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魔法使いの初恋 第三章

第三章 《信じる条件》

 1

 『泉川飯店』は、中華料理を中心に提供する大衆食堂、いわゆる町中華の店だ。中心客層は、すぐ近くの工場や倉庫で働く人たち。学生はあまり来ない。昼は定食、夜はいわゆる『一杯飲み屋』のスタイルで、もう三十年近く営業していると聞いている。
 十月二十日木曜日、午後十時。ところどころ塗装の禿げたコンクリートの床に、使い込まれたアルミテーブルと赤い丸椅子、全部で十六席の店内でテーブルについているのは颯太と高宮さんの二人だけ。仕事は全て終えて、ユニフォーム――黒い中華ボタンのついた白い上っ張り――から私服に着替えた後である。厨房では、店長がテレビを見ながら明日の仕込みをしている。
 就業前、仕事が終わったら相談がある、と颯太が言うと、高宮さんはすぐに店長と掛け合って、閉店後の店の片隅を貸してもらうことになった。颯太はスタッフルームでも良かったのだが、そこは更衣室兼休憩室、兼備品室でもある。退勤後に長居するところじゃないと高宮さんが言うので、それもそうだと納得した。
 店長の泉川さんは、五十代くらいの、見た目は厳ついが穏やかな男性で、昼間は奥さんと二人で店を切り盛りし、夜の営業だけアルバイトを雇っている。店の裏に立つアパートの大家でもあり、高宮さんはその一室の店子だ。高宮さんの父親が昔世話をした相手なのだというようなエピソードをちらりと聞いたが、地元からの付き合いがある稲葉先輩がふんわりごまかしたのに気付いたので、颯太はあまり突っ込んで聞かない方がいいのかな、と思っている。
 テーブルの上には、店の前の自販機で買った缶コーヒーが二本。高宮さんがブラックで、颯太はカフェオレ――高宮さんの分は颯太のおごりだ。話を聞いてもらうのに缶コーヒー一本というのは颯太としては申し訳ないのだけれど、彼がそれでいいと言ったので今は甘えておくことにした。
 店は午後九時まで、ラストオーダーは八時半。最後の客を送り出した後、残り物で賄いをごちそうになり、閉店作業を終えて颯太が店を出るのは、早くて九時半、遅くても十時――だが今日は、いつもと事情が違う。
 
