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魔法使いの初恋(1)2

≪魔法使いの初恋(1)1

 隣人は稲葉という一年上の先輩だ。名前の響きから連想してしまうせいか、顔つきがどこかうさぎに似ているな、と颯太はずっと思っている――そういう颯太はこの先輩にイタチかオコジョ、と言われたことがある。見た目と体格、共に小動物寄りなのはお互い様だ。
 食堂で開催された新入生歓迎会で初めて顔を合わせ、話をしているうちに――おそらく緊張していた颯太に気を遣って話しかけてくれたのだ――、同じ学部、同じ学科の先輩であることを知った。その後、お互い遠く離れた地方の出身であることや、二人とも似たような理由で同じサークルを辞めたという経緯があって、なんとなく馬が合い以来友達のような付き合いをしてもらっている。ファミレスや食堂に連れて行ってもらったり、先輩の部屋でゲームをしたり、映画を見たり、買い物に付き合ってもらうこともある。
 もう使わないからといって一年必修の教科書や副読本を譲ってくれたので、お礼に実家から送られてくる地元の菓子をお裾分けしたら、子供みたいな笑顔で喜んだ。取りやすい授業の情報や、課題に有用な参考書、グループ発表で便利なツール、その他様々教えてもらった知識は、基礎演習のクラスでも教養の授業でかなり役に立っている。
 親切で、思いやりがあって、とてもいい人。丸い眼鏡が良く似合っていて、穏やかな人の良さを際立たせている。サークルをやめて暇を持て余していた颯太に、今のバイト先を紹介してくれたのも稲葉先輩である。
 以下、三日前から今日に至るまでの話――

 颯太がバイトから戻ってきた午後十時前、マンションの階段を上がって共用廊下に出たちょうどそのとき、稲葉先輩が部屋から出てくるのに行きあった。
 声をかけようと口を開いた次の瞬間、ひえ、と声が漏れそうになったのをなんとか堪える。
 先輩の部屋のドアから、真っ黒な『ドロドロ』が流れてきたのだ。
 顔に出さない努力はしていたが、まさかこんなところで――自分の家のすぐ隣で、こんな惨状を目にするとは思ってもみない。
 颯太に気づいた先輩が、いつものように丸い眼鏡の奥で目尻を下げて、おう、おかえり、と手を挙げる。先輩の目には、当然何も見えてはいない。
 その背後から、黒く長い髪を緩やかに巻いた、黒いワンピースを着た女の人が顔を出した。先輩について部屋から出てきたのだ。あろうことか――部屋からあふれ出し先輩の足元に絡みついているドロドロは、その女の人から湧き出ている。
 颯太の直感が告げる――これは、良くない。
 見たくないのに目が離せない。ハッと気づいて颯太が慌ててこんばんは、と頭を下げると、女性も会釈を返してきた。顔を起こしたその口元はにこりと笑っていたが、目つきはまるで値踏みするみたいに颯太を見ている。えっ、怖い。こんなの、ドロドロがなくたって怖い。
 颯太たちの住む学生マンションは、フロアで別れてはいるが男女共用。門限もないし、性別に関わらず友人の来訪や宿泊にも特に決まりはない。黒いワンピースの女の人は、颯太の知る限りマンションの住人ではない――なら、これは稲葉先輩の友達、あるいは、彼女。
 颯太の表情から何かを察したのか、稲葉先輩は、へへ、と照れ笑いを浮かべて、
「ちょっと、出てくる」
 颯太に告げた。いってらっしゃい、と務めて平静を装って颯太が答えると、稲葉先輩は女の人に向かって、
「サエちゃん、行こう」
 と笑顔で声をかけ――二人は連れ立って、階段へ向かって歩いて行った。重そうな見た目とは裏腹に、ドロドロは音もなく滑るように二人の足元に付きしたがって廊下の角を曲がり、やがて消えた。
 視界が切り替わったのか、ただ颯太の目の届く範囲からいなくなっただけなのかはわからない。だが、ドアの前、廊下の先、あたりを見回しても、ドロドロの気配はもうない。
 颯太は自室に駆け込んで急いで鍵をかけ、それから深くため息を吐く。先輩は彼女を送っていったのか、それともコンビニかどこかに買い物へ出て、また二人で戻ってくるのか。あのドロドロを連れて――不穏な動悸が止まらなくなった。
 実家にいた頃は、誰に何が見えても気にしない、関わらないようにして過ごしてきた。コントロールできないうちは、頼みもしないのに勝手に覗き見てることになるからね――父も母も祖父母も、みんなそう言った。
 倉坂家の家業が公然の秘密だった地元でもそうだったのだ。この街に、物見を知る者は一人もいない、だったらなおのこと、何が見えようが関わるべきではない――と、頭ではわかっている。
 だけど、気持ちの上ではそうはいかない。
 稲葉先輩はいい人で、大事な友達でもある。もしあのドロドロの原因が、先輩を害するものだったとしたら。先輩が傷つくことになったとしたら――自分は気づいていたのに、と、後悔することになるのではないか。
 それから三十分ほどして、颯太は隣の部屋のドアが開く音を聞いた。足音は一人分、先輩だけだ。人知れずホッと安堵の息を漏らす。先輩に付きまとってはいたが、ドロドロはさっきの女の人に関わる何かだ。離れていれば先輩には害はないだろう、とは思う。

