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魔法使いの初恋(1)1

(1)

 午後四時半の商店街は、強い西日を受けて金色に染まっていた。
 夏の終わり、秋のはじめの晴れた夕方、倉坂颯太は眩しさに目を細めながら目的地に向かって足早に歩いている。
 
 ベージュのロンTに黒のボトム、黒いリュックと白いスニーカー、一見染めたような焦茶の髪色は生まれつき――路面店のガラス窓に映る姿は、学生の多い街に違和感なく溶け込む、どこにでもいる大学一年生である。
 アルバイトは五時からで、学生マンションの部屋から店までは南に向かって歩いて十分。だがギリギリに家を出たりはしない。マンションの北側を東西に通っている駅前商店街の西の端――鉄道駅の正面に、仕事の前に立ち寄りたいお気に入りのカフェがあるのだ。
 バイト先とは反対方向になるので遠回りではあるのだが、そこでコーヒーをテイクアウトし、職場の休憩室で一息ついてから準備を整えてホールに出る、それがここしばらくの颯太の出勤ルーティンだった。
 自転車が行きかう夕暮れ時、買い物をしている近所の住民や学校帰りの小学生たちとすれ違う。颯太の通う私立の総合大学を抱える街でもあるだけに、同じ年頃の人も多く見かける。会社帰りのスーツ姿はあまり見かけないが、この界隈に事務所を構えている会社も存外多いのは、通りに面した看板や表札の屋号でわかる。なんとか設計事務所、かんとかデザイン、あれこれ不動産、どれそれ工務店。
 駅前商店街は、もともとは町を縦貫する旧街道と、東の山すそに建つ神社を結ぶ参道で――街道西側に鉄道が通り、駅ができたのはそのあとだ――、入口の一の鳥居と境内前の二の鳥居までの間に、八百屋があり薬局があり酒屋があり、精肉店があり花屋があり和菓子屋がある、ごく当たり前の生活商店街でもある。金融機関や飲食店は旧街道沿いに集中していて、駅を中心にした東側半径五百メートル程度が商業地域、あとは住宅、さらに東側は山。駅の北西に大学、南西は工業地帯、さらに西には国道が走っていて、大型ショッピングセンターや全国チェーンのファミレス、ドラッグストア、家電ショップが並んでいる。
 要するに、都会とは言い切れないものの極端な田舎ではない、いわゆる郊外、あるいは地方都市――ここは、そういう町だ。
 颯太が進学を機にここへやってくるより前、商店街はたいそう寂れていたそうだ。それがこの五年ほどで、空き店舗に新しい店が入り、昔からある商店が代替わりをして改装し、古い家屋がデザイン事務所になり――長い間シャッター通りと化していた参道は、そこそこおしゃれな街並みに生まれ変わった。颯太が行きつけているカフェも、そういったリノベーション店舗の一つである、らしい。
 颯太がこの街で暮らし始めたのは今年の四月。それより前のことは、全部聞いた話である。学生マンションの食堂のおばちゃんがなかなかの事情通で、颯太は土地にまつわる話題が好きだ。

