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魔法使いの初恋 第二章

第二章 《フォーチュンコーヒー》

 1

「あの、あの……今日は、これ……で、お願いします」
 カウンター上のメニューを指差し、颯太はやっとの思いでオーダーする。指の先には、人型に切り抜かれた御木本さんの写真。『幸運をつかむための、ちょっとした遊びゴコロ』――フォーチュンコーヒーである。
 これまで試したことがなかったのは、単純に『いつもの』ではないメニューを頼むのが心理的に難しかった、というのが理由のひとつである。マンションの食堂だって学食だって、他の店なら注文くらい何の問題もないのに、なぜかここでだけは――この人の前だけは。
 カウンターの向こうで微笑むカフェ・エニシの御木本さんは、一瞬、おっ、という表情を浮かべて、それからにこりと微笑んだ。
「はい。他にご注文はございますか?」
「あ、い、いえ」
 ただ応えるだけなのに、言葉がつっかえる。これは今日に限ったことではないから、いつもいつも恥ずかしい――が、御木本さんが、ふふ、と笑う、その声の温度、そろっと見上げたときに浮かべている表情に、緊張と焦りで凝り固まった肩のあたりが、ふっとほぐれる。大丈夫、と言われたような気になる――そして勝手に安心する。
 フォーチュンコーヒーのオーダーは、いつものブレンド、プラス百円。オプション料金である。
 そういうメニューがあるのは知っていたし、注文している人を見たこともある。どういうオプションであるかもわかっていて、『もしかしたら本物かもしれない』、でもまさか、と思っている――それが、これまで注文したことがなかった、もうひとつの理由。
 そして、だから今日、フォーチュンコーヒーをオーダーしようと決めたのだ――まさか、だけど、もしかしたら、だから。

 カウンターの背後、コーヒーマシンに持ち帰り用のカップをセットしてボタンを押す、合間合間に客席に目をやり、立ち上がって帰る客に声をかける、番号を呼び出しキッチンで上がった軽食を手渡す、マシンが止まるのと同時にカップを取って、蓋。それを手に持ち、御木本さんが受け渡しカウンターにやってくる。
 よっぽど混み合っているときはキッチンから店長も出てくるが、颯太が知る限り、御木本さんが店にいるときのカウンター業務は基本的に彼のワンオペだ。
 お待たせしました、と彼は言って、近くに立ててあるペンと、カップスリーブを手に取った。一瞬じっと颯太の目を見て――心臓がドキンと弾んで、颯太はテーブルにそろえた指先をきゅっと握りしめた。こっそり盗み見ているときは結構ガン見しているが、まともに目が合うことはそんなにないから恥ずかしい、照れる、緊張する。だが、今日の颯太は頑張って目をそらさないようにした。御木本さんはおもむろに、スリーブへ何かを書きつけた。
 カチ、と音を立ててペンのキャップを閉め、御木本さんの長い指が、スリーブをつけたコーヒーカップをカウンターにすっと滑らせる。その間、およそ三十秒。
「お待たせしました」
 颯太は両手でカップを受け取る。指先から伝わる熱、漂う芳香に、思わず頬が緩む。コーヒーなんて以前は全く飲まなかったのに、この店で初めて香りを楽しむことを知った――それで、顔がこわばっていたことに気付く。
 ちらりと手を開き、フォーチュンコーヒーの『メッセージ』を見た。
 そのまま何かのポスターにでも使えそうな、デザインっぽく整った優しい文字。一瞬で認めて、ドクンと心臓が跳ねた――ああ、やっぱり、そう、なのかな。
 今日、頼んでよかった。あの日、この店に立ち寄ってよかった。御木本さんに出会えてよかった――いや、きっとそういう運命だったんだ。居心地の良い店と、美味しいコーヒーと、御木本さん。『良い』と思えるものが、この街にはあふれている。颯太はそれが嬉しい――だからやっぱり、『そうするのがいい』。
「あり、がとうございます」
 颯太は顔を上げて、御木本さんの目を見て言った。緊張や恥ずかしさよりも、メッセージに対する感謝が勝った。
 御木本さんはまた、ふふ、と優しく笑って、
「バイト、頑張ってね」
 いつものように一言、声をかけてくれた。
「はい」
 特別というわけではない、常連に限らず客相手なら誰にでも見せている笑顔だ、というのはわかっている。けれど特に今日は、悩みすぎて疲れた心に沁みた。胸のあたりがぎゅっと苦しい、だけどしみじみ暖かい。好きだ、と思う。頬の熱を感じながら、へどもどと頭を下げて颯太は店を出た。

