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アホの横山とカシコの中田2(4)

(4)中田周と受験のプロ、横山健琉の歯止めが効かない妄想

(20200920改稿)

 *

 積まれた荷物を下ろす、床の荷物を持ち上げる、上下の移動が案外多く、周のばあちゃん家の片づけはなかなかの全身運動である。
 二間とも窓を開けたことで風は通るが、そうは言っても真夏日だ。適宜休憩を入れつつ、会話を挟みつつ、ばあちゃんが出かけてから小一時間ほど経ったところ。作業を始めた時に比べたら、西の部屋の密度はずいぶん下がった。比較的重い箱は全部床に置いてあるから、これならばあちゃんでも中身を確認できる。
 部屋と部屋を結ぶ半畳ほどの廊下に『甘夏』と書かれた古い段ボール箱を置き、あのさあ、と周が言う。
「――前に予備校の話したやん」
「え、と、北野先生に聞いてみる言うてたやつ?」
『甘夏』を持ち上げながら健琉は答える――運動量は増えるが、一度下に置いた方が直接手渡しするより効率がいい。
「そう、それ」
 北野先生――健琉と周が小学生の頃通っていた近所の学習塾の先生だ。『北野補習塾』という名前が示す通り、受験等を目的にした塾ではなく授業に躓きがちな小学生を対象にした教室で、現在の周のバイト先でもある。
 健琉は二年生の冬から、周はそのすぐあと、三年生の春から一緒に通うことになり、小学校の卒業と同時に退塾となった。が、中学生になってからも試験前や高校入試対策で勉強を見てもらっていたし、そんな生徒はたくさんいた――そういう教室だ。

 『予備校』。
 夏休みに入る少し前――だから要するに、周とは『そういう関係』になった後のことだが――、昼休みの二年五組の教室で、川島と三人、そんな話題になった。
 予備校の先生は、受験のプロフェッショナルみたいなものだ、という話――川島の部活の、ある種の愚痴がその発端である。
  
 高校サッカーの一番大きな全国大会は冬――十二月から年明けに開催される。地方予選トーナメントが始まるのは、毎年十月ごろ。川島が所属するサッカー部の三年生は原則、この大会で試合に負けた時点で引退となるのだが、地方大会は十月から十一月、そして全国大会が十二月から年明けの一月まで。勝ち進めば進むほど、引退の時期は遅くなる。だから、大学受験を志す多くの三年生は、冬の大会には参加せず一学期の終わりに『退部』してしまう、というのである。
 夏に開催されるインターハイの予選は六月ごろに終わっているし、そこで代表になれるほど強くはない。夏休み前に取り立てて大きな試合はなく、あるとしても精々練習試合程度、それが、高校の部活の最後の試合になってしまう。なんかすっきりせえへんねんな、と川島は言った。

 ***

「他の地域やと夏休みに地区大会みたいなんやるとこもあるらしいけど