 商店街の入り口にあたる西の端の角、石造りの一の鳥居のそばに、目的のカフェはある。
 黒い柱と白い壁の、いかにも古い商家というような店構えは、実はもともとあった店舗の隣の民家を買い取った部分。改装前の店は今の入り口に向かって左、街道沿いで駅に面した、昔ながらの『喫茶店』だ。建屋の外装は昔のままだが、中でつながって一軒になっている。
 入口に掛かった白い暖簾に黒い文字、染め抜かれた店の名前は『ENISHI』――カフェ・エニシ。昔は喫茶エニシという名前だったらしいのは、旧店舗のほうに残っている看板からわかった。
 見た目に反して案外軽い、黒い木製の引戸をカラカラと開ける。重厚な店構えに反して、店内は案外明るい。天井が高く窓が大きいのだ。静かに流れる外国語のポップス、点在するテーブル席で楽し気にしゃべる大学生たち、本を読む人、携帯端末に指を滑らす人、新聞を読む人、老若男女。ゆとりを取って全部で十二席ほどの客席。店の奥――旧店舗の方にも、おそらく何人かの利用者がいる。クッキーが焼けたような香りとコーヒーのいい匂い。気持ちが一瞬でホッと緩む。
 颯太にとって今一番、居心地のいい場所である。
 探すともなく注文カウンターに視線を向ける。そこにいるはずの店員の姿がなく、一瞬息をのむ。が、あれ、と思う間もなく奥の小部屋――キッチンから、いらっしゃいませ、と声がかかり、颯太の心臓がドクンと打った。
 やがて両手に店頭商品の補充を抱えた『彼』が、笑顔で店先に顔を出す。
「あ、倉坂君。いらっしゃいませ」
 心臓がもう一度、ドクン。
 こんにちは、と笑顔ではっきり答えたいのに――いくら颯太が引っ込み思案の人見知りでコミュニケーション能力に難ありだったとしても、挨拶くらいはできる、はずだ――、この人の前に立つとなぜかいつも最初の一言が言葉にならず、顔が赤いのは自分でもわかるから居た堪れなくて視線を落とし、口の中でもごもごとこもった挨拶を返す。
 ふふ、と小さく笑った声が頭の上に聞こえてくる。恥ずかしさと緊張と、声が聞けた喜び――で、胸が苦しい。いい加減慣れてもよさそうなものだが、これを週に三、四回、繰り返し続けてもう半年近くになる。
 気持ちを落ち着けるため小さく息を吐き、そろりと顔を上げる。自分がこんな態度であるにもかかわらず、相手はいつも変わりない、穏やかで、優しくて、とろけるような――相手が、ではない、颯太自身が、だ――、大人の笑顔。
 挙動不審な自分が恥ずかしい、けれどそれ以上に、圧倒的な慈愛に満たされる。胸の高鳴りはようやく落ち着いて、あとはただ、真冬の暖かい布団のような、夜参りの後の甘酒のような、静かに沁みる温もりだけが残る。彼に会うたび緊張するのに、彼のいるこの店の居心地がいい理由。
 