 十月も半ばを過ぎたこの頃、日が暮れるのはずいぶん早くなった。
 バイト先に向かって、夕暮れの旧街道を南に歩きながら、颯太はもう一度手の中のカップにちらりと目をやる。『フォーチュンコーヒー』、幸運を掴むためのメッセージ。
 ――やっぱりこれ、『本物』かも。
『困ったら、思い切って相談するのも大事。』
 踊るような駆け抜けるような、御木本さんの文字。
 まさに今、颯太は困っていた。相談するかどうするか――その最後の判断を、フォーチュンコーヒーに託したのだ。
 メッセージの意味するところは『受け取る側』の解釈の問題――だが、同時に『伝える側』に働きかける『力』も当然ある。颯太はそれを知っている。
 御木本さんて、もしかしたら本当に何か『見えている』のかな――もう一度、手の中のカップに目をやって、それから一人、うん、と頷く。
 兎にも角にも颯太は今日、『思い切って相談する』決意を固めたのだった。

 
 2

 時間を少し遡る――。
 大学生活始まって最初の夏休みはあっという間に終わってしまい、季節は早くも秋である。前期の科目はつつがなく単位を取り、後期の授業が始まっている。
 
 この夏、颯太は実家に帰らなかった。と言ってこちらに何か特別な用事があったわけではない。倉坂家の年中行事は盆よりは正月の方が忙しく、年末にはどうしたって帰省しなければならない。交通費だって安くない。それなら、せっかく地元を離れたばかりなのだから、違う街で違う空気の長い休みを満喫しなければもったいないと思った――が、実際のところはもっと明確な下心があった。要するに、実家と御木本さんを秤にかけたのだ。
 バイトを増やし、エニシに立ち寄り、近くの観光スポットに足を運び、博物館の特別展を見て、エニシに立ち寄り、申し込み制の特別講義を受け、エニシに立ち寄り――概ね充実した一ヶ月半は矢のように過ぎていった。
 開放的な、としばしば言われる夏を過ぎ、十月初めの創立記念日に合わせて開催される大学祭を終えても、颯太の身の回りは相変わらずだった。一夏の冒険も火遊びも何一つない、極めて清廉、かつ真面目な大学生活――つまり、相変わらず、カフェ・エニシの御木本さんとは何も起こりようがなく、何も知らないままの片想いだし、百人とは言わないまでもたくさんできたらいいなと夢見ていた『友達』は、ほとんどいない。
 高校までの間――外から眺めているだけなら、みんな当たり前のように友達同士で誘い合って遊びに行ったりしていたが、渦中にいるとそういう関係を作るのは案外難しいものなんだな、と颯太は今更そう思う。友と呼び合うような親密な関係に憧れる一方、そういう付き合いをしてこなかったゆえの経験不足が影響しているのかもしれなかった。
 例えば、基礎演習や必修科目のクラス。
 グループ発表で一緒になったクラスメイトとは普通に話すし、打ち合わせの必要があるから連絡先も交換している。他の授業で会えば挨拶もする。ときには雑談の輪にも加わる。だが取り立てて面白い話題を提供できるわけでもないし、どちらかと言えば、みんなの話を聞いている方が楽しい。颯太が何か言うこともないし、話そうとすればその前に話題はどんどん変わっていく、そのテンポに、颯太はまだ――一年も後期に入った今ですら――ついていけない。
 だいたい彼らは彼らで、授業よりもサークルの仲間と交流を深めるのに忙しい。颯太もサークルや部活動、委員会にでも参加していればまた環境は違ったのだろうが、入ろうと思っていたボランティアサークルは五月の初めに辞めてしまって、以降少し、心が折れている。
 もともと一人で行動することは苦にならないタイプなので困ることは何も無いし、実の所、友達ゼロ、というわけでも無いので、そんなものかなと最近の颯太は悟ったような気持ちでいる。大学に入る前は、友達がたくさんできたらいいなあ、なんてふわっとした期待を抱いていたけれど、自分はそもそもそんな幅広い付き合いができるタイプではなかったのかもしれない。
 ずっと夢に見ていた――もっと簡単にいろんな人と仲良くなれると思っていた――友達、という存在が、実家を離れてさえ自分には遠いのか、という、少し残念な気持ちはある。だが今は手の届く身の回りのことだけで精一杯。まずはその関係を大事にしよう、と颯太は思っている。

