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魔法使いの初恋 第一章

第一章 《物見の血統 ものみのけっとう》

 1

 午後四時半の商店街は、強い西日を受けて金色に染まっていた。
 例年より長い梅雨が明けた七月の終わり、夕暮れというにはまだ少し早い午後。日中に比べれば風があって幾分か涼しい。
 倉坂颯太は眩しさに目を細めながら、弾むような足取りで歩いている。
 今日は大学生活初めての試験の最終日。答案の出来はともかくも、今日から夏休み――取り立てて用事など何もないのだけれど。
 
 白いTシャツに黒のボトム、黒いリュックと白いスニーカー、一見染めたような焦茶の髪色は生まれつき。路面店のガラス窓に映る姿は、学生の多い街に違和感なく溶け込む――埋没する――、どこにでもいる大学一年生である。
 試験期間は休ませてもらっていたアルバイトも今日から再開する。入りの時間は五時十五分から半の間で、学生マンションの部屋から店までは南に向かって歩いて十分、だがギリギリに家を出たりはしない。マンションの北側を東西に通っている駅前商店街の西の端――鉄道駅の正面に、仕事の前に立ち寄りたいお気に入りのカフェがあるのだ。
 バイト先とは反対方向になるので遠回りではあるのだが、そこでコーヒーをテイクアウトし、休憩室で一息ついてから準備を整えて店に出る、それが五月から続けている颯太の出勤ルーティンだった。
 車は少なく、自転車が行きかう商店街。買い物中の近隣住民や駆け回る小学生たちとすれ違う――小学校の夏休みも始まっているのだ。颯太の通う学校を含めて複数の私立大学を抱える街でもあるから、自分と似たような年頃の人も多い。いわゆるオフィス街ではないのでスーツ姿はあまり見ないが、この界隈に事務所を構えている会社も存外多いのは、通りに面した看板や表札の屋号でわかる。なんとか設計事務所、かんとかデザイン、あれこれ不動産、どれそれ工務店。
 駅前商店街は、もともとは町を縦貫する旧街道と、東の山すそに建つ神社を東西に結ぶ参道で――後から街道西側に鉄道が通り駅ができたのだ――、入口の一の鳥居と境内前の二の鳥居までの間に、八百屋があり薬局があり酒屋があり、精肉店があり花屋があり和菓子屋がある、ごく当たり前の生活商店街でもある。金融機関や飲食店は旧街道沿いに集中していて、駅を中心にした東側半径五百メートル程度が商業地域、あとは住宅、さらに東側は山。駅の北西に大学、南西は工業地帯、さらに西には国道が走っていて、大型ショッピングセンターや全国チェーンのファミレス、ドラッグストア、家電ショップが並んでいる。
 要するに、都会とは言い切れないものの極端な田舎ではない、いわゆる郊外、あるいは地方都市――ここは、そういう街だ。
 颯太が進学を機にここへやってくるより前、商店街はたいそう寂れていたそうだ。それがこの五年ほどで、空き店舗に新しい店が入り、昔からある商店が代替わりをして改装し、古い家屋がデザイン事務所になり――長い間シャッターが下りたままの店も多かった参道は、そこそこおしゃれな街並みに生まれ変わった。颯太が行きつけているカフェも、そういったリノベーション店舗の一つらしい。
 颯太がこの街で暮らし始めたのは今年の四月。それより前のことは、全部聞いた話である。学生マンションの食堂のおばちゃんがなかなかの事情通で、颯太は土地にまつわる話題が好きだ。