 翌朝、颯太は食堂で先輩を待ち伏せて――タイミングよく居合わせたふりを装って、朝定食を食べながらそれとなく尋ねた。
「昨日のはもしかして、彼女さんですか?」
 稲葉先輩は嬉しそうに相好を崩し、一応ね、と答えた。
「バイト先のお客さんでさ」
 先輩は国道近くの居酒屋でアルバイトをしている。彼女は近隣女子大の学生で、前から何度か店に来ていたのは知っていた。向こうから連絡先を聞いてきた。やりとりをしているうちにそういう雰囲気になって、付き合いだしたのがつい先週のこと――だそうだ。今はお試し期間らしく、だから『一応』なのだと先輩は言った。
 『彼女欲しい』が鳴き声みたいになっていた先輩に、そういう相手ができたこと自体はめでたいし、そこには何の不思議もない。稲葉先輩は本当にいい人で、ただ寂しがり屋なのだ。
 しかし、だったら余計に、昨晩目にしたドロドロのことが気にかかる。
 付き合い始めたばかりだったら、お互いに気持ちも弾んで、いわゆる幸せオーラのようなものが『キラキラ』して見えるのならまだわかる。昨日見たのは『ドロドロ』――あんな風に良くない何かが付きまとっているのはなぜなのか。
 先輩の表情を見ても、彼女の存在が先輩を害しているようには思えない。
 ハッと気が付き、いや分からないぞ、と颯太は考え込んだ。例えば、――もしかしたら先輩は『痛いのが好き』で、彼女は『痛くするのが好き』だとか。もちろんそれは颯太が思いつく限りの仮定だが。値踏みされたように感じたのだって、一緒にドロドロが見えていたせいかもしれない。颯太が『良くない』と認識したからといって、必ずしも当事者にとってもそうだとは限らない。良くないものだと思うのは、あくまでも物見の主である颯太の基準だ。
 颯太は思わず頭を抱える――そんなの、どうやって確かめればいいんだ。こんなに嬉しそうに、はにかみながら彼女のことを話す先輩に、『自分にとっては良くないと思うものが見えたが心当たりはあるか』なんて、聞けるわけがない。
 黙り込んでしまった颯太に向かって、先輩は、あ、と思い出したように言った。
「――あいつにはちょっとだけ内緒にしといてくんないかな。お試し、終わったらちゃんと言うから」
「えっ……、あ、はい? あっ、」
 あいつ――そうだ、高宮さん。あの人なら、と腰を浮かしかけて、すぐに座りなおす。何してんの、と稲葉先輩が笑う。なんでもないです、と笑ってごまかした。ダメだ――内緒にしといてくれと、たった今言われたばかりだ。
 しかし、相談するなら彼しかいない。どうしてすぐに思いつかなかったのか。
 
