君はポップスター(2)
(2)
優心が東京へ行ってから今日まで、顔を合わせたのは三回。デビュー前の年は二度帰省していて、去年は夏に一度だけ。このときは他の友達も一緒だったから、二人きりになるのは二年ぶり。
会わない間もごく当たり前にメッセージは送り合っていたし、優心に時間があるときは通話もしていた。優心の仕事上『今はまだ秘密』というようなことは多々あって、それは絶対に言わないし、賢太郎も聞かない。だけど、仕事で疲れたとかダンス難しいとか、いろいろあってへこんでる、なんて言ってくることはよくあるし、悩み事があれば賢太郎聞いて、と打ち明けてくれる。メンバー同士遊びに行ったり買い物に出かけたりするし普通に仲がいいと言っていたから、賢太郎に相談するということは要するに『トイラブのユーシン』としてでなく『神谷優心』として尋ねているのだな、と思うので、賢太郎もそのつもりで返事をした。
賢太郎の方も、例えばここしばらくの悩みの種だった卒業後の進路について意見を聞いたりして、要するに祖父の店やパンダ公園での関係は、形や頻度を変えてもずっと続いていた。
けれどやっぱり、そうやって電波の上や文字だけで遣り取りをするのと、実際に会って話すのとは全然違う。ビデオチャットにしたってメッセや通話と同じ、声の温度や空気感はわからない。
今、優心は賢太郎の隣にいる。
空は暗く気温は低いが、立ち上る白い息に体温を感じる。
声が、すぐそばで聞こえる――CDや配信で聞くのと同じ声なのに、やっぱり違う。
数百、数千のファンに向けるものとは別の――つまり、テレビや動画やライブDVDで見るトイラブのユーシンのそれではない――くだらない冗談を言い合う賢太郎の幼なじみ、神谷優心の笑顔が、こんなに近くにある。
どこかくすぐったいような喜びを感じる。
賢太郎と優心の共通の友人のこと、賢太郎の家族のこと、それから、昔よく遊びに行った駄菓子屋が潰れて更地になり、近所一帯に開発がかかってマンションが建つこと――話題が話題を呼び、取り留めもなく止めどなく話す。
賢太郎の大学の話は、尋ねられればする。優心の仕事の話は、本当はいろいろ聞いてみたい気持ちはあるが、優心が話したい時だけ聞く。賢太郎と話している時は『トイラブのユーシン』じゃなくて素の神谷優心だ。こちらから根掘り葉掘りしない、絶対に。これは賢太郎が自分に課しているルール。
そして優心の実家のことは、敢えて尋ねない。優心が話さない以上、以前から変化はないのだろう。
優心の家族は、輸入関係の仕事で海外赴任の父親と、展示だ仕入れだと全国を飛び回っているアクセサリー作家の母親。高校の頃の優心はほぼ一人暮らしの状態だった。通いの家政婦さんに家事の一切を任せ、朝食は抜きかたまにシリアル、昼食は私立校の食堂、そして夕食は賢太郎の祖父の店で食べる。だから優心と賢太郎は、学校が違ってもほとんど毎晩顔を合わせていた。
どちらかというと暑苦しい家族観をもつ賢太郎から見ると、神谷家はドライすぎるようにも思えるが、優心はその距離感がちょうどいいと感じているらしい。話題にしないからと言って愛がないわけじゃないし、顔を合わせなくても家族は家族。
賢太郎は過去に二度、神谷家が三人そろっているのを見たことがある。中学の卒業式のとき、それから、高校三年で優心が今の事務所に移籍することになったとき。
その頃の優心は、地元の小さな芸能事務所に所属していて、部活感覚でご当地アイドルのようなユニット活動をしていた。だが運営会社自体がダメになり、その時いくつか声をかけてきた事務所の中で、一番大きく安定しているところへ移ることになったのだ。
その契約の場に、優心は『喫茶トリップ』を選んだ。優心と両親、事務所の偉い人、それから、のちにトイラブのマネージャーとなる女の人が来た。同席はしないが賢太郎も祖父と一緒に店にいて、その様子を見守っていた。店は貸し切りだった。