 商店街の入り口にあたる西の端の北角、石造りの一の鳥居のそばに、目的のカフェはある。
 黒い柱と白い壁の、いかにも古い商家というような店構えは、実はもともとあった店舗の隣の民家を買い取った部分――だそうだ。食堂のおばちゃん談。改装前の店は今の入り口に向かって左、街道沿いで駅に面した、昔ながらの『喫茶店』だ。建屋の外装は昔のままだが、中でつながって一軒になっている。
 入口に掛かった白い暖簾に黒い文字、染め抜かれた店の名前は『ENISHI』――カフェ・エニシ。昔は喫茶エニシという名前だったらしいのは、旧店舗のほうに残っている看板からわかった。
 見た目に反して案外軽い、黒い木製の引戸をカラカラと開ける。瞬間流れ出す心地よい冷気に、ホッと息を吐く。
 重厚な店構えだが、店内は明るい。天井が高く窓が大きいのだ。
 静かに流れる外国語のポップス、点在するテーブル席で楽し気にしゃべる大学生たち、ホットドッグをかじりながら携帯端末を眺める人、新聞を読む人、老若男女。ゆとりを取って全部で十五席ほどの客席。店の左奥――旧店舗の方にも客席があって、たぶんそちらにも何人か。クッキーが焼けたような香りとコーヒーのいい匂い。知らず頬が緩む。
 颯太にとって今一番、居心地のいい場所である。
 探すともなく注文カウンターに視線を向ける。そこにいるはずの店員の姿がない。が、あ、と思う間もなく奥の部屋――キッチンから、いらっしゃいませ、と声がかかり、颯太の心臓がドクンと打った。
 やがて両手に店頭商品の補充を抱えた『彼』が、笑顔で店先に顔を出した。
「あ、倉坂君。いらっしゃいませ」
 名前を呼ばれて、心臓がもう一度、ドクン。
 こんにちは、と笑顔で答えたいのに――いくら颯太のコミュニケーション能力に難ありだったとしても、挨拶くらいは普通にできるはずなのだ――、この人の前に立つとなぜかいつも最初の一言が言葉にならない。顔が赤いのが自分でもわかるから、居た堪れなくて視線を落とし、口の中でもごもごとこもった挨拶を返してしまう。
 ふふ、と小さく笑った声が頭の上に聞こえてくる。眉尻を下げて優しく笑う表情が目に浮かぶ。ほんと恥ずかしい、これで片想いなんて、図々しいにもほどがある――いつも感じる、自分への失望。そして同時に、今日も会えた、声を聴けた、名前を呼んでくれた――湧き上がる喜び。店に入って挨拶をしただけなのに、颯太の気分は下がったり上がったり落ち着かない。
 試験期間は店に来ていなかったので、一週間ぶりなんだからこの反応も仕方がないんだ、と自分に言い聞かせる一方で、これを週に三、四回、繰り返し続けてもう三か月が経っていることにも気付いている。いい加減、慣れて普通に接したいのに――普通に挨拶し、普通にオーダーして、できたら少しくらい世間話でもして、いつも美味しいコーヒーありがとうございます、じゃあまた、とか――無理、無理無理。
 颯太は小さく頭を振って息を吐き、そろりと顔を上げる。挙動不審な自分が嫌になる。だが颯太がこんな態度でも、彼はやっぱりいつもと変わりない、穏やかで優しいいつもの『大人』の笑顔で微笑んでいた。焦らなくても大丈夫、ゆっくり落ち着いてからでいいですよ、と――言ってくれているような気がするのはたぶん颯太の思い込み。だけどそれで勝手に救われたような気になって、颯太の鼓動は次第に落ち着きを取り戻す。
 彼に会うたび緊張しても、この店の居心地がいい理由――それはただ、彼に会えるから、だ。
 