「……、で、思い切って相談した、のが、今、です」
 テーブルの上に視線を泳がせながら颯太がようやく話し終えると、高宮さんは缶コーヒーを一口飲んで、ふん、と頷いた。
 長い話になった。『思い切って相談する』と決めたのはいいが、どこからどう話していいのかわからず、結局時系列に沿って最初から説明することになってしまった。
 先輩に――先輩の彼女に絡みつくドロドロを見たこと。ドロドロとは何か、実家の家業である『物見』、その力、未修練である自分、判断基準は自分にしかないから稲葉先輩にとって『良くない』かどうかはわからない、ただ、稲葉先輩が心配、ということ――。
 コツンと音を立てて缶をテーブルに置き、高宮さんは腕を組み天井を見上げて、何事か考え込んでいる様子だった。颯太がちらりと視線を上げると、四角い顎がこちらを向いている。
 颯太や稲葉先輩が小動物なら、高宮さんは大型動物だ。二人よりも一回りは大きく見える、がっしりした肩幅、厚い胸板、太い腕、胴回り、たくましい脚――服を着ていてもわかる筋肉質な体つき。硬そうな短髪と鋭い眼もと、きりっとした太い眉、鋭い鼻梁と締まった口元。鷹のような顔つき。いわゆる強面である。
 稲葉先輩から初めて紹介されたときはまずその険しい気配に怖気づいて、一瞬身の危険を感じた――今思えば失礼な話である。学部は違うがやはり同じ大学の学生である高宮さんは、稲葉先輩とはまた違った意味で、優しく面倒見のいい先輩だった。紹介されて初めて会ったとき、稲葉の友達ならオレの友達でもあるからな、と言ってくれた豪胆な人でもある。
 おまけに高宮さんは聞き上手だった。こんな風に差し向って二人きりで話し込むのは初めてだったが、颯太はそもそも話をするのが上手くないし、そのうえ荒唐無稽と受け取られかねない内容だったのに、高宮さんは真面目な顔で、適宜相槌を打ち、話を補う質問を挟みつつ、最後まで真剣に聞いてくれた。
 だから颯太としては、話すべきことは全て話した、と思う。どうでもいいことまで話した気もする――父親の『包丁』の例え話とか。
 颯太もカフェオレ缶に手を伸ばし、口をつける。カフェ・エニシのコーヒーを知ってしまってから缶コーヒーはあまり飲まなくなったが、久しぶりの甘さが、一生懸命話して高ぶった気持ちを落ち着けるのにはちょうど良かった。
 話している間は必死だった。物見に関する嘘はつけないし、ごまかすこともできない。全て、颯太にとっての事実だ。だが、事実だからと言って誰もがそれを受け入れるべきだとは思わない――特にこんな、目に見えない『何か』の話は。
 変な奴だと思われてもいい。ただ、あの女の人から溢れて稲葉先輩にまとわりついていたドロドロは、先輩に対して良いか悪いかはともかく――颯太の感覚ならば『悪い』――、何かしら影響を与えるものだ。誰の目に見えなくても、実際それは『在る』のだ。それだけはわかってほしい。
 倉坂、と天井を仰いだまま高宮さんが言った。思わずびくりと肩を揺らし、
「はっ、はいっ」
 慌てて答える。先輩が腕を組んだまま颯太の方を向いた。
「サエ――ちゃん、つったっけ? その、稲葉の彼女」
「って、呼んでたと思います」
「K女?」
「はい」
 颯太たちの通うT大学は私立の共学で、一番近くにあるのが私立のK女子大学。学校自体には何のつながりもないが、近いという理由で合同サークルもいくつかある。鉄道の最寄り駅が隣り合っていて、生活圏も微妙に重なる。普段の買い物をする店、アルバイト先、飲みに行く場所――稲葉先輩の働く居酒屋で、以前から来ていたお客さんだと先輩は言っていた。
 高宮さんは、もう一度、ふん、と唸って、首をひねったまま考え込む。
 壁に掛かった時計の秒針の音、厨房で店長が材料を刻む包丁の音、店長が見ているテレビの音、時々店の前を通る車やバイクの音――お前の話はわかった、と高宮さんが言った。