 颯太の数少ない貴重な友達の一人は、颯太の住む学生マンションの隣に住んでいる、同じ大学の一学年上の先輩である。
 『先輩』を『友達』と呼んでもいいのだろうか、と颯太は思ったが――何しろ、高校まで部活動すらまともに参加したことがないので、先輩という存在が近くにいた試しがないのだ。隣家の幼なじみは七つ年上だったが、そもそも先輩と呼ぶ対象だとは思っていない――、相手が颯太を友達だと言ってくれたので、颯太もそう呼ばせてもらっている。
 隣人は名前を稲葉という。
 響きから連想してしまうせいか、その顔つきも相まって、彼に対する颯太のイメージはウサギである――そういう颯太はこの先輩にイタチかオコジョ、と言われたことがある。見た目と体格、共に小動物寄りなのはお互い様だ。
 マンションの食堂で開催された新入生歓迎会で初めて顔を合わせ、話をしているうちに――緊張して口数の少ない颯太に、気を遣って話しかけてくれたのだ――、同じ学部、同じ学科の先輩であることを知った。
 その後、お互いここから遠く離れた地方の出身であることや、二人とも似たような理由で同じサークルを辞めたという経緯があって、なんとなく似たものを感じて、以来仲良くしてもらっている。
 一緒に食堂で昼食をとることもあるし、先輩の部屋に誘われてゲームをしたり映画を見たり、颯太の買い物に付き合ってもらうこともある。夏休み、山間部の観光スポット――境内の滝が有名な神社――にも一緒に行った。先輩の交友関係を颯太は知らないが、自分に構ってくれることが時々申し訳なくさえ思えて、付き合ってくれてありがとうございます、と言うと、オレも行ってみたかったからさ、と颯太が気にしないように笑ってくれる、そういう人だ。
 サークルを辞めて暇を持て余していた颯太に、今のバイト先を紹介してくれたのも稲葉先輩である。颯太の話を聞いて、先輩はすぐに電話で問い合わせてくれた――オレの『友達』がさ、今バイト先探してるんだけど。お前の行ってる店、人足らないって言ってなかったっけ?
 あのとき、あれ、どうしたの、顔真っ赤だよ、と、先輩は通話で求人の確認をしながら颯太の顔を見た。友達と呼ばれたのが嬉しかったのだと正直に打ち明けたら、先輩は一瞬真顔になって、それからやおら手を伸ばし、颯太の背中をバシバシ、と二回叩いた。友達だよ、倉坂は、と、稲葉先輩はもう一度、笑って言った。
 丸い眼鏡が良く似合っていて、穏やかな人の良さが滲み出ている。
 親切で、思いやりがあって、とてもいい人。
 その稲葉先輩が、この秋――大変なことになってしまった。

 3

 正確に言えば、大変なことになるかもしれないものを、颯太が見てしまった。
 またもや、コントロールできない颯太の物見が発動してしまったのだ――よりによって、稲葉先輩の『彼女』に対して、である。

