんし」
「は?」
「賢太郎に会いに来てん」
キャップの影になった優心の目元が、賢太郎をまっすぐ見て笑う。マスクの下の口元もきっと笑っている――心臓が痛い。オレにファンサしてどうすんねん、という言葉を飲み込んだら、賢太郎の喉からは、ぐ、という変な音が漏れた。何を言うてんねん、とツッコむ前に、優心が小ぶりな紙袋を突き出してくる。
「はいこれお土産」
「は? え、あ、ありがとう」
反射で受け取って中を覗き込むと、街灯のあかりにもはっきりわかる、黄色い包みの東京銘菓。
「おお、サンキュー。これオカンと妹がめっちゃ好きやねんなあ」
「……賢太郎は?」
「ん? 好きやで」
ただ一人占めするほど食い意地も張っていないので、とりあえず自分の分は確保してからリビングに置いておくか――なんて考えながらそう答えると、優心は目元を細めて、どこか満足げに、ふふ、と笑った。明るいところで見たら、きっとそれは、はにかんだような笑み。ホンマやめて、心臓が持たへん。
「次はいっぱい入ってんのん買ってくるわ」
「や、嬉しいけど気遣わんでええで、嬉しいけど。なんか別のバージョンのやつとかもあるやん、あれも好きやけど」
動悸をごまかすように冗談めかして賢太郎が言うと優心は、今度はハハハと声を立てて笑った。
もう一度ありがとうと言って紙袋を脇に置き、優心に向き直って話を戻す。会いに来た、と言うのなら、
「こんな寒いとこ待ってんで、店来たらええのに」
「んー、まぁ、そうなんやけど。ここの前通ったら、久しぶりやなーと思って。パンダ公園やのにパンダおらんくなってるやん、びっくりして」
理由になっているような、なっていないような――だけど思い入れがあるのはそうだったかもしれない。今は亡き『パンダ』は、他の新しい公園みたいに弾んだり揺れたりしないただパンダの形をしているだけのベンチで、優心のお気に入りだった。
「今年の二月くらいに撤去されたわ、パンダ。ひび入ってて、老朽化やって」
「そうなん! かわりのパンダ来おへんかったら、パンダ公園とちゃうなるやん」
優心は、こういう素ボケたことを普通に言う。テレビの中では東京言葉を話し、顔立ちに似合ったアルカイックスマイルを浮かべて、トイラブのエレガント担当――なんのこっちゃ。時々隠しきれずに地元の言葉が出て、可愛いとか言われている。
「別に正式名称ちゃうからな!? オレらがそう呼んでるだけで」
「あそっか。ほなこれから何て呼んだらええんやろ、鉄棒とか砂場なんて大体どこにでもあるしなあ」
「パンダ公園はパンダ公園でええやろ、伝われば」
「そっか。そやな。伝わったもんな、今日も。よかった」
「よかった、とちゃうわ、なんでメッセやねん。気づかんかったらどうすんねん、せめてこういう時は通話にして。それか、もうちょっと前から言うといて」
この季節、この寒空の下で三十分も待たせてしまう羽目になった。賢太郎はそれが気になって仕方がないのだ。オレが気付かんかったせいで、風邪でも引いたらどうすんねん。
「はは、ごめん。今日昼からオフやったんやけど、なんかなーって思ってるうち気がついたら新幹線の切符買ってて、」
「は? 夢遊病かなんか?」
「次、気がついたらそこの駅におって、賢太郎に言うとこて気づいたん、ここに着いてからやねん。メリーさん計画性なかったわ」
「計画性ないどころかメリーさんフットワーク軽すぎやん。オレなんかまだ一人で新幹線乗ったこともないのに」
「二時間ちょっとやもん、そんな遠くないで」
「いや遠いやろ」
アイドルにだって、地元もあるし友達だっている。会いに来たと言われればただただ嬉しい。だけど、急に思い立ってふらっと帰ってくる距離じゃない。
が、ふと気づく。
国民的というにはまだまだ知名度が足らない、とはいえ優心は――トイラブのユーシンはテレビにも出ている芸能人だ。有名俳優が主演を務めたドラマの主題歌も歌っているし、雑誌の表紙になることだってある。目撃情報が飛び交う昨今の対策として――まじまじと眺めてその顔立ちに気付かれさえしなければ、という注釈はつくが――優心のこの姿は変装としては完璧だと思う。
つまり優心は、そこまで念入りに身なりを整えたうえで――しかもお土産まで買って――新幹線に飛び乗って帰って来たのだ。
――何かあったんかな。
だけどそう尋ねても、優心はきっと、大丈夫何もないで、なんて言って話さない。もし賢太郎に聞いてほしい話があるのなら、賢太郎聞いて、と最初から言うのが優心だ。
ただのアホだった小学生時代はともかく、いろんなことを考えるようになった中学生の頃、そして別の学校に通っていてもほぼ毎晩顔を合わせていた高校の頃、優心と賢太郎はずっとそういう関係だった。
学校の友達には言えないここだけの話。進路に対する悩みや迷い。家族の愚痴。内緒話をしたのは、いつもこの公園だった。
賢太郎に会いに来た、と優心が言うのならそうなのだ。祖父や他のお客さんもいるかもしれないから店には来ず、賢太郎が気付くかどうかもわからないメッセージを一通送っただけで呼び出して――ホンマに、オレが気付かんかったらどうしてたんやろ。来るまで待ってた? それとも、会わずに帰った? 賢太郎がメッセージにすぐに気付くかどうか、例えば賭けか運試し――考えすぎか。
優心のその行動だけが些か謎ではある、けれども、自分が今でも、遠く離れたところで頑張っている優心にとって会いたいと思える存在であることは、素直に嬉しい。
「……寒ないん、」
若干遠回しに、優心の都合を尋ねる。平気だと言うなら、このままここで話せばいい。
「大丈夫。背中にカイロ貼りまくってるしポケットにも入れてる」
「一周回って好感度高いヤツやん」
「一個あげるわ」
ボアジャケットのポケット両側から出てくる、小さい使い捨てカイロ。はい、と一つ手渡され、
「両手かい。ありがと」
思わず吹き出しながら受け取って、握りしめる。少しかじかんでいた指先が、じわじわと息を吹き返してきた。
優心の温もりが伝わってくるような感覚――これは手つないでると言っても過言ではないのでは、とか考えてしまう自分が、ちょっと気持ち悪い。