 カウンターの向こうで微笑む男性店員、名前は御木本さん。下の名前は知らない。
 カフェ・エニシのバリスタ――といっても実際淹れているのはコーヒーマシンなのだが、颯太にとってそれはどうでもいい――で、歳はたぶん、二十五、六だろう、というのは、実家の隣に住んでいた七歳上の幼なじみと同じ年頃に見えるから。勝手な推察だ。
 颯太と比べると頭一つ分くらい背が高く、雑誌のモデルかドラマの俳優みたいな体格をしている。ソフトに分けた黒い短髪、少し下がり気味な目元、細すぎない顎。白いシャツの捲った袖からのぞく骨張った手首、カップを持つ長い指、黒いエプロンの下は黒いパンツの長い脚。耳なじみの良い優しい声、表情、話し方、歩き方、何もかも――いつ会ってもときめく。ドキドキする。
 初めて出会った瞬間、颯太は彼に一目惚れをした。それからずっと、彼は颯太の片想いの相手だ。自分がそういう恋愛指向であることにも、たぶんこの歳になって初めてそれと気が付いた、正真正銘の『初恋』――経験はなくとも憧れと恋の違いくらいはわかるし、この気持ちが間違いなく恋愛感情に基づくもので、おそらく叶う望みもないのだろうということも、ちゃんとわかっている。
 ただ、好きでいるだけ。それだけでいい。
「今日も、いつもの?」
 いつもの――テイクアウトのホットコーヒー。夕方に来るときはバイトの前だというのは以前にもごもごと話したことがあって、それ以来のやりとりだ。見た目からして平々凡々としている、どこにでもいるただの学生の自分が、ただの常連客としてでも認知されているのは単純に嬉しい。
「あ、はい、あの、今日は――これ、で。ホット、でお願いします」
 いつもなら自前のタンブラーを出すところ、今日はカウンターの上のメニューを指さす。
 カフェ・エニシの名物――人気かどうかはわからないが、少なくとも一部の学生の間で話題になっているのは知っている――、『フォーチュンコーヒー』である。
 御木本さんは、一瞬、おっ、という表情を浮かべて、にこりと笑った。
「はい。ご注文は、以上でよろしいでしょうか?」
「は、はい」
 ただ応えるだけなのに、照れてしまって言葉が詰まる。恥ずかしい――が、御木本さんが、ふふ、と笑う、その声の温度も、表情も、颯太はたまらなく好きだった。
 先に会計を済ませて、受取カウンターで待つのは一般的なコーヒーショップと同じ作法だ。背の高いカウンターテーブルに手を乗せる。手持無沙汰を装って、てきぱきと働く御木本さんの立ち居振る舞いを眺めるのも、颯太の楽しみの一つ。
 フォーチュンコーヒーのオーダーは、いつものホット、プラス百円。オプション料金である。颯太が注文するのは、これが二回目。カウンターの背後、コーヒーマシンに持ち帰り用のカップをセットしてボタンを押す、合間合間に客席に目をやり、立ち上がって帰る客に声をかける、マシンが止まるのと同時にカップを取って、蓋。それを手に持ち、御木本さんが受取カウンターにやってくる。
 お待たせしました、と彼は言って、そばに立ててあるペンを手に取る。一瞬じっと颯太の目を見て――またしても心臓がドキンと弾んで、颯太はテーブルにそろえた指先をきゅっと握りしめた、が、今度は目をそらさない――、御木本さんはおもむろに、カップの外側に何かを書きつける。
 それは、御木本さんが颯太を見て、今、頭に思い浮かんだメッセージ。
 おみくじ、占い、行動指針――だが、御木本さんのそれは、例えば霊感だとかスピリチュアルだとか、そういう胡散臭い感じではまったくない。あえて言うなら、『あなたからインスピレーションを得て詩を書きます』、路上の詩人。フォーチュンコーヒーはそういうサービスだ。
 小説や映画に出てくるワンフレーズみたいな文章だったり、ことわざや格言だったり、あるいは突然、具体的な商品名が書いてあったりする。神社でおみくじを引くのと変わらない、『幸運をつかむための、ちょっとした遊びゴコロ』――と、メニューにはある。おそらく、注文する人の大多数がそう思っている。
 だが、颯太はおみくじが『遊び』で片付かないことを知っている。店の方はどういうつもりでいるのかはわからないけれど――御木本さん専門メニューであるあたり、当の御木本さん自身、そしていつもは奥のキッチンにいるエニシのオーナーも、ある程度は『わかっていて』提供しているのではないか、と颯太は思っている。誰でもいいわけではないのだ。
 そして、『遊び』のつもりで注文した誰かが、メッセージを受け取って、それがその瞬間の自分にとって核心に迫るものだったとき、友達の前では笑って見せても、SNSでは呟いていたりする。
 エニシのフォーチュンコーヒー、結構ガチかもしんない。
 それがふわふわと噂になって――颯太が目にしたのは、そういったいくつかの断片だ。
 
 カチ、と音を立ててペンのキャップを閉め、御木本さんの長い指が、スリーブのついた紙のコーヒーカップをカウンターにすっと滑らせる。
「お待たせしました、こちらになります」
 そのまま何かのポスターにでも使えそうな、デザインっぽく整った文字を一瞬で認め、颯太は両手でカップを受け取った。
 指先から伝わる熱、あたりに漂う芳香。コーヒーなんて以前は全く飲まなかったのに、この店のは美味しいと思う。
 コーヒーもこの店も、御木本さんも好き――そう思えることが、ただ嬉しい。
「あ、ありがとうございます」
「バイト、頑張ってね」
「はいっ」
 常連に限らず客相手なら誰にでも見せているはずの笑顔をまともに浴びて、胸のあたりがぎゅっと苦しい、だけどぼんやり暖かい。頬の熱を感じながら、へどもどと頭を下げて颯太は店を出た。