 胸の前で組んでいた腕をそのままテーブルに乗せて、ずい、と顔を寄せてくる。颯太もつられて、居住まいを正した。
「まず、オレは稲葉に彼女ができたってのを、まっ……たく知らなかった。大学で毎日会ってんのに」
「はい」
 力いっぱい溜めた語調に、聞かされていなかったことに対する心外さがにじんでいる。たいていのことに動じないタイプの高宮さんが、唯一稲葉先輩に関してだけはわずかながらも感情的になることに、颯太は知り合って早い段階で気付いていた。
「そんで、『稲葉の彼女』っていうのに、ちょっと引っかかってる――つうか、引っかかる事情を知ってる」
「あ――えっと、はい」
 颯太の知らないなにがしかの事情。以前にも何かあったのだろうか。
「そんで、倉坂はさ、その――ドロドロ? か? 稲葉にとって悪いかどうかはわかんねえって言ったけど、オレはひょっとしたらひょっとするな、とも思ってる」
「――はい」
 思わず、返事が一呼吸遅れる。
 ――高宮さん、ドロドロ、って、言った。
 高宮さんは、颯太の見た『何か』を、そのまま受け止めてくれている。高宮さんには見えないはずの、けれど颯太の目には――物見の力を通せば確かにそこに『在る』もの。
「だから、オレも気にかけておく。何もなきゃそんでいいし、何かあってからじゃ、変なもん見たお前も後味悪いだろ」
「はい。あの、……はい」
「ちなみに聞くけど」
「はい?」
「その――倉坂が見てるドロドロってのが、こう……命の危険みたいなのにつながったりもするのか?」
 高宮さんの目に一瞬真剣な光が宿って、颯太の背筋がぞくりと粟立つ。こんな風に真面目に取り合ってくれるとは思ってもみなかった。思いきり引かれてよそよそしくなるとか、気味悪がられるとか嫌われるとか、そしておそらく『わかってもらえない』――そんな心配ばかりしていた。
 すみません、わからないんです、と颯太は答えた。
「その、……オレはまだそういうのが全然わからなくて……。うちの親は、原因とか、あと今の時点での未来みたいなのも見たりするんですけど」
 何が見えても気にしない、関わらない、だから何かを見た後に起こった事象と、紐付けるようなこともしない。黒っぽいモヤモヤを見た場所で交通事故が起こったときに、そういえば見たな、とは思っても、アレが事故の原因だったのか、警告だったのか、それとも事故とは関係ない別の何かだったのか――考えてもわかるものではないので追及しない。物見の力をコントロールできない颯太は、地元にいた頃はずっとそうやってやり過ごさなければならなかった。
 稲葉先輩の足元に渦巻くドロドロが、先輩の命に係わるのか、そうでないのか、颯太にはわからない。そういうことがあるかもしれないし、ないかもしれない。ただ、颯太自身の基準における『良くない』何か。だから心配なのだ。
 家業としては褒められたものではないのだろうが、今の颯太は、見て見ぬふりをしたくない。
 高宮さんは、そうか、と呟き、それから缶コーヒーの残りをあおった。空になった缶を掴み、立ち上がる体で椅子を後ろに引く。話はおしまい――颯太も慌てて、残りのカフェオレを飲み干す。ホットで買ったが、もうすっかり冷たい。
「あいつの心配してくれてありがとな。って、オレが言うのも変か」
 高宮さんが歯を見せて笑う。が、颯太は別に何とも思わない。高宮さんと稲葉先輩は兄弟みたいな関係なんだなと颯太は思っていたし、一人っ子で、おまけに年の近い友達が全くいなかった自分には眩しく見えた。素直に、いいな、と思っていた。それに、
「や、その、すみません。オレの方こそ、急に――こんな」
 『変』だというなら自分の方だ。『見える』というのが颯太にとって当たり前の日常でも、世間一般にとってそうでないことは十分承知している。この相談は『思い切り』が必要だった――御木本さんのメッセージが、背中を押してくれた。
 だから、高宮さんが思いのほかまともに受け取ってくれたことに、颯太は少なからず驚いている。