 カウンターの向こうで微笑む男性店員、名前は御木本さん。名札を読んだだけだから、下の名前は知らない。
 カフェ・エニシのバリスタ――といっても実際淹れているのはコーヒーマシンなのだが、颯太にとってそれはどうでもいい――で、歳はたぶん、二十五、六。というのは実家の隣に住んでいた七歳上の幼なじみと同じ年頃に見えるからで、颯太の勝手な推測だ。
 颯太と比べると頭一つ分くらい背が高く、例えるなら紳士服のモデルとか、ドラマで主役を張る俳優みたいな体格をしている。ソフトに分けた黒い短髪、少し下がり気味な目元、細すぎない顎。白いシャツの捲った袖からのぞく骨張った手首、カップを持つ長い指、黒いエプロンの下は黒いパンツの長い脚。耳なじみの良い優しい声、表情、話し方、歩き方、何もかも――いつ会ってもときめく。ドキドキする。
 初めて出会った瞬間、颯太は『キラキラの眩しい笑顔』で出迎えてくれた彼に一目惚れをした。それからずっと、御木本さんは颯太の片想いの相手だ。自分がそういう恋愛指向であることにも、たぶんこの歳になって初めてそれと気が付いた、正真正銘の『初恋』――颯太には経験がないから、これが恋だと確信するまでには少し時間が必要だった。年上の同性に抱くのは憧れというんじゃないか、とか、何かを勘違いしてるんじゃないのか、とか――それも今では、しっかりと自覚している。
 気持ちを打ち明ける勇気はない。そもそも挨拶さえままならないのに、自分から話しかけられるはずもないのだ。だから、この先それ以上には進みようもない、颯太の完全なる片想い。せめて普通に会話ができるくらいにはなりたい、とは密かに思ってはいるけれど、なかなか難しい。
「今日も、いつもの?」
 いつもの――ブレンドのホットをテイクアウトで。夕方に来るときはバイトの前だというのは以前にもごもごと話したことがあって――そもそも夕方以外に来たことはない――、それ以来のやりとりだ。
 見た目からして平々凡々としている、どこにでもいるただの学生の自分が、『バイトの行きがけに立ち寄る倉坂という名の客』という個人として認知されているのは単純に嬉しい。名前を知られているのは颯太が店に学生証を落としたことがあるからで、本当にただの常連客、それ以上のものではないのが、切ないと言えば切ないが。
「あ、は、はいっ」
 そう言いながら、慌ててリュックからくすんだ水色のタンブラーを取り出す。通い始めた最初の頃は毎回カップでテイクアウトしていたが、繰り返し使える便利なものがあるのだと知って、店のロゴが入ったオリジナル商品をここで買った。他の店でも使えるからね、と教わったが、今のところここでしか使ったことはない。そもそも颯太にはコーヒーを楽しむ趣味なんてなかったのだ。カフェ・エニシだけが、特別な店。
 先に会計を済ませて、受取カウンターで待つのはチェーンのカフェと同じ作法。背の高いカウンターテーブルに手を乗せて手持無沙汰を装い、てきぱきと働く御木本さんの立ち居振る舞いを眺めるのも、この店に通う颯太の楽しみの一つである。
 御木本さんの手つきも、顔つきも、姿勢も、横顔も、何もかもに見惚れる。
 初めてこの店を訪れて、御木本さんにコーヒーを淹れてもらったとき、その姿は本当に『キラキラ』していた。

 恋する者の欲目、というわけではない。比喩でもなんでもなく、実際に御木本さんは光り輝いて見えていた――颯太の目には。

 2

 体質――である。
 時々、目に映る『何か』に、キラキラ輝く、モヤモヤと霞む、ドロドロと濁る、フィルターがかかったように見えることがある。『キラキラ』は良いもの、『モヤモヤ』は要注意、『ドロドロ』は良くないもの。それを感覚で知ることができる。颯太は、そういう体質の持ち主だ。
 見たいときに、見たいものが見えるわけではない。技術として使う方法はまだ習っていないから、正確に言えば、今の颯太の場合は『勝手に見せられる』人だ。
 颯太の父は、見たいときに見たいものを見ることができる。教えてくれる声が聞ける――人が生まれつき持つ気配、失くしたものの在り処、土地や物に残された強い意識、一般的に霊とか魂とか言われるような『何か』。颯太のように曖昧な見え方ではなく、もっと明瞭に。その技術を仕事にしている。今は亡き祖父もそうだった。それが倉坂家先祖伝来の生業である。
 要するにこれは、血縁によって受け継がれている体質――『血統』という。
 その技術と生業を、家では『物見』と呼んでいる。物見の血統。颯太自身は会ったことも見たこともないが、『血統』というのは他にも存在しているのだと、これは昔、祖父から聞いた。地鎮の血統、治癒の血統、石動の血統、等々――これら血統同士は、ずっとずっと何百年も遡って辿っていくと、同じ一人に繋がっていると言われている。同根の系譜と祖父は言っていたが、それはさておき。
 颯太が物見で認識するのは――突然視界が切り替わって『見せられる』のは――、今はまだぼんやりとした光、あるいは影のようなもの。それが何なのかは見ただけではわからないし、声や言葉も聞こえない。ただかろうじて、良いものかそうでないか、程度を感じ取ることができる。
 ただし良いとか悪いとか――善悪の基準は相対的で曖昧なものだと、颯太は子供の頃から家で教えられてきた。物見の『言伝』、メッセージの意味するところは『受け取る側』の解釈による。だからそれは、この時点での受け取る側、つまり颯太自身の物差しに則っての善悪、ということになる。 
 記憶にある限り三歳くらいまではしばしば見えていたそれは、颯太が小学校に上がった頃から頻度を減らしていて、高校の頃には半年か一年に一度程度、ほとんど見られなくなった。
 それがここへ来て――実家を離れてこの街に来てから、忘れていた何かを思い出したように、時々視界が切り替わるようになってしまった。
 意識的に切り替えることがまだできない颯太は、そうなったらもう為すがままだ。なるべく周りに気取られないように、平静を保つよう努めるだけ。早ければ数秒、長くとも十分もすれば、視界は戻る。
 
