テキスト

アホの横山とカシコの中田2(3)

(3)横山健琉と中田周の、普通と特別についての問いと解

(20200920改稿)

 *

 小学生の頃、周は日中のほとんどをばあちゃんの家で過ごしていた。周の母親――健琉の母親が由美ちゃんと呼ぶので、由美ちゃんおばちゃんと呼んでいる。周は健琉の両親をおじさんおばさん、母親のことはたまにおばちゃん、と呼ぶ――は、あの頃朝が早かったので、周は由美ちゃんおばちゃんと一緒に起き一緒に家を出て、ばあちゃんちで朝食を食べ、そこから学校に行っていた。放課後はばあちゃんの家に帰り、そこで由美ちゃんおばちゃんの帰りを待つ。夕飯はばあちゃん家で三人で食べたり、由美ちゃんおばちゃんとアパートに帰って二人で食べたりしていた。
 そして小学生の頃の健琉は周と一緒に、毎日のようにここへ立ち寄っていた。上がらせてもらっておやつをごちそうになったりそのままばあちゃん家で遊ぶこともあったし、周は学校のかばんを置いて、そこから健琉の家へ遊びに来ることもあった。健琉がここへ遊びに来たのは、中学一年か二年の頃が最後だったはずだから、三年ぶりくらいになる。久しぶりだ。
 幹線に比べると割合静かな旧街道に東面する、古い金属の小さな門を開け、少しばかり続く石畳の隅に自転車を停める。周の自転車は見当たらないから、家からは歩いてきたのだろう。
 壁に取り付けられている呼び鈴は、音符マークが書かれたチャイムからカメラ付きのインターフォンに変わっていた。ボタンを押すと家のどこかで呼び出し音がなり、はーい、という軽やかな声はスピーカーごしか、それとも家の中からか。カメラに向かってこんにちは、と挨拶をする前に、ガチャリと音を立ててドアが開く。返事をしたのは周のばあちゃんだが、
「おう」
 ドアを開けたのは周。こちらも久しぶりに見る気がする、Tシャツにスエットの――ゆるい部屋着姿。少なくとも『そういう関係』になってからは初めてなので、なんだか眩しい。ほんの小一時間前までも一緒にいたはずなのに、もう嬉しい。こらえきれない笑顔を浮かべて、挨拶を返す。
「よっす」
「早かったな」
「シャワーも着替えも秒ですし」
 貴重な時間は一秒たりとも無駄にしたくない。
 朝に二コマ、昼食をはさんで午後に一コマの特別講座を終え、途中までは周と一緒に帰ってきた。会場の大学は健琉たちの住む町から西の方角にあたり、周の家の方が近い。周のばあちゃんの家は周の住むアパートからすぐなので、
「いっぺん帰って着替えたら、先にばあちゃん家行って待ってるし」
 『待ってるし』。別れ際にそんなことを言われたら、嬉しくなって大急ぎだ。
「――急がんでええから、気を付けて来いよ」
 と釘を刺されたので、音速は諦め普通の速さで自転車を漕ぎ、その代わりシャワーと着替えは烏で済ませ――周に伝えていたよりも十分は早く着いた。
「お邪魔します」
「どうぞ、てオレん家ちゃうけど」
 そんなことを言い合いながら家に上がり込む。
 時刻は午後四時過ぎ。まだまだ炎天下の屋外はどこもかしこも夏真っ盛り、門扉の横の松の木では蝉がジージー鳴いていた。が、家の中へ一歩入るとひんやりしていて心地よい。東向きの玄関だから、エアコンの効果ばかりでもないのだろう。そうそう、真冬は寒いし――そして漂う、よその家のにおい。周のばあちゃん家は、たぶんすぐそばの仏間から漂う線香だ。昔から嫌いじゃない。
 玄関に続く廊下の奥、リビング――というか、いわゆる居間ののれんがパッとはためき、周のばあちゃんが顔を出した。
「健琉くん! いらっしゃい、久しぶりやねえ」
 染めたのかとさえ思うきれいなショートの銀髪、レンズにうっすら紫色のグラデーションが入った細い金縁の眼鏡、大振りなイヤリング――ピアスかもしれない――、どこで買うのか昔から謎だった幾何学模様のカラフルなブラウスにグリーンのロングスカート、が、絶妙なバランスでまとまっている、小柄でやせ型の老婦人。それが周の祖母である。健琉の記憶にある限り、周と健琉が幼稚園の頃からこのテイストは変わっていない。
 健琉は自身の祖母という存在を知らない――二人とも健琉が生まれる前に鬼籍に入っている――し、幼稚園の送迎に祖父や祖母が来ているところが少なかったこともあって、世の『おばあちゃん』と呼ばれる人はこういうものなのだと思っていた。実はどちらかというと規格外であることに気付いたのは小学校も高学年になってからだ。
 にこやかな笑顔には品があるし、声は張りがあって話し方も歯切れがいいし、何より周と一緒に自分まで可愛がってくれるので、健琉は周のばあちゃんが大好きだ。眼鏡をはずすと、目元が周にそっくりで、姿勢のいい佇まいや空気感もよく似ていて――正確に言えば、周『が』似ているのだけれど――それも好きなところ。
「周のばあちゃん! ゴブサタしてますお邪魔しまーす」
「あんたまたそんな眩しいのん着てェ」
「それ! 待ってた!」
 あはは、うふふと笑い合う健琉とばあちゃんの横で、周がまた言うてる、と呆れたような声を上げた――が、語尾が揺れているのは笑っているからだ。服でも靴でも何でも、昔から蛍光色を身につけることが多かった健琉に、あんたはいっつも眩しいなぁ、と声をかけるのがいわゆるお約束になっていて、実は今日もそれを期待して、白地に大きく蛍光カラーのデザインがプリントされているTシャツを着てきた。さすが周のばあちゃん、わかってる――健琉は昔から、周のばあちゃんを『アマネノバアチャン』とまるで固有名詞のように呼んでいる。
「あ、そうや、これうちの母からばあちゃんにて。ぶどう」
 忘れないうちに、母親から言付かった紙袋を手渡す。周のばあちゃん家に行くことは昨日から伝えてあったので、母は今日もパートに出ていて不在だったが、テーブルの上にメモ書きと共に用意してくれていた。
「そんなんええのに」
「んまー、気ぃ遣わんで」
 言葉は違えど、孫と祖母の言葉がハモる。やっぱり、よく似ている。
「ちょっとやけどって」
「どこがちょっとやの、えらい重たいで。お母さんによう言うといてね、ありがとう」
 しみじみとそう言いながら、ばあちゃんが紙袋を掲げてちょこんと頭を下げた。手土産だのなんだのという心遣いは、まだ健琉には思いつけない。母親はたぶんそういうことが好きな性格で、おかげで今、ちょっと鼻が高い。
 