 普通の人には見えない『何か』――キラキラ、モヤモヤ、ドロドロ――が見える、という颯太の体質。
 颯太の父はもっと明瞭に見分ける。心が見える、過去が見える、未来が見える、オーラが見える、霊が見える――世間一般でそんな風に言われるような、超自然的で非科学的な何かを、視覚によって捉える。倉坂家では、物見、と呼ぶ。
 颯太はまだ修行に手を付けていないから、意図的に見ることはできない。子供のころまでは頻繁に見えていたキラキラやドロドロは、高校の頃にはすっかりなりを潜めていたのに、ここへきて急に頻繁に視界が切り替わるようになった。
 カフェ・エニシの御木本さんを前にして、初めて人相手に物見――キラキラが見えたのが四月のはじめ。
 四月の終わりごろ、颯太が参加を決めたサークルの幹部メンバー間にドロドロになりかけているモヤモヤが見え、颯太は耐えきれず五月の連休明け早々サークルを辞めた。
 夏休み、普段は週三日のシフトを五日に増やしてもらったところ、常でない曜日にやってきた客の一人がモヤモヤして見えた――颯太はなるべく目を合わさないようにしていたが、バイトの先輩が配膳した瞬間大声で因縁をつけ始め、ほかの客にも絡み始めて警察沙汰になった。
 この頃ようやく、最近起こる物見は『人』ばっかりだな、と気付いたのだが、それはさておき――稲葉先輩に関係するドロドロを見てしまったのは、わずか三日前、十月十七日のことである。

 *

 颯太がバイトから戻ってきた午後十時前、マンションの階段を上がって共用廊下に出たちょうどそのとき、稲葉先輩が部屋から出てくるのに行きあった。
 相手が御木本さんでなければ――それもどうかと思うのだが――挨拶くらいは普通にできる。声をかけようと口を開いた次の瞬間、ひえ、と声が漏れそうになったのをなんとか堪える。
 先輩の部屋のドアから、真っ黒な『ドロドロ』が流れてきたのだ。
 顔に出さない努力はしていたが、まさかこんなところで――自分の家のすぐ隣で、こんな『惨状』を目にするとは思ってもみない。
 颯太に気付いた先輩が、いつものように丸い眼鏡の奥で目尻を下げて、おう、おかえり、と手を挙げる。先輩の目には、当然何も見えてはいない。
 その背後から、黒く長い髪を緩やかに巻いた、黒いワンピースを着た女の人が顔を出した。先輩について部屋から出てきたのだ。あろうことか――部屋からあふれ出し先輩の足元に絡みついているドロドロは、その女の人から湧き出ている。
 颯太の直感が告げる――これは、『良くない』。
 見たくないのに目が離せない。ハッと気付いて颯太が慌ててこんばんは、と頭を下げると、女性も会釈を返してきた。顔を起こしたその口元はにこりと笑っていたが、目つきはまるで値踏みするみたいに颯太を見ている。えっ、怖い。こんなの、ドロドロがなくたって怖い。
 『人』に『何か』が纏わるのを見たのはこれが初めてではないから、驚きというのはあまりない。感じるのは、それを遥かにしのぐ恐怖――人を憎んだり嫌ったりはしない颯太でも、怖いのは別である。
 颯太たちの住む学生マンションは、フロアで別れてはいるが男女共用。門限もないし、性別に関わらず友人の来訪や宿泊にも特に決まりはない。黒いワンピースの女の人は、颯太の知る限りマンションの住人ではない――なら、これは稲葉先輩の友達、あるいは、彼女。
 颯太の表情から何かを察したのか、稲葉先輩は、へへ、と照れ笑いを浮かべて、
「ちょっと、出てくる」
 颯太に告げた。いってらっしゃい、と務めて平静を装って颯太が答えると、稲葉先輩は女の人に向かって、
「サエちゃん、行こう」
 と笑顔で声をかけ――二人は連れ立って、階段へ向かって歩いて行った。重そうな見た目とは裏腹に、ドロドロは音もなく滑るように二人の足元に付き従って廊下の角を曲がり、やがて消えた。
 視界が切り替わったのか、ただ颯太の目の届く範囲からいなくなっただけなのかはわからない。だが、ドアの前、廊下の先、あたりを見回しても、ドロドロの気配はもうない。
 颯太は自室に駆け込んで急いで鍵をかけ、それから荒い息を吐く。心臓がドクドクと音を立てている。先輩は彼女を送っていったのか、それともコンビニかどこかに買い物へ出て、また二人で戻ってくるのか。あのドロドロを連れて――不穏な動悸が止まらなくなった。