 *

 四月の初め、商店街の先にある神社に、引っ越しの挨拶をしに行った。小さいながらもこんもりとした木々に覆われた、古い社。由緒書によれば、祀られているのは山の神と道の神だ。
 神楽殿と思しき建物の前、大きな桜の木は花の盛り。爽やかな春の風が境内を吹き抜けて、ひらひらと花弁が舞う。この時期はきっときりがないのだろうが、散った花びらは丁寧に掃き清められている形跡があった。
 手入れの行き届いた様子に、颯太は嬉しくなった。神職ではないものの昔から神社に世話になることの多い颯太の家では、地元でも旅先でも、境内が美しくきちんとお祀りされている街は『良し』である。
 お参りを済ませておみくじを引いた。末吉――行く末は吉。大吉より幸先が良いかも、と小さく笑って文言に目を通す。
 きっちり四年で卒業する、卒業したら実家に戻って後を継ぐ、そういう約束で得た四年の大学生活。これまで地元で不遇だった分、百人とは言わないまでも友達がたくさんできたらいいな。サークルとかも入ってみたいし、アルバイトもやってみたい。もちろんしっかり進級しなきゃダメだから勉強もちゃんとする。そしてもしかしたらいつか、恋人とか、そういう相手に出会えるかもしれない――新生活に心躍る颯太のくじには、『まちびときたるたよりなし』とあった。
 きたる、はいいけど、『頼りなし』? じゃないよな、そう思いながらくじは持ち帰ることにして、その帰り道。颯太はふと立ち寄ったカフェ・エニシで御木本さんと出会った。何の前触れもなく思いがけず――『便りなし』だと気付いたのは後の話。
 颯太は元来、人が好きだ。高校まではその環境ゆえに親しく付き合う相手は限られていたけれど、それでも自分の血筋や家族、世の中や他人を恨んだり、誰かを嫌ったり、苦手に思ったことはない。一人でいることも苦ではなかったが、誰かと関わりたい、人の役に立ちたいという気持ちは、たぶん人一倍あった。家族だけじゃない、誰か――例えば友達。例えば、恋人、なんて、自分で想像して照れてしまう。
 人と人は、血縁によってのみ結ばれるのではない。土地の縁や人の縁、ときには偶然、奇跡のような出会い方をして繋がっていく。そういう――ドラマチックな運命が、世の中にはあるのだと思う。知識としてしか知らないけれど、そういうものだと信じている。実家にいた頃は難しかったが、今、遠く離れたこの街ならあるいは、という期待。
 けれどもこんなに唐突に――颯太にしてみれば、それこそ奇跡のように――出会ってしまうとは思ってもみなかった。
 カウンターの向こうで、いらっしゃいませ、と微笑む彼から、目が離せなくなった。『人』がこんなにキラキラと輝いて見えたのは、初めてだった。ドクンと心臓が大きく跳ねて、一瞬で頬が熱くなる。
 ご注文どうぞと促されて、メニューの一番上に書かれていた、おそらく最もベーシックなブレンドコーヒーをオーダーし――それすらしどろもどろなのだから思い出すたび頭を抱える――、それからカップを手渡されるまで、彼の姿はずっとキラキラと光り輝いていて、颯太の胸はドキドキと高鳴りっぱなし。笑顔も声も話し方も仕草も、全部好ましく思えて――これはもしかして『恋』と呼ばれるものではないか、と颯太はそこでようやく気がついた。
 初めての恋が一目惚れ。それも、明らかに年上の同性だ。本当に? そういう意味で人を好きになったことのない颯太にはわからない。だからそれから何度か通った。
 店に行く度、緊張しては解ける、その繰り返し。キラキラが見えることはもうなかったが、颯太にだけではなくどの相手に対しても丁寧な接客、紳士的な立ち居振る舞い、優しい表情――何もかもに惹かれた。憧れや尊敬を取り違えているのかと疑いもしたが、いつしかそれは確信に変わって、それからずっと、彼――御木本さんは、颯太の片想いの相手である。