「周、冷やしとくさかい、あとで頂き。すぐでもええけど、冷たい方がおいしいやろ」
「いや、後でいいわ、てか晩御飯の時でええんちゃう。ばあちゃんにてもろてんやし」
「そうか、ほなお持たせでアレやけど、デザートにさしてもらおか」
「うん。てかもう行くんやったらやっとこか? 遅なったら雨降るかも」
「そうか? ほなしといてもらおかな。洗わんでええしね」
「キッチンペーパーで包むんやろ、わかってる」
「ばあちゃんどっかお出かけ?」
「晩の買い物」
「今日は焼肉よぉ~。おうち言うてきた?」
「マジで! やった! うちは言うてきた!」
「その前に強制労働やけどな」
「やるやる、そんなんなんぼでもやる」
「悪いなあ、面倒なこと頼んでしもて」
「そんなん、ぜんぜん! いつでも来るで」
「ほなちゃっちゃと行ってこよか、あんたらお腹空かせたら大変や」
「急がんでええで、気ぃつけて」
「おおきに。冷蔵庫に麦茶もコーヒーも入ってるから。ゆっくりしてからでかまへんしね」
 前半は周に、後半は健琉に向けて告げた後、周のばあちゃんは軽やかな仕草で肩からバッグをたすき掛け、片手にカート、片手に日傘を持ち――燦々と降り注ぐ夏の日差しの中を颯爽と出かけて行った。その間わずか、二分かそこら。