 稲葉先輩と颯太の共通の知人はそれほど多くない。せいぜいマンションの同じフロアの住人と食堂のおばちゃんくらい、それもあくまでも『知人』レベルだ。そこで、高宮さんである。
 高宮さんは、稲葉先輩の同郷の友人で、高校からの付き合いだという。地元を離れたいという稲葉先輩を高宮さんが誘って、この大学を一緒に受験したのだと聞いた。そして、颯太にとってはバイト先の先輩。要するに、稲葉先輩が颯太に紹介してくれたのが、高宮さんの働く店だったというわけだ。
 高宮さんなら、稲葉先輩のことをよく知っているし、いつも気にかけているのを颯太は見ている。稲葉先輩に何かあったらと心配する颯太の気持ちは、わかってもらえると思う。
 だがしかし。
「……あ、」
 それにはひとつ大きな問題があることに、颯太は気づいてしまった――あれ、そもそも『ドロドロ』のこと、どう話したらいいんだ……? 
 高宮さんには内緒にしてほしいと先輩からは言われたが、申し訳ないが、これは反故にする。
 だが、押し切って相談したとして、颯太が見た『ドロドロ』をどうやって高宮さんに説明するのか。
 颯太はこれまで、物見のことを誰かに話した経験がない。地元にいた頃は隣近所みんな倉坂の家業を知っていたら、その必要がなかったのだ。
 物見の力が、世間一般に当たり前のものでないことはわかっている。これが地元なら、『見えた』で通じる――歓迎されるかどうかは別として。だが高宮さんも稲葉先輩も倉坂の家業のことなんて知らないし、『見える』ということ自体、理解できないかもしれない。
 それなら、颯太が見ている、もとい見せられている『何か』に触れることなく、彼女に対する不安を正しく伝えることができるか――無理だ。なぜなら、『黒いドロドロ』それこそが、颯太の不安の全てだからだ。
 日常の些細な出来事ならともかく、物見に関して嘘をついて適当にごまかすということが、颯太にはできない。
 とすれば、――全部話すしか、ない。自分に見えているもの、その理由、ドロドロとは何か。
 生家で暮らしていた十八年間、近所の人やクラスメートには遠巻きにされてきた。友達もほとんどいなかった。誰も知らないこの街に来て、先輩や高宮さんのように仲良くしてくれる人がいる。ここで自分が『見える』人間である、なんて打ち明けたら、もしかしてまた、距離を置かれたりするのかも――そのことに、今初めて思い至ったのだ。
「んん……」
 心臓のあたりがぎゅっとなって、颯太は思わずうめいた。これは、本題以前の難問だ。
 向かいの席で焼き魚をつついている先輩が、今度は何、とまた笑った。

 昔から、祖父母、両親にずっと言い聞かされている。絶対の秘密というわけではないけれど、あまり軽々しく物見の話をしてはいけないと。
 ――誰だって、秘密の一つや二つ持っているからね。
 ――でも、仕事じゃなかったら『見』ないでしょ?
 ――『見』られるかもしれない、ってだけでも、怖いもんさ。颯太だって、包丁持ってる人がその辺に突っ立ってたら怖いだろ。
 それとこれとは違うよ、と子供の頃は思ったものだが、今ならわかる。家業として成り立つ程度には必要とされながら、一方で、使い方によっては何かを害し恐怖を与えるもの――そういう意味で、父は物見を包丁に例えたのだ。
 この例えに則して言うなら、物見の力について説明をするということは『私は包丁を持っています』と宣言するようなものだ。倉坂の誰もが――颯太も含めて――調理以外には『絶対に』使わない。だがそれは、他人にとっての『絶対』にはなり得ないし、包丁を持っている、即、危険だと考える人もいる。
 これこそが、遠巻きにされ、あるいは簡単に人に話すことではないと言われる理由――見せびらかさずにしまっとけ、ってこと。
 マンションの隣人から、あるいはバイト先の同僚から、いつも包丁を持ち歩いていると打ち明けられて、怖くない人なんているのだろうか? 少なくとも自分は怖い。
 まして、今の颯太は自分で『見る・見ない』を選べない。だがそれだって説明する必要はある。先輩の彼女のこと、『見よう』と思って『見た』わけじゃないんです――気が付いたら包丁を振り回している状態だと考えたらぞっとする。ただの不審者じゃないか。
 颯太は嘆息を漏らした。
「また。朝から、どうしたんだよ。なんかあった?」
 目の前で少し心配そうな顔をしている先輩に向かって、颯太は慌てて表情を繕った。
「あー……その、今週期限だった課題、一つ忘れてて。今思い出しました」
 そう答えると、そりゃ大変だ、と稲葉先輩は言った。
 物見に関わる話でないなら、こんなごまかし方、いくらだってできるのに。