 2

「――あの、」
「うん?」
 腰を浮かせかけていた高宮さんが、再び颯太に向き直る。こんなことに時間を取らせてしまって申し訳ないな、とは思うが、尋ねずにはいられなかった。今日の本題は稲葉先輩と彼女のドロドロの話で、高宮さんにしてみたら何の関係もないのは承知の上で、
「高宮さんは、信じてくれる、んですか。その、……オレの。なんで、っていうか、その」
 言葉を募らせながら手のひらがじわりと汗をかく。どうせ信じていないのだろうと疑っているみたいに聞こえたらどうしよう、違う違う、言いたいのはそういうことじゃない。
 地元ではみんな倉坂の家を避けた。それはなぜか? 信じていようとなかろうと――どう思っているかなんて確かめたこともないし、それはどっちでも同じこと――、自分たちには見えないものが『見える』という薄気味の悪さ。それが唯一にして無二の理由だった。
 高宮さんの反応は、あの頃の周りの人たちと何もかもが違った。それが不思議だったのだ。
「なんで、ってか」
 高宮さんはぽつりと呟き、しばし考え込むように視線を落とした。右手でつかんだコーヒーの空き缶を、手持無沙汰にテーブルの上で弄んでいる。
「――正直なところは、よくわかんねえ。その、見えるとか見えないとかいうのは」
 高宮さんが言った。よくわからない――そう、それが颯太の予想していた反応だった。でもな、と高宮さんが続けた。
「それが嘘だったとして、お前がそんなことする理由が思い当たらねえし、――大体お前、嘘つけねえだろ? すぐ顔に出るし」
 一瞬考えこんで、
「……え!?」
 思わず声のボリュームが上がってしまう。唐突の指摘。ハッと気が付き厨房の方を伺うが、店長は振り向きもせず包丁をふるっている――その視線はテレビに釘付けのようだった。危なくないのだろうか、とほんの一瞬思ったが、その思考はすぐに遠くに飛んで行く。
 思ってもみない言葉が心外だった。
 嘘がつけないのは『物見』に関する事柄だけで、これについては今初めて高宮さんに打ち明けたのだ。
「そ、そんなことない、と思いますけど」
 幾分か声を落として抗議すると、高宮さんはぼそりと言った。
「初めてここのメシ食ったときのアレとかどうなんだ」
 えっ、と呟き、すぐに思い出す。
 この店でアルバイトをすることになったとき、どんな料理出す店か知っててほしいから、と店長がごちそうしてくれた麻婆豆腐定食。泉川飯店の昼の一番人気メニューだと高宮さんは言った。麻婆豆腐とライス、卵スープと千切りキャベツのサラダで五百円。安い。ライスとサラダは食べ放題なのでなおさらだった――その白飯が、美味しくなかったのだ。
 地元がそこそこの米所であるせいか白米は一粒たりとも残さない家で育った颯太は、食べきる自信はない中で、それでも何とか完食した。おいしかったです、ごちそう様でした、と手を合わす颯太に向かってすかさず店長が言う、好きなだけおかわりしていいよ、ライス。その瞬間の颯太の顔を見て、高宮さんは思わずといった体で噴き出した――頑張ったな、オレも最初は結構無理した。
 いやもうおなか一杯です、とごまかすつもりだったのに、うっかり『そういう顔』をしてしまったのを、高宮さんは見逃さなかったのだ。高宮さんの地元も米農家が多い地域なのだという。うちで食ってた米、旨かったんだなあ、と高宮さんは言った。
 店の名誉のためにフォローをしておくと、泉川飯店は質より量、元々そういうスタイルでやっていて、支持者も多い店だ。グルメサイトの評価も悪くない。白飯はともかく主菜はちゃんと美味しい。うちは身体使って働いてるお客さんが多いからね、とにかく安くて腹いっぱいになる飯を出すわけ。だいたい定食なんてみんなおかず乗っけて食ってるからライスの味なんて誤差だよ、誤差――店長の言う『どんな料理を出す店なのか』を、身に染みて理解したあの日。賄いで食べているうちに、今ではすっかりその味にも慣れてしまったけれど――それはさておき。
「……あっ、あれは……、」
 確かにあのときの颯太は無防備だったが、顔に出てしまったのはうっかりだ。でも、だからと言って一事が万事顔に出るわけではない。ない、よな? 出てるんだろうか。急に不安になる。高宮さんがニヤリと笑った――もしかして、今のも顔に出ていたのだろうか。瞬間的に、頬が熱くなった。
「まあ、だから。倉坂が真面目な顔で『見た』ってならそうなんだろうし、良くないものだって言うなら、それもそうなんだろって思っただけ。オレの方にも、稲葉の『彼女』については、そういうこともあるかもなって思い当たるところがいくつかあって、信じるに足る条件が揃ってた。見えるとか見えないとかじゃなくて、お前を」