「ばあちゃん、相変わらずやなあ」
「あれで後期高齢者やで」
「七十五以上!? うそやん。自分の時間止めてんちゃう? ばあちゃんやったらいけそう」
「ひとをなんやと思てんねん」
「前から魔女っぽいとは思ってたけど」
「ああ……、うん、まあ、わかる」
「昔さあ、戸棚にすごい色の瓶並んでたやん。あれ見たとき最高に魔女感あったわ」
「漬物な。お前喜んで食べてたやんか、なんやっけ、なんかの古漬け」
「ミブナ? ミズナ?」
「ああ、壬生菜」
「あれな~、ヤバかった。一時中毒やったよな。なんか入ってたんちゃう? なんか……、あかんやつ」
「そやしお前はひとをなんやと思てんねん」
 ばあちゃんが出かけた後、そんな話をしながら周がぶどうの始末をしている隣で麦茶を飲み、暑さも落ち着いたところで、
「二階、結構アレやし。お前靴下履いてる――な、ほな大丈夫やな」
「え、なんか落ちてんの」
「ほこり」
「マジか。先拭いた方ええやつ?」
「いや、こっちはまだそんな広さはない」
「こっち、とは……?」
「見たらわかるわ」
 周に促されて部屋を出る。今日の来訪の目的の一つ『片付けの手伝い』というのは、中田家の二階の話だった。
 