 実家にいた頃は、何が見えても気にしない、関わらないように言われていた。
 キラキラ輝く辻のお地蔵さん。
 他所のガレージに停まっている車の、バンパーに広がる黒いドロドロ。
 新しくできたコンビニを覆うモヤモヤ――子供の頃はまだ、『人』ではなく『もの』ばかり。
 だけど、それは颯太にはどうしようもない。だから、気にしてはいけないし関わってもいけない、相手に伝えてもいけない。
 頼みもしないのに、勝手に覗き見てることにもなるしね――物見をコントロールできない幼い颯太に向かって、父も母も祖父母も、みんなそう言った。
 倉坂家の家業が公然の秘密だった地元でも――つまり、そういう能力で見たのだと知られていても――そうだったのだ。この街に、物見を知る者はきっと一人もいない、だったらなおのこと、何が見えようが話すべきではない、何も見えていない本人のためにも――と、頭ではわかっている。
 だけど、気持ちの上ではそうはいかない。
 稲葉先輩はいい人で、颯太の数少ない大事な友達だ。そして『ドロドロ』は、颯太の価値観として『良くない』もの。
 もしあのドロドロの原因が、先輩を害するものだったとしたら。先輩が傷つくことになったとしたら――自分は気付いていたのに、と、後悔することになるのではないか。
 それから三十分ほどして、颯太は隣の部屋のドアが開く音を聞いた。足音は一人分、先輩だけだ。人知れずホッと安堵の息を漏らす。先輩に付きまとってはいたが、ドロドロはさっきの女の人に関わる何かだ。離れていれば先輩には害はないだろう――たぶん。

 *

 翌朝、颯太はマンションの食堂で先輩を待ち伏せて――タイミングよく居合わせたふりを装って、朝定食を食べながらそれとなく尋ねた。
「あの、昨日のはもしかして、彼女さん、ですか?」
 稲葉先輩は嬉しそうに相好を崩し、一応ね、と答えた。
「もともと、バイト先のお客さんでさ」
 先輩は国道近くの居酒屋でアルバイトをしている。彼女は近隣女子大の学生で、前から何度か店に来ていたのは知っていた。向こうから連絡先を聞いてきた。やりとりをしているうちにそういう雰囲気になって、付き合いだしたのがつい先週のこと――だそうだ。今はお試し期間らしく、だから『一応』なのだと先輩は言った。
 『彼女欲しい』が口癖になっていた先輩に、そういう相手ができたこと自体はめでたいし、そこには何の不思議もない。稲葉先輩は本当にいい人で、たぶん寂しがり屋なのだ。
 しかし、だったら余計に、昨晩目にしたドロドロのことが気にかかる。
 付き合い始めたばかりだったら、お互いに気持ちも弾んで、いわゆる幸せオーラのようなものがキラキラして見えるのならまだわかる。昨日見たのはドロドロ――あんな風に良くない何かが付きまとっているのはなぜなのか。
 先輩の表情を見ても、彼女の存在が先輩を害しているようには思えない。
 ハッと気が付き、いや分からないぞ、と颯太は考え込んだ。颯太が『良くない』と思っても、当事者にとってはそうではない、ということ――そう、例えば、愛情表現として痛みを伴う場合、とかさ――と、知ったかぶりで思いついてしまって、思わず焦る。そういう方面には疎い颯太による、あくまでもイメージの話。
 良くないものだと思うのは、あくまでも物見の主である颯太の基準だ。メッセージは、受け取る側の解釈の問題。彼女の視線を値踏みされたように感じたのだって、一緒にドロドロが見えていたせいかもしれないし。
 颯太は思わず頭を抱える――そんなの、どうやって確かめればいいんだ。
 こんなに嬉しそうに、はにかみながら彼女のことを話す先輩に、『自分にとっては良くないと思うものが見えたが心当たりはあるか』なんて、聞けるわけがない。そもそも確かめても良いのだろうか? 仮定のような状況がもしあったとしたら、それは颯太の知らない先輩の内面に踏み込んでしまうことにもなる。
 颯太は人が好き――それは相手を尊重するということでもある。
 黙り込んでしまった颯太に向かって、先輩は、あ、と思い出したように言った。
「――あいつにはちょっとだけ内緒にしといてくんないかな。お試し、終わったらちゃんと言うから」
「えっ……、あ、はい? あっ、」
 あいつ――そうだ、高宮さん。
 あの人なら、と腰を浮かしかけて、すぐに座りなおす。何してんの、と稲葉先輩が笑う。なんでもないです、と笑ってごまかした。ダメだ――内緒にしといてくれと、たった今言われたばかりだ。
 しかし、相談するなら彼しかいない。どうしてすぐに思いつかなかったのか。
 