神谷夫妻はいつ見ても、纏う雰囲気が明らかに庶民ではなかった。一言でいえばノーブル。美オジと美魔女、そして間違いなくその遺伝子を受け継ぐ優心。
いつも優心と仲良くしてくれてありがとう、これからもよろしくね、と笑いかけられ、はいよろこんで、とどこかの居酒屋みたいな返事をして、普段学校では取り澄ましたような顔をしていた優心が破顔してしばらく笑い続けていたことは、今でも時々思い出す。
ご近所ネタもあらかた話し尽くして、まあざっとこういう感じよ、この辺は、と賢太郎がまとめると、優心の最初の感想は、
「七尾家は相変わらずやな」
という笑い交じりの一言。お笑い芸人にやたらと詳しい両親と、トイラブではない別のアイドルグループを箱推ししている妹、旅行好きが集う喫茶店の名物マスターとしてブログか何かで紹介されたせいでちょっと有名になってしまった祖父、そして賢太郎。
「まーうちはずっとこんな感じやろうなと思う」
そう言うと、優心はマスクの下で小さく、ふふ、と笑った。そして、
「……うちも、相変わらず、なんやけどさ」
と続けた。
「……、おう」
思わず驚いたような声が出てしまう。
優心が家の話をするのは、ものすごく珍しい。
あまりにも話題にしないから、家族のことを嫌っているのだろうかと思ったこともあるが、そうでないことはすぐに分かった。七尾家とは形の違う、家族の情がちゃんとある。
優心が、ポツリポツリと話し始めた。
「こないだ、めっちゃ久しぶりに電話で話したんやん。したらなんか……、ウチの母親の作ったコサージュがめっちゃ売れてて、もう予約もいっぱいで受けられへんくらい、とかって」
「へえ~。おばさんも変わらずすごいな。コサージュて、なんか飾りやんな? 入学式とかでお母さん方がつけてるヤツ」
「そう、そういうの。ほんで、……別に何か意識したわけではない、て、母親は言うてるんやけど、笑てたからそれたぶんウソで……その、色が、さ。紫色、の、シリーズを出したんやって」
探り探り話すユーシンの言葉。その色を思い浮かべて、すぐにピンとくる。
「え、それって……?」
紫はトイラブにおけるユーシンのイメージカラーである。優心は、ウン、と頷いた。
「オレさ、公表はしてないけど、インタビューとかで母親がアクセサリー作ってるって言うたことあったかもしれんくて」
かもしれん、じゃなくて、言うてたで――と賢太郎は思ったが、ただ、うん、と相槌を打つにとどめた。どうやら優心は、そういうメディアでの露出を、友達にあまり見られたくないようなのだ。
今年の四月ごろ、若い主婦向け雑誌に載ったトイラブのインタビュー記事で、母の日のプレゼントというテーマがあった。ユーシンは、母親がアクセサリー作家なのでアクセサリーはまずやめとこうかなと思います、みたいなことを言っていた。
「ほんで母親の屋号も、」
「ああ、マダム・カミヤ」
賢太郎の知る限りユーシンが母親のブランド名を公に言及したことはないが、ユーシンの本名はネットで調べれば普通に出てくるし、神谷、アクセサリー、と並べれば、もしかしたらと思う人もいるかもしれない。そこへきて、紫色の新作シリーズ。
ファンの間で噂になって、もしかしたらユーシンのお母さんかもしれない、そうじゃなくてもカミヤというブランド名なのがいい、色もぴったり、というわけで、ユーシン担の口コミが広がり――予約が殺到している、というのだ。ああ、想像に難くない。
「ん、それって夏ごろの話?」
「電話で聞いたのは九月ごろかな。なんで?」
「や、うん、そうかあ」