 *
 
 ミシミシと音のするこの階段を、健琉はあまり登ったことがない。後ろから上がってきている周もたぶんそうだろう。二階の二部屋はどちらも完全に物置になっていたから、上がるのは禁止されていたのだ。探検のつもりで周とこっそり忍び込んだことは何度かあるが、カーテンどころか雨戸を閉め切って薄暗い上に、古いものの独特な匂いのせいか、いつも二人して腹が痛くなり、長居できなかった。それでいつしか、忍び込むことはなくなった。
「なんやろな、あの、腹痛くなる現象。オレ図書館の奥の方とかもあかんねん」
「同じ匂いするよな、わかる」
「……と、あれっ」
 階段を上り切った突き当たりは小窓が一つある半畳ほどの廊下。左右に引き戸があって、その先にそれぞれ六畳間がひとつづつ。いつもはぴったり閉じられていた戸が、左――東側のそれだけ開いている。心なしか、やけに明るい。何の気もなしに覗き込むと、
「えー、広! 物あらへんやん」
 思わず声をあげてしまう、その声もなんだか変に響く。
 フローリング、というよりは板間という呼び方の方がしっくりくる、かつて段ボール箱だの衣装ケースだのが積み上がっていたその部屋は、今や幾つかのカラーボックス状の棚を残すのみ、見事に空っぽになっていた。おまけに北と東の壁にある窓は開け放たれて、古めかしいレースのカーテンが揺れている。冷房がない二階は確かに暑いのだが、見た目だけならどことなく涼しい。
「え、どういうこと。前めっちゃ物積んだったやん!」
「部屋空けるんやって、ばあちゃんが」
「何、ダンシャリとかいうやつ?」
「老い支度とか言うて」
「ええ、ばあちゃんまだそんなんいらんくない?」
「と思うけど」
「つかでもこの部屋こんな広かったんや」
「こっちは母親が来て片付けてた。てか、ほぼ捨ててた。半分くらい自分のもんやったらしくて、半年? か、一年くらいかかってたんちゃう?」
「めっちゃ大仕事やん」
「作業できんの、休みの日だけやしな。あと、ひとりでやるし手伝わんでええていうからさ。めっちゃ頑なに」
「あ、ここ実家やもんな、由美ちゃんおばちゃんの部屋やった的な?」
「そうらしい」
「うちのおかんもじーちゃん家に置きっぱやて言うてるわ、卒アルとかノートとか」
「そう、そういうの。別にそんなん、捨てるだけやったら見ーひんし」
「え、オレめっちゃ興味ある。アルバムなんて絶対見せてくれへんけど」
「なんなんやろな、見せたくないもんかな。髪脱色とかスカートめっちゃ長いとか? 三十年くらい前てどんなんか知らんけど」
「ちょっ、想像さすな、笑うやんそんなん」
 母のツッパッた制服姿などをうっかり想像してしまい思わず吹き出す。そんな健琉に少し笑って、周はくるりと後ろを振り返り、今度はまだ閉まったままの西側の戸をガラリと開けた。
「ほんで――本題はこっち」
 周の肩越しに覗き込む。こちらは健琉の記憶に違わず、暗い部屋からふわりと漂う湿ったような空気。
「うっ……、わー。こっちは相変わらずやな」
 いたずらで忍び込んだ頃と同じ、『お腹痛くなる匂い』だ。
「こっちの荷物も処分するらしいんやけど、このままやったら中身も見られへんから、とりあえず半分くらい、向こうの部屋に持っていく、のが、今日の目標」
 そう言いながら周が部屋の照明器具のスイッチを入れる。ジー、と低く鈍い音がして、それからパチパチ、と瞬くように灯る電球。通電している間中、ずっと音を立てているのが気にかかる。
 古い電灯に照らし出される、山と積み重ねられた荷物――半分、と言ってもなかなかの量に思える。一体何をどうすればこんな風に積みあがってしまうのか。
 一応しといて、と、周が西の部屋に置いてあったらしい使い捨てマスクと軍手を手渡してきた。ありがと、と受け取りながらもう一度部屋を覗き込む。家具はなく、大方が古い段ボール箱か紙袋、荷物を退ければ、なるほどほこりが立ちそうだった。健琉は荷物の隙間からかろうじて見えている北と西の壁を指差して、周に尋ねる。
「あっちとこっち、窓まで道つけたら窓開けられるんちゃう?」
「そやな、風通した方が良さそう」
「おけ、ほなやろか」
 やるべきこと、目標が決まれば、後は動くだけ。そういうのは健琉の最も得意とするところだ。
 
 荷物はそれなりに秩序立てて積まれていたらしく、上の荷物は案外軽いが、下に行くほど重くなる。下の方は本だと周が言った。周が荷物の山から箱を取り出し廊下に置き、それを健琉が西の部屋に入れる、それで三十分もしないうちに窓へのアクセスが可能になった。最終目標にはまだ程遠いが、換気のためにもとりあえず窓を開ける――と、雨戸はなんと木製。
「あれ、動かん。どうやって開けんのこれ」
「なんか…かんぬき? みたいなん、それ外すねん確か。下の方にない?」
「これか。あ、動いた。ああ、ストッパーかこれ」
「そうそう、ほんで真ん中の棒が上に外れるから、」
「はー、すげえ。細工物、て感じ!」
 健琉どころか周でさえここが開いているのを見たことがないというから、少なくとも十六年は閉まったままだった雨戸は、カタン、カタンと小気味よい音を立てる木製の鍵さえ外せば、あとは難なく動いた。北側と西側、二枚の窓を開け放つと、熱を孕んだ風が吹き込む。部屋の中も明るくなったので、変な音を立てている照明のスイッチは切ってしまう。
「うわ、あっつ。けど、風や」
「ちょっと休憩しよ、お茶取ってくる」
「うん」
 窓からの風に顔を向けたまま健琉が答えると、背後に部屋を出て行く周の気配。