 アルバイトのない二日間、颯太は悩み通した。授業の予習も読みかけの本も、まったく手につかない。
 高宮さんに相談するかどうするか――稲葉先輩に良くないことが起こるかもしれない、説明がそれだけで済むなら相談する一択。颯太はただ稲葉先輩のことが心配なのだ。だが、それには颯太の持っている『包丁』についても説明しなければならない。せっかく仲良くしてくれているのに、仕事を覚えてバイトも順調なのに、また昔みたいに遠巻きにされて、友達もいなくなってしまったらどうしよう。うまくごまかす方法はないだろうか――颯太には考えつかない。
 実家の両親なら、放っておけと言うに決まっている。
 地元で唯一普通に接してくれていた隣家の幼なじみは、何かあったらいつでも連絡して来いよと言ってくれたが、いくら事情を知っているとは言ってもこんな話は困らせるだけだろう。 
 相談するなら、高宮さんに、全部打ち明けるしかない――だから、だけど。
 二日目の朝、一限の授業を受ける前に、神社に立ち寄った。参拝を済ませておみくじを引く。『信心怠らず人に尽くして吉』――そうしたいのはやまやまだ、と颯太は思った。稲葉先輩のことが心配で、実際何か問題があって、自分が手助けできるのなら――人に尽くせるのなら、そうしたい。高宮さんに相談するということが、稲葉先輩のためになるのかどうか。
 三日目、昼休みを挟んで三限の授業中も、隙あらば颯太は悩んでいた。幸い、あの日以来稲葉先輩の彼女を見かけることはない。視界が切り替わって先輩の周辺にドロドロが見える、ということもなかった。けれど、明日も見えないという保証はない。
 今日の夜はバイトがある。高宮さんに会う。相談するかどうするか、まだ決めかねていた。とりあえず授業が終わったら、洗濯した制服を取りに一度家に帰って、エニシに寄って――、
「……、あっ」 
 その瞬間思い浮かんだ、カフェ・エニシの御木本さんの顔。広い講義室の片隅で、心臓とノートの上のペン先が、ぴょんと跳ねる。
 頭の中の御木本さんが微笑む。接客をしている横顔を盗み見る。テイクアウトの時は決まって、バイト頑張ってね、と声をかけてくれる。
 途端にモヤモヤが晴れて気分が上がるのだから、恋の力というのは恐ろしい。一瞬で脳内に、何か知らないが良いものが分泌されたような気がする。体温が上がる。それでひらめく――アレだ。フォーチュンコーヒー。幸運のメッセージ。
 バイトの前にエニシによって、御木本さんからコーヒーを買う。結構ガチだと噂のある、あのオプションをつける。メッセージは受け取る側の解釈の問題、だから、もう絶対、それでどうするかを決める。何が書かれてあっても、無理やりでもこじつけてでも、その意味するところに任せる。相談するかどうするか。
 果たして御木本さんがくれたメッセージは、『困ったら、思い切って相談するのも大事。』
 解釈の余地もなくストレートな一言に、颯太は肚を括った。
 結果的に、高宮さんや稲葉先輩から距離を置かれることになったとしても、目にしてしまった不穏の種から稲葉先輩を守ることができれば、それでいい。
 

 
 そして現在――バイトを終えた午後十時の『泉川飯店』で、颯太は高宮さんと向かい合って、テーブル席に腰を下ろしているのだった。

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