 稲葉先輩と颯太の共通の知人はそれほど多くない。せいぜいマンションの同じフロアの住人や食堂のおばちゃんくらい、それもあくまでも『知人』レベルだ。
 そこで、高宮さんである。
 高宮さんは、稲葉先輩の同郷の友人で、高校からの付き合いだという。地元を離れたいという稲葉先輩を高宮さんが誘って、この大学を一緒に受験したのだと聞いた。そして、颯太にとってはバイト先の先輩。要するに、稲葉先輩が颯太に紹介してくれたのが、高宮さんの働く店だったというわけだ。
 高宮さんなら、稲葉先輩のことをよく知っているし、いつも気にかけているのを颯太は見ている。稲葉先輩に何かあったらと心配する颯太の気持ちは、わかってもらえると思う。高宮さんには内緒にしてほしいと先輩からは言われたが、申し訳ないがこれは反故にする。
 だがしかし。
「……あ、」
 高宮さんに相談する自分を想像した、その瞬間、颯太の脳裏に言葉が浮かんだ。
 ――説明義務、や、違うな。『説明責任』だ。『協会ルール』の。

 颯太に必要になるのは、まあまだ先なんだけどな。颯太が高校生の頃、実家の父がそう言ってさわりを教えてくれた、依頼で物見を行う際に守るべきいくつかのルール。父は『協会ルール』と呼んでいた。
 『協会』というのは俗称だそうだが、颯太はその組織の正式な名前を知らない。颯太の実家のような『特殊な能力』を稼業としている人たちによる、互助会とか親睦会とか、そういう集まりだと父から聞いている。父は、というより、倉坂家は代々この『協会』の会員である。祖父に聞いていた他の血統の家系も、同じく協会員であるらしい。
 協会ルールは、その会員が守るべきとされる『倫理的』な決まり事。依頼人に対して虚偽の報告をしないとか、誠実に真摯に対応するとか――その一つに、説明責任という項目があった、ような気がする、いや、確かにあった、それを颯太は思い出したのだ。
 『業務を行う際は十分な説明を行い、同意を求めなければならない』――うろ覚えだが、確かそんな文言。颯太の家で言うなら、物見の能力を正しく説明し、理解を得た上で結果を伝えるべき、ということだろう。
 颯太が協会という組織とそのルールの存在を教わったのは高校に進学したタイミングだった。その頃はもうほとんど物見が起こらなくなっていたから颯太も軽く聞き流していたが、――こんなことになるなら、もっとちゃんと聞いておけば良かった。
 颯太はまだ協会員ではないし、そもそもこれはお金をもらうわけではないのだから仕事ではない。だが、能力が発動している以上はルールに準じるべきではないか、と颯太は思った――車の免許を持っていなくたって、公道を通るなら交通ルールは守らなきゃいけないんだし。
 つまり、先輩のお願いを押し切って高宮さんに相談したとして、颯太の見たドロドロの話をするのなら、まず『物見』について説明しなければならない、ということになる。