「……、は」
 旧街道は丘の中腹で、西側は谷。マンションもなく思いのほか見晴らしのいい外の景色を眺めながら、健琉は軍手とマスクをとってTシャツの袖で汗をぬぐい、大きく息を吐いた。『お腹痛くなる匂い』は、窓を開けたおかげかずいぶん薄れている。

「……普通、やな」

 ぽつりと呟く。
 普通。びっくりするくらい、当たり前の空気。周の態度が、そしてこの状況が。
 ばあちゃん家とはいえばあちゃんは買い物で出かけている。公園が近くにあっていつも子どもの声が響く健琉の家とは違い、隣近所も静かなものだ。そんなところに、健琉と周の二人きり。好きだと言って、言われた、『そういう関係』の二人、なのに、普通にどうでもいい話をしながら、普通に片付けを手伝っている。親のアルバムの話なんて、正直、どうでもよすぎてびっくりする。
 ――いや、ええねんけど、さ。
 気持ちを確かめる前からお互い、特別であることが当たり前だった。それなら、両想いだとわかったところで何も変わらない。それは健琉にも理解できる。
 それに、『そういう関係』ならするだろう会話、というのも、取り立てて思いつかない。
 だから普通でいい、のだ、けれど。
 ――なんかこう、もうちょっと、それっぽい空気があってもええんちゃうんか。
「……、それっぽい空気、てのもなんか知らんけどさあ」
「なんやねん、空気て」
 健琉が重ねて呟いた瞬間、背後から声がかかって思わず飛び上がる。周がグラスを二つ、持って立っていた。
「わっ、何、おったん」
「おった。ん」
「ん、ありがと」
 二階に上がってくるまでにすでに水滴がついた、冷たい麦茶。
 
 並んで外を眺めるように隣に立つ周へ手を伸ばす、受け取る瞬間指先が触れる、
「……っ、」
 ビクリと揺れる、周の肩。 

「え」
「あ……、ごめ」
「いや、いやいやいやいや、それはよくて、じゃなくて、」
 ぶわっ、とカーテンが翻る。生温い風が吹き込み、周が目を伏せた。耳が赤い。
 ――この顔、知ってる。あの時オレの部屋で見た。
 話せばどうなるか、考えすぎて言えなくなる、周自身の気持ちが溢れそうになっている直前の、戸惑うような表情。
 喉の渇きを覚えて、受け取ったばかりの麦茶をひとくち。窓枠にコップを置き、俯いてしまった周の顔を下から伺う。
「あの、さあ」
「…なに、」
「その、なんか、……悩む、ていうか、考え事とか、してる? 今」
 手探りで形を確かめるように健琉が尋ねると、周は視線だけを健琉に向けて、
「は、何が……、」
 と笑った、が、その表情はすぐに困ったようなそれに変わって、
「……いや、ウソ。してる。悩んでる、というより……困ってる、かなあ」
 ふう、と周が小さく息を吐いた。
「……どうしたらええんかな、とか、思ってる」
「どう、って」
「なんか……さ、そういう、の、わからへんから。その、どんな顔しとったらええねん、とか」
「……、オレと二人やし?」
「…、他に要因ないやろ」
 頬を赤く染めてちょっと怒ったような素振り。周の表情はひどく真面目で――健琉は変に嬉しくなる。周が、自分の存在を、『そういう風に』意識している。気にしてんの、オレだけちゃうんや――。
 両手で握りしめたコップからお茶を一口、健琉に倣ってか窓枠にそれを置き、窓の外を見つめながら、でも、と周が続けた。
「別に、お前とはそういうんとちゃうやんか」
「……えっ、」
 ――今何か、聞き捨てならんことを言わんかったか。
 健琉が真顔で問うと、周が慌てて言い直した。
「……えっ、あっ、だから、そう、はそうなんやけど! じゃなくて、いまさら、やん。言うてへんかっただけで、ずっと――そう、やったのに。いまさら変に違う態度とれへんし」
「――ああ、うん、それは、そう思う、オレも」
「そやろ。夏休みで、勉強関係ないとこでお前とおって、なんでばあちゃん家の片づけやねんてなるけど、健琉じゃなかったらこんなことしてへんやん。健琉やし、ここにいっしょにおるんやな、とかも、……思うし」
「うん」
 周の言いたいことが、困っていることが、なんとなくわかってきた。
 周と二人きりならもうちょっと、『そういうこと』もしたい、とは思う、けれど、ばあちゃん家の片付けをしたくないわけじゃない。手伝えることが嬉しい。今こうやって、積みあがった荷物に囲まれた狭い隙間で、並んで話しているのが楽しい。くだらない話も、昔のこともこれからのことも――そう、『この先』の話も――周と一緒なら話したい。ちゃんと考えたい。
 何に対しても真面目で、課題には真っ正面から立ち向かう周は、こんなことでさえ真剣だ。その周が、今、どうしていいかわからないと思っている。自分も、もうちょっとなんか、なんて考えたりした。いまさら――特別な何かが必要だと思っている。
 