 3

 御木本さんの手がコーヒーマシンにサーバーをセットしているとき、店の引き戸がカラカラと音を立てた。つい、見るともなしに視線を向けると、颯太と同じ年頃の女子が三人、ケラケラと笑いながらやってきた。
 御木本さんが首だけ巡らせて振り返り、いらっしゃいませ、店内のご利用でしたら先に席をお取りくださいね、と慣れた口調で優しく告げる。彼女たちは店内に視線をやって、どうする、と話しながら視線を交わす。一人が言った。
「こないだサオリが言ってたやつ、ここだよね? やってみよっかな」
「あー、なんだっけ、占いのやつ?」
「あっそうそう。え、みんなやるなら私もやる」
「じゃ私も」
 話し声に聞き耳を立てたり、勝手に話題の背景を想像してしまうのは、颯太の――どちらかと言えば悪い方の――癖。だがそれで、颯太の胸のあたりがそわっと揺れる。
 彼女たちは初めてこの店に来たようだ。友達が前に言っていた、それはおそらく『あれ、本物かもしれない』という噂、この店のオリジナルサービス。占いの、と言えばそれしかない。
 カフェ・エニシの名物――人気かどうかはわからないが、少なくとも一部の学生の間で話題になっているのは知っている――、『フォーチュンコーヒー』である。
 
 *
  
 大型チェーンのコーヒーショップで、テイクアウトのカップにスタッフがさらっとお礼のメッセージを書いてくれることがあるらしいが、カフェ・エニシのフォーチュンコーヒーはこれに似ている。ただしここでは、通常メニューにプラス百円のオプションだ。
 メニューには、担当スタッフの出勤日のみ提供いたします、という注意書きがあって、人型に切り抜いた写真と名前が書かれている――笑顔でカップを掲げる御木本さん。今、目の前に本物がいるというのに、その写真を思い返してまたきゅんと胸が高鳴る。
 颯太自身はまだ試したことがないが、この店に通い始めた初めの頃に、そのオーダーに出くわしたことがあった。
 フォーチュンコーヒーを注文した客とカウンター越しに相対し、御木本さんは一瞬目を細め、それからおもむろに、茶色の紙に何かを書きつけた。メモ用紙か何かかと思ったが、カップスリーブだと後から気付いた。
 それは、その瞬間御木本さんの頭に思い浮かんだ『メッセージ』である。
 おみくじ、占い、行動指針――だが、御木本さんのそれは、例えば霊感だとかオーラだとか、そういうスピリチュアルというような空気は感じない。あえて言うなら路上の詩人。『あなたからインスピレーションを得てメッセージを書きます』、フォーチュンコーヒーはそういうサービスだ。
 颯太が偶然居合わせたあのとき、書かれたメッセージが何だったのかは知らない。だがどうやら、小説や映画に出てくるワンフレーズみたいな文章だったり、ことわざや格言だったり、あるいは突然、具体的な商品名が書いてあったりする――ようだ。カフェ・エニシの名前で検索すると、SNSに時々投稿されているのを見かける。曰く――
『まだもう少し、でも止まない雨はない』
『たまにはフィルターを通さないで』
『深い緑は大人のやすらぎ オレンジ色は幼い親しみ』
 色のメッセージを書いてもらった誰かは、『店員さん何が見えてんの!?』というコメントを添えていた。緑色とオレンジ色、二択で購入を迷っているブラウスがあったのだという。
 颯太は驚いた。
 たまたまか、それとも本当に何かが見えているのか――見えているのだとしたら大変だ、と颯太は思った。なぜならそれは、規模や精度は――おそらく――違えど、対象を『見る』ことによってメッセージを伝える、颯太の実家の家業である物見と同じだからだ。
 そういう『特殊な体質』を持つ人が、多くはないものの少なからずいることは颯太も知っている。だが、実家を遠く離れた街で、偶然立ち寄った店で偶然出会った、それも並ならぬ好意を抱いてしまった相手が、自分と似たような能力を持っているなんて、そんなことがあるだろうか? いや、そんなこと、まずあり得ない。
 『幸運をつかむための、ちょっとした遊びゴコロ』と、メニューにはある――写真の御木本さんから吹き出しが出ている。神社でおみくじを引くのと変わらない、おそらく注文する人の大多数がそう思っている。
 だが、颯太は――颯太の家は――おみくじが『遊び』で片付かないことを知っている。
 当の御木本さんやエニシの店長も、その辺は、もしかしたらわかってやっているのだろうと颯太は思う。御木本さんが本当に『見える』人なのかどうか、それはわからない。だけどこれは御木本さんだけの特別オプション。『誰もができることではない』のだ。
 そして、ある程度は遊びのつもりで――そしてある程度は本気で――注文した誰かが、メッセージを受け取って、それがその瞬間の自分にとって核心に迫るものだったとき、友達の前では笑って見せても、SNSではこっそり呟いていたりする。
 『エニシのフォーチュンコーヒー、結構ガチかもしんない。』――緑色のブラウスを買うことに決めた誰かが書いていた。
 そういう一連の顛末がふわふわと噂になって――フォーチュンコーヒー未体験の颯太の知るところとなっている。