 ――物見、について、話すのか。
 颯太はこれまで、物見について誰かに説明した経験がない。見たことを人に話してはいけないと言われていたのもあるが、そもそも地元にいた頃は隣近所みんな倉坂の家業を知っていたら、説明する必要がなかったのだ。
 物見の力が、世間一般に当たり前のものでないことはわかっている。これが地元なら、『見えた』で通じる――歓迎されるかどうかは別として。だが高宮さんも稲葉先輩も倉坂の家業のことなんて知らないし、『見える』ということ自体、理解できないかもしれない。颯太の父親が、それとわかって訪ねてくる依頼人に説明するのとは、訳が違うのだ。
 それなら、颯太が見ている、もとい見せられている『何か』に触れることなく、彼女に対する不安を正しく伝えることができるだろうか?
 ――無理だ。
 なぜなら、『黒いドロドロ』それこそが、颯太の不安の全てだからだ。
 日常の些細な出来事ならともかく、物見に関して嘘をついて適当にごまかすということが、颯太には――倉坂家の人間にはできない。これは協会ルールというよりは、倉坂家代々の家訓で、約束事。
 嘘偽りなく話す、または、一切を明かさない、そのどちらかだ。
 とすれば、――全部話すしか、ないよな。自分に見えているドロドロのこと、その理由――『物見』とは何か。
 そこまで考えて、颯太は鬱々とした気持ちが胸の上に積もっていくのを感じた。
 生家で暮らしていた十八年間、近所の人やクラスメートには遠巻きにされてきた。颯太自身が何かしたわけではない、ただ、倉坂の家は普通ではないと知られていたことがその理由だ。結局高校を卒業するまで、学校では親しい友達ができなかった。
 誰も知らないこの街に来て、先輩や高宮さんのように仲良くしてくれる人がいる。ここで自分が『見える』人間である、なんて打ち明けたら、もしかしてまた、距離を置かれたりするのかも――そのことに思い至ったのだ。
「んん……」
 心臓のあたりがぎゅっとなって、颯太は思わずうめいた。これは、本題以前の難問だ。
 向かいの席で焼き魚をつついている先輩が、今度は何、とまた笑った。

 祖父母、両親から、ずっと言い聞かされている。自分たちとは違う何かを恐れるのは人の本能、だから仕方のないことなのだと。恐れの対象が、見えないものを見、聞こえない言葉を聞くようなものであればなおさら。
 ――誰だって、秘密の一つや二つ持っているからね。
 ――でも、仕事じゃなかったら『見』ないでしょ?
 ――『見』られるかもしれない、ってだけでも、怖いもんさ。颯太だって、包丁持ってる人がその辺に突っ立ってたら怖いだろ。
 それとこれとは違うよ、と子供の頃は思ったものだが、今ならわかる。家業として成り立つ程度には必要とされながら、一方で、使い方によっては何かを害し恐怖を与えるもの――そういう意味で、父は物見を包丁に例えたのだ。
 この例えに則して言うなら、物見の力について説明をするということは『私は包丁を持っています』と宣言するようなものだ。
 倉坂の誰もが――颯太も含めて――調理以外には『絶対に』使わない。だがそれは、他人にとっての『絶対』にはなり得ない。
 実家のあたりでの倉坂に対する評価は、言うなれば――カバンの中に包丁を隠し持っているのは知っている、って感じか。だから颯太だって、遠巻きにされるのは仕方のないことだ、というのは理解している。
 マンションの隣人から、あるいはバイト先の同僚から、いつも包丁を持ち歩いていると打ち明けられて、実はほらこれ、と手にしたものを見せられて、怖くない人なんているのだろうか? まして、今の颯太は自分で『見る・見ない』を選べない。だがそれだって説明する必要はある。先輩の彼女のこと、『見よう』と思って『見た』わけじゃないんです――気が付いたら包丁を振り回している状態だと考えたらぞっとする。ただの不審者じゃないか。
 颯太は嘆息を漏らした。
「また。朝から、どうしたんだよ。なんかあった?」
 目の前で少し心配そうな顔をしている先輩に向かって、颯太は慌てて表情を繕った。
「あー……その、今週期限だった課題、一つ忘れてて。あの、今思い出しちゃって」
 そう答えると、そりゃ大変だ、と稲葉先輩は言った。
 物見で見たことに関わる話でないなら、こんなごまかし方、いくらだってできるのに。