 ――そうじゃない、んやな。

 カーテンが舞い上がる。熱風が頬を撫でる。ジ、ジー、と思い出したようにセミが鳴き始める。少し離れた線路を電車が通過する。家の前の旧街道をバイクが通る。どこかの家で水遊びをする子供たち。日常の、普通の、当たり前の音。
 少なくとも周と自分の間では、
「特別なんが当たり前、やったもんなあ、ずっと」
「ん――そやし、当たり前に、普通にしとったらそんでええんかな、とも思うし」
 きっとそれでいいのだと、健琉も思う。自分たちはなにも変わらない。変えなくていい。悩んだり、困ったりする必要もない。
 ふふ、と笑って、チラリと周の顔を見る。
「うん、オレもそう思う。普通でええんやんな。それっぽい空気とかなくても、オレ普通に周のこと好きやもん」
「な……っ」
「ははは、周顔真っ赤や、かわいい」
「なに、を、言うてんねん、アホか」
「こないださー、教室で周かわいいて言うてしもて、宮川と海原に生温い顔されたわ」
「アホっ」
「お前は?」
「は?」
「周は、」
 周だって本気でわかっていない訳ではないのだ。その証拠に、健琉がじっと目を見つめると、一瞬その目を逸らして、伏せて、耳まで赤くして、それからちょっと睨むように健琉の目を見返し、それでようやく口を開く。
「普通、に、…好き、じゃなかったら、こんなことで悩まへん、し」
「うん」
 はは、と笑ってコップを手に取り、麦茶を飲み干す。
「なあ、なんかいい感じちゃうかった? 今の」
 健琉がそう言うと、周もつられたように、は、と吹き出して、やっぱり麦茶を飲み干した。
「今みたいなんが、それっぽい空気、ていうんちゃうの」
「オレらそんな感じなんやな」
「ええやん、それっぽくて」
「ははは、そやな」
 
 ごく普通に、当たり前に、自分たちは互いに思い合っている。
 取り立てて目新しいことをしなくたって、一緒にいるだけでいい。
 たぶんそれで、すべてが特別になるのだ――二人なら。
 
「コップ、下に置いてくる。ほんで、もうちょい続き、しよか」
「おっけー。とりあえず窓は開けれるようになったし、入口の辺減らす?」
「そやな。中身見る広さ欲しいて言うてたし、あとは高さ減らすか」
「ん。了解。あ、床空けとかなあかんの向こうの部屋もか、ちょっと積み方考えるわ」
「おう」
 周と健琉が西の部屋を出て行く、見送るようにカーテンが揺れる――長く閉まったままだったのに、さもそうすることが当たり前のような顔をして。

(4)中田周と受験のプロ、横山健琉の歯止めが効かない妄想 ≫