「オレを、……ですか」
 高宮さんは、うん、と頷き、それから少し考えて、続けた。
「さっきの、倉坂の親父さんの話で言うなら――お前の持ってるもんは包丁かもしんねえけど、お前は振り回すようなやつではないって知ってるからな。要するに、誰がそれを持ってるかってことだろ」
「……、」
 高宮さんの言葉を、頭の中で反芻する。
 見えるとか見えないとかじゃなくて――オレを、信じる。
 誰が包丁を持っているか――オレだから信用してくれたのか、高宮さんは。
 さっき一瞬頬を染めた熱が、じわじわと広がっていく。胸のあたりに迫るような、体中を血が駆け回るような、これはたぶん、喜びだ。
 そういう『理解』の仕方があることを、颯太は今、生まれて初めて知った。
 倉坂家の人間である、ただそれだけで、周りからは距離を置かれてきた十九年間――高宮さんは、家や血筋の話を聞いてもなお、颯太という個人だけを見て判断してくれた。物見の力の有無や真偽ではなく、颯太自身を信じてくれた。
 それが、ただ素直に嬉しい。
「……、あの、ありがとう、ございます」
 背筋を正し、椅子に座ったまま頭を下げる。顔を上げると、高宮さんは一瞬、困ったような顔をして、
「礼言われるようなことじゃねえけど、――まあそれを言ったらお互い様かもな」
 と呟くように言った。
「えっ」
 颯太が訊き返すと、高宮さんはふうっとゆっくり息を吐き、颯太の目をまっすぐ見返して続けた。
「――お前だって、気付いてるだろ。オレの家のこと」
 高宮さんの家のこと――稲葉先輩がいつもふんわりと言葉を濁すから、あまり気にしないようにしていた。深く考えてはいけないような気がしていた。だが、笑顔は優しいがスキンヘッドで眉毛がなくてどこか迫力があり、夏でも半袖の服を着ない店長が、高宮さんのお父さんに世話になった、というような話を聞くと、深く考えなくても察せてしまう、ということは、確かにある。
 ――だからって、別にどうということはないけど。高宮さんは、高宮さんだし。
 と、口を開きかけて、高宮さんのちょっと照れたような笑顔に気付いて、言葉を飲み込む。
「倉坂の実家とは違う意味で、ウチも普通ではないからな。けど、気付いてたって、こうやって相談とかしてくれてんだろ」
「それは、だって」
 家とか関係ないじゃないですか、と言おうとして、颯太は高宮さんの言葉の意図に気付いた。うん、と高宮さんは頷く。
「――同じなんだろなって思ってるよ、オレは」
「――同じ、」
「うん」 
 実家がどうとか、血筋がどうとか――そんなことは、関係ないのだ。
 高宮さんも、颯太も、実家から遠く離れたこの街にいる。この街で出会った。出会ってわずか半年でも、この街で紡いできた新しい関係がある。颯太は、散々迷った結果ではあっても、高宮さんを信頼できる人だと思ったからこそ相談したし、たぶん高宮さんも、信じられる相手だと思ってくれている。
 あいつもそうなんだよ、と高宮さんが笑った。稲葉先輩――高校時代のことは詳しくは知らないが、先輩が底抜けにお人好しな笑顔で高宮さんに話しかける、そんな姿は容易に想像ができた。稲葉先輩はそういう人なのだ。 
 胸のあたりが熱い。この街に来てよかった。先輩たちに出会えてよかった。高宮さんに、相談してよかった――物見の話をすれば距離を置かれるかもしれない、嫌われるかもしれない、そう思っていた自分が恥ずかしく情けない。
 はあっ、と深く息を吐く。
 それならばなおさら――稲葉先輩は、高宮さんにとって、もちろん自分にとっても、大事な友達だ。稲葉先輩に何か『良くない』ことが起こるのならば、それは絶対に阻止したい。
「まあ、探る――ってほどのことではないけど、オレも様子は見とく。もし、稲葉のまわりでまたなんか見えたりしたら、教えてくれよ」
 高宮さんがそう言って、ようやく立ち上がった。颯太もつられて立ち上がる。
「はい。あの、オレも、稲葉先輩のこと、気にしておきます」
「おう」
「ありがとうございました、その、遅くまですみません」
 ちらりと店の時計に目をやる。時刻は十時半をとっくに回っていた。
「別に気にすんな。お前こそ、気を付けて帰れよ。地下道んとこ、最近妙なガキが溜まってることあるし」
「はい」
 仕込みの間に場所を提供してくれた店長にも挨拶をして、颯太は店を出た。