 *

 アルバイトのない二日間、颯太は悩み通した。授業の予習も読みかけの本も、まったく手につかない。
 高宮さんに相談するかどうするか――稲葉先輩に良くないことが起こるかもしれない、説明がそれだけで済むなら相談する一択。颯太はただ稲葉先輩のことが心配なのだ。放ってはおけない。
 だが、それには颯太の持っている『包丁』――物見についても説明しなければならない。これは仕事としての物見ではない。それでも、ルールはルール。理由なく定められたものでないことは、颯太にだってわかっている。
 だけど――せっかく仲良くしてくれているのに、仕事を覚えてバイトも順調なのに、また昔みたいに遠巻きにされて、友達もいなくなってしまったらどうしよう。うまくごまかす方法はないだろうか――颯太には考えつかないし、物見について嘘を吐いたり隠したり、ごまかすことはできない。
 実家の両親なら、放っておけと言うに決まっているし、地元で唯一普通に接してくれていた隣家の幼なじみは、何かあったらいつでも連絡して来いよと言ってくれたが、いくら事情を知っているとは言ってもこんな話は困らせるだけだろう。 
 相談するなら、高宮さんに、全部打ち明けるしかない――だから、だけど。
 
 二日目の朝、一限の授業を受ける前に、商店街の先の神社に立ち寄った。参拝を済ませておみくじを引く――『信心怠らず人に尽くして吉』。そうしたいのはやまやまだ、と颯太は思った。稲葉先輩のことが心配で、実際何か問題があって、自分が手助けできるのなら――人に尽くせるのなら、そうしたい。高宮さんに相談するということが、稲葉先輩のためになるのかどうか。
 三日目、昼休みを挟んで三限の授業中も、隙あらば颯太は悩んでいた。幸い、あの日以来稲葉先輩の彼女を見かけることはない。視界が切り替わって先輩の周辺にドロドロが見える、ということもなかった。けれど、明日も見えないという保証はない。
 今日の夜はバイトがある。高宮さんに会う。相談するかどうするか、まだ決めかねていた。
 とりあえず、今日の授業が終わったら、洗濯した制服を取りに一度家に帰って、エニシに寄って――、
「……、あっ」 
 その瞬間思い浮かんだ、カフェ・エニシの御木本さんの顔。
 広い講義室の片隅で、心臓とノートの上のペン先が、ぴょんと跳ねる。
 頭の中の御木本さんが微笑む。接客をしている横顔を盗み見る。店に寄るのはいつもアルバイトの前だから、バイト頑張ってね、と声をかけてくれる。
 途端に胸の内が晴れて気分が上がるのだから、恋の力というのは恐ろしい。一瞬で脳内に、何か知らない良いものが分泌されたような気がする。体温が上がる。それでひらめく――アレだ。フォーチュンコーヒー。幸運のメッセージ。
 バイトの前にエニシによって、御木本さんにコーヒーを頼む。本物かもしれないと噂のある、あのオプションをつける。メッセージの意味するところは受け取る側の解釈の問題、だから、もう絶対、それでどうするかを決める。何が書かれてあっても、無理やりでもこじつけてでも、その意味するところに任せる。相談するかどうするか。
 こんなタイミングで注文することになるとは思わなかった、だけど、こんなことでもなければ頼む機会はなかったかもしれない。
 初めての、フォーチュンコーヒーである。

 4

 そして今日――カップスリーブに書かれた、御木本さんがくれたメッセージは、『困ったら、思い切って相談するのも大事』。
 解釈の余地もなくストレートな一言に、颯太は肚を括った。
 結果的に、高宮さんや稲葉先輩から距離を置かれることになったとしても、目にしてしまった不穏の種から稲葉先輩を守ることができれば、それでいい。この力は、そういうためにこそあるのだと思うから。
 そして現在――十月二十日木曜日、バイトを終えた午後十時の『泉川飯店』で、颯太は高宮さんと向かい合って、テーブル席に腰を下ろしているのだった。

魔法使いの初恋《第三章 信じる条件》≫

※こちらは2022年8月13日発行の同人誌『魔法使いの初恋』のサンプルです。