 友達から噂を聞き及び、フォーチュンコーヒーを頼もうと話す彼女たちは店内利用を決めたらしく、空いていた四人がけのテーブル席に荷物を置きに行っている。
 彼女たちはほんの遊びか、それとも何か気になったり悩んでいることがあるのか――占いに来た客に『お悩みですね』と話しかければ大多数の人に当てはまる、という話があるが、家業の物見も神社のおみくじも、きっとフォーチュンコーヒーも、それ自体はただの言葉で、それを受け取った人の解釈次第で当たったり外れたりする、というのは颯太にもわかる。
 メッセージの意味するところは、受け取る側の解釈の問題――悩みや迷いの解決につながるか、それとも幸運をつかめるか。
 『何かを願って得た言葉なら、当たるとか当たらないとかよりも、言葉そのものを大事にした方がいいかも』とか、『後になって振り返ればわかることもあるかもしれないから、今は全く関係ない気がする言葉だったとしても、折に触れ思い返してみるのも良いよ』とか――見知らぬ相手に話しかける勇気は全くないくせに、颯太の脳裏には、そんな心構えのような言葉が浮かぶ。
 彼女たちのより良い未来を願わずにはいられない――なぜなら彼女たちがこれから手にするのが、大好きな御木本さんを介したメッセージだからだ。
 彼を通して伝えられるものならば、それが本物でもそうでなくても、遊びのつもりでも、わずか百円のオプションでも――粗略に扱って欲しくない。大事にして欲しい。そして何かを読み取って欲しい。幸せになってほしい。
 一目惚れから片想い、の相手である御木本さんが、颯太の実家と同じように『メッセージを伝える側』にいる。御木本さんが『本当に』何かを見ているのか、あるいはそうじゃなくても相手からインスピレーションを得て、メッセージを伝えている。颯太にとって重要なのは、ただその一点。
 話しかけることもままならないから、御木本さんのことは何も知らない。だが御木本さんについて颯太が持っている数少ない情報の中に、自分の家との共通点があるなんて――勝手に親近感を抱いて、この出会いを運命だと思いたくなる。図々しいことこの上ない、だけど、嬉しい。
 そういう心の動きこそ『恋』に違いないのだと、颯太は改めて思った。

 *

「倉坂君、お待たせしました」
 耳なじみの良い優しい声に名前を呼ばれて、颯太はハッと我に返った。目ではずっと御木本さんを追いかけていたくせに、頭の中ではよそ見をしていて、颯太は慌てて居住まいを正す。
「あっ、はい、あり……がとうございます」
 カウンターテーブルに置かれたタンブラーを、両手で受け取る。押戴くみたいになるのを、御木本さんがおかしそうに見ている。
「試験、お疲れ様でした。今日から夏休み?」
 ふいに話しかけられて、びくりと飛び上がりそうになる――実際、ちょっと浮いた気がする。
「えっ、あ、――はい、そうです。あの、」
 同じ大学に通うみんながみんな、今日で全ての試験日程が終わったわけではない。自分のスケジュールを話したことはないのに、どうして知っているんだろう――と、一瞬考えて、けれどもそれはすぐにわかった。
 颯太が店に来るのはアルバイトの前、ということを、御木本さんは知っている。そしてこの一週間、バイトは休みをもらっていた。店に来るのも一週間ぶり。七月の中頃、颯太の通うT大学では前期試験がある――簡単な推理だ。
 だけど、それなら――ただの客でしかない自分が前にいつ来たのかを、御木本さんが覚えているということにならないか。しばらく来てなかったな、久しぶりに来たなって、気付いてくれていることにならないか? なる、よね――そう思った瞬間、ドクンと心臓が跳ねて顔が熱くなった。
 御木本さんほどの丁寧で誠実な仕事ぶりならそれは自然なことなのかもしれないけれど、それでも、颯太にとってはすごく、かなり、めちゃくちゃ、嬉しい。颯太は答えた。
「あ、――ありがとう、ございます」
 御木本さんの労いに対する返答――だが、会話のテンポがなんだかおかしい。言ってから気付いて、ほんと何やってるんだ、と胸の内で自分を叱る。
 ふふ、と御木本さんが笑った。そしてほんの一瞬颯太の背後に視線をやって、すぐに戻して、
「バイト、頑張ってね」
 そう言ってもう一度笑いかけ、御木本さんは受け渡しカウンターを離れていった。
 ありがとうございます、とか、はい、行ってきます、とか、何か言えたらいいのに――とっさに言葉が出ないうちに、注文カウンターにはさっきの女子たちが押し寄せていた。
 颯太は顔を赤くしたまま小さく息を吐き、接客を始めている御木本さんに向かってペコリと頭を下げる。ありがとうございました、という良く通る声を背中に聞きながら、颯太はタンブラーを握りしめて店を出た。