 駅の向こうから指す西日はさっきよりも鋭さを増していた。鳥居をくぐって商店街を出て、線路沿いの旧街道を一路南へ――バイト先の中華料理店は、この先のアンダーパスをくぐった、線路の向こう側。小さな工場や倉庫が立ち並ぶエリアだ。
 手の中のペーパーカップに、ちらりと目をやる。『フォーチュンコーヒー』、幸運のメッセージ。
 結構ガチかもしんない――わかる。やっぱりこれ、結構ガチかも。
 『困ったら、思い切って相談するのも大事。』
 踊るような駆け抜けるような、御木本さんの文字。
 まさに今、颯太は困っていた。相談するかどうするか――おみくじのメッセージは『受け取る側』の解釈の問題ではあるが、『伝える側』に働く『力』も当然ある。颯太はそれを知っている。
 御木本さんて、もしかしたら本当に何か『見えている』のかもしれない――だったら、どう、なんだろう、嬉しい、かな……?
 実家を出る際に父親から伝えられたろくでもない話を思い出して、ゴクリと喉を鳴らし、次の瞬間ハッと我に返ってぶんぶんと首を振る。そう、あの時も言ったはずだ、そんな簡単に出会えるもんじゃないだろ。だから、たぶん御木本さんも、『そうじゃない』。
 もう一度、手の中のカップに目をやって、それから一人、うん、と頷く。
 兎にも角にも颯太は今日、『思い切って相談する』決意を固めたのだった。

 『何か』が『見える』、ということ。
 霊が見える、心が見える、過去が見える、未来が見える、オーラが見える。超自然的で非科学的な何か――を、視覚によって捉える。
 颯太の目下の困りごと、それがまさに、『見えてしまった』問題なのであった。

 倉坂颯太は、いわゆる『見える』人である。
 と言って、見たいときに見たいものが見えるわけではない。そういう血筋の生まれというだけで、技術として使う訓練はしていない。だからより正確に言えば、今の颯太の場合は『勝手に見せられる』人だ。
 今は亡き祖父の生前、そして現役の父は、見たい時に見たいものを見ることができる。教えてくれる声が聞ける――人が生まれつき持つ気配、失くしたものの在り処、土地や物に残された強い意識、一般的に霊とか魂とか言われるような存在。その技術を仕事にしている。それが倉坂家先祖伝来の生業である。家では『物見』――ものみ、と呼んでいる。
 颯太が物見で認識するのは――突然視界が切り替わって『見せられる』のは、今はまだもやもやとした光、あるいは影のようなもの。それが何なのかは見ただけではわからないし、声や言葉も聞こえない。ただかろうじて、良いものかそうでないか、程度を感じ取ることができる。
 子供の頃から、颯太はこれを『キラキラ』と『ドロドロ』と呼んでいた。キラキラは比較的良い印象を受ける何か、ドロドロはその反対、良くない、怖い、触れてはいけない何か。
 ただ、善悪の基準は相対的で曖昧なものだ。メッセージは受け取る側の解釈の問題――だからそれは、颯太の尺度に則っての善悪、ということになる。
 記憶にある限り三歳くらいまでは毎日のように見えていたキラキラとドロドロは、颯太が小学校に上がった頃から頻度を減らしていて、高校の頃には半年か一年に一度程度、ほとんど見られなくなった。
 それがここへ来て――実家を離れてこの街に来てから、忘れていた何かを思い出したように、時々視界が切り替わるようになってしまった。意識的に切り替えることがまだできない颯太は、そうなったらもう為すがままだ。なるべく周りに気取られないように、平静を保つよう努めるだけ。
 四月の初め、商店街の先にある神社に引っ越しの挨拶をしに行ったとき、境内は眩いばかりにキラキラして見えた。その時引いたおみくじは『まちびときたるたよりなし』――『頼りなし』じゃないよな、そう思った帰り道、颯太はカフェ・エニシで御木本さんと出会った。何の前触れもなく思いがけず――便りなし。
 友達がたくさんできたらいいな、そう期待して参加したのに、幹部周辺のドロドロを見てしまったために入ったばかりのサークルを辞めたのは連休明けの五月の話だ。
 そして――住まいである学生マンションで、隣の部屋の住人にまつわるドロドロを見てしまったのが、わずか三日前のことだった。

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