 
 3
 
 高宮さんの言う通り、出勤時に通るアンダーパスに、ちょっと荒っぽい感じがする中学生くらいの男子が複数人でたむろしているのは見たことがあったから、それ以来颯太は、バイトの帰宅時は南側の踏切まで迂回して旧街道に出るようにしている。
 自分が店長や高宮さんのような外見ならばそんな心配もないのだろうが、自他ともに認める小動物タイプが身を守るには、危険なにおいがする場所には近づかないのが一番だ。颯太は人が好きだし、彼らがあの場所に集うのには何か理由があるのだろうとは思うけれど、それはそれ、これはこれ。
 ――稲葉先輩が身を守るには、近づかない、わけにはいかないよな。だって彼女なんだもんな。
 ――高宮さんのアレは、優しいっていうより、何だろうな。漢気とか、そういうやつだな。
 そんなとりとめもないことを考えているうちにマンションに着く。外から見たとき、隣の部屋の灯りは消えていた。稲葉先輩のアルバイト先は居酒屋だから営業時間も長く、帰宅は颯太より遅い。
 自室のドアを開けながら、さっきの高宮さんの言葉を反芻し、思わず、へへ、と笑ってしまった。
 ――思い切って相談してよかったです、御木本さん。
 明日はバイトのない日だが、学校が終わったらエニシに行こうと颯太は思った。御木本さんに会って、ちゃんとお礼を言おう――強く決意しないと実行に移せない。
 注文以外、緊張してろくに話せないのは四月からずっと相変わらずだ。一方、そんな颯太にも、御木本さんはいつだって優しく接してくれる。もちろんそれは颯太に対してだけではない、店の客には誰でも――だから御木本さんはすごくモテる。見た目も態度も仕草も雰囲気も、好ましく思っているのが颯太だけでないのは明らかだ。老若男女、彼と話す客の表情は明るく楽しげで――だから余計に自分の不審さが際立って思える――この店には御木本さんとおしゃべりするために来ているのだと言わんばかりの人さえいる。だから、颯太が彼に向かって話しかけられるタイミングと言えば、注文の品を受け取るときの一言二言くらいしかない。
 それでも、明日は絶対――不意に思い出した。昨日神社で引いたおみくじには、『信心怠らず人に尽くして吉』のほか、こうも書かれていたのだった――『恋愛 積極的にせよ』。
 それは昨日の本題ではなかったが、メッセージは受け取る側の解釈の問題、だ。昨日のおみくじが、稲葉先輩のことを高宮さんに相談するかしないか、それだけに全振りしたものでなければならない理由は、どこにもない。
 ただ好きでいるだけで、それ以上の発展を望むわけではない――それは自分から話しかけられない言い訳だけではない。望んだとして、御木本さんの恋愛指向は知らないから迷惑をかけることになる可能性も高いし、それは颯太だって避けたい。御木本さんに恋人はいない、というのは、少し前に店で客の誰かと御木本さんが話しているのを盗み聞きして――もとい、聞こえてしまったので――知っているけれど、それが本当かどうか、あるいは今現在もそうなのかはわからない。だいたい恋人がいないからといって、あれだけいろんな人から好かれているのを目の当たりにしていれば、自分にも目がある、なんて楽観的には思えない。
 けれど、もっと普通に話したりしてみたい、とは思う。せめて、他の人と同じくらいには。だから、明日は頑張って、いつもより積極的になろう――積極的、なんて、これまでの颯太には存在しない言葉だった。
 
 稲葉先輩と彼女のドロドロについて、実際のところ何一つ解決はしていない。だが、高宮さんに相談する前に比べたら、颯太の気持ちははるかに軽くなっていた。
 それで初めて気が付いた――知らぬ間に抱え込んでいた重石の大きさ。人が好きだという気持ちの裏側に、けれども確実に根を張っている、『わかってもらえないだろう』という不安。実家にいるうち大事に育ててしまった、十九年物か、なんて。

魔法使いの初恋《第四章 舫綱 もやいづな 》≫

※こちらは2022年8月13日発行の同人誌『魔法使いの初恋』のサンプルです。