 4 
 
 心地よい空調に慣れた身体に、夏の空気は容赦ない。風がある分日中よりはましだとさっきは思ったが、そんなこともなかった。駅の向こうから指す西日は鋭さを増していていっそう眩しい。暑い。この炎天下にホットも何もないなとは思うのだが、颯太にしてみたら真夏にホットコーヒーを飲む方が、他のメニューを頼むよりも気が楽だった。
 鳥居をくぐって商店街を出て、線路沿いの旧街道を一路南へ――バイト先の中華料理店『泉川飯店』は、この先のアンダーパスをくぐった、線路の向こう側。小さな工場や倉庫が立ち並ぶエリアにある。
 歩いて十五分ほどのこの道のりは、いつも一人反省会だ。
 混みあってさえいなければ、御木本さんはいつも一言二言話しかけてくれる。颯太だけではない、老若男女、客には誰にでも。他の客相手なら、もっと話が弾んでいる。
 颯太とは大抵は天気の話――すごい雨だね、とか、今日風強いよね、とか、話題のない者同士の会話の王道だ。今日みたいなこともたまにはあるけれど――そういうときにもっと普通に話をしたいのに、颯太はいつも言葉に詰まってしまう。挨拶もちゃんとできないなんて、情けない、恥ずかしい、自分にがっかりする、こんなんで御木本さんのことが好きだなんて、ほんと図々しい。他人を恨んだり嫌ったりはしないが、自分のことは嫌いなところも多い。
 だけどそれでも今日は、いつもより足取りが軽い。御木本さんが、自分の来店頻度を覚えていてくれた――のだろう、たぶん、おそらく。そのことに、震えるくらい感動している。
 颯太は御木本さんのことが好きだ。下の名前すら知らないけれど――知りたい、とは思う。せめてちゃんと挨拶をして、颯太から話しかけて、ごく当たり前に会話をしたい。天気の話だけじゃなく、もっと――共通の話題があるのかどうかもわからないから、それも知りたい。興味で言えば、フォーチュンコーヒーのこともいつか聞いてみたい。
 そして今――知りたいのと同じくらいの気持ちで、自分のことを知ってもらいたい、という新たな願いが生まれていた。試験明けだと気付いてもらえたことが、本当に嬉しかったのだ。
 御木本さんへの想いは一方通行、ただ好きでいる、それだけでいい。そう思っていたのに――たった一言かけてもらっただけで、気持ちは簡単に変わってしまった。
 颯太は元来、人が好きだ。家族や親族だけでなく、もっとたくさんの人と関わっていたい。誰かの役に立つことがしたい。友達と誘い合って遊びに行ったり、助け合ったりしたい。故郷で自分や家族を遠巻きにしていた人たちのことも、颯太はちゃんと認めていたし、だからこそ、自分からも距離を取った。
 けれども、恋愛という意味で人を好きになったのはこれが初めて――あらゆることが突然で、想定外で、戸惑うことばかり。
 でも、人を好きになるってそういうことなのかもなあ、なんて知ったようなことを胸の内で呟きながら、颯太は一瞬腕時計に目をやって、ほんの少し、足を速めた。
 
魔法使いの初恋《第二章 フォーチュンコーヒー》≫

※こちらは2022年8月13日発行の同人誌『魔法使いの初恋』のサンプルです。