言われてみればその頃、どこかの知らない誰かのSNS投稿でまさにそのコサージュの写真を見たような気がする――たいていそういうのは、トイラブとかユーシンとかで検索をした時の話だ。推しメンカラーのアイテムとみれば買ってしまう人は多いらしく、その時も紫色の大ぶりなアクセサリーの写真を見て、ああユーシン担か、と思った覚えがある。
マスクの下で見えないが、心なしかユーシンの頬が、少し笑ったように見えた。
「なんかさー。オレがこういう仕事させてもらってるのって、オレが好きでやってるだけってずっと思ってたけど、何ていうか――何かするにしても、オレ一人の問題じゃなくなってきてるんやな、て、思ってさ」
遠くを見るように顔を上げ、それからベンチに置いていた炭酸水を口に含む。いる? と差し出されてとっさに受け取り、一口飲んだ。意識しなければ特に問題のないごく自然な行動なので、深くは考えない。間接ナントカ、なんて、考えてへん。考えたらあかん。あかん。
ありがとう、とペットボトルを優心に返しながら、賢太郎の予感は確信に変わる――やっぱり、なんかあったんやな。
ふわふわしているように見えて、優心は案外真面目だ。自分が好きでやっているだけだと、これは以前から嘯いてはいたけれど、本当にそうなら悩む必要も、迷うこともない。好きなことだけやる、そうじゃないことはやらないという道を選ぶことだってできる。だけど優心はそれをしない。昔から、悩み、迷い、賢太郎に相談してくれた。大人の知恵が必要な時は、賢太郎の祖父にも意見を求めた。
賢太郎もそうだった。悩み事や迷いがあれば、親より先に優心に打ち明けた。自分がクソがつく方の真面目な性質である自覚はあるから、きっとそういうところが、自分と優心は似ているのだと思っている。
だから――今呟いた優心の気持ちが、賢太郎にはなんとなくわかる。
何かをするにしても、自分一人の問題ではなくなってきている――優心はおそらく今、これまでとは違う何かしらの責任、そして迷いや不安を感じている。やりたい、やりたくない、できる、できない、やらなきゃいけない――自分のファンによってマダム・カミヤのコサージュがバカ売れして嬉しい、というだけの話ではないのだ、たぶん。けれど、それを真正面から賢太郎に打ち明けないのは、優心の仕事に関わる問題だから。『今はまだ秘密』の話が、優心の仕事にはついて回る。
ダウンのポケットに両手を突っ込んで右手に触れたカイロを握りしめ、
「なあ、優心」
と、呼びかける。
ん、と返事をして優心が振り向く、それを見届けて今度は賢太郎が顔を上げて夜空を仰いだ。雲はなく晴れた夜空は、その分暗い。
今日の優心は、賢太郎に会いに来ただけ。もしかしたら全部賢太郎の思い過ごしで、悩み事なんて何もないのかもしれない。それならそれでいい、だけど。
「優心てさ、……けっこう責任感強いとこあるやん。心配したり、悩んだり、いろいろ考えてしまうのって適当ができへんからやんか。オレ、そういうの大事やと思うねん、何をするにしても。お前のそういうとこ、す……ええと思うで」
「……、」
優心の視線を感じる。振り向かなくてもわかる。賢太郎は続けた。
「そやし、……オレは、優心今の仕事向いてると思うし、何でもやれるし何にでもなれるって信じてる、けど、もしなんかあって、もう無理、てなっても、ちゃんとここに帰ってくるとこあるからな。ウチの店で雇ったるから、仕事もあるで」
全く具体性はなく、曖昧で、中途半端な言葉。だけどなんとなく、今の優心に伝えておきたかった。
「……ん、と、え、ウチの店、て、ほな」
「うん、親も納得してくれてん。卒業したら一年専門行って、もうしばらくはじいちゃんの弟子やけど」
自分が、ホンマに大事やと思ってること、やるんが一番ええねんもんな、だから。
「何があっても、オレはここにおるし、ちゃんと見てるから。優心」
お土産なんかいらんしな。ギリギリまで悩まんでいいから、いつでもただいま、って普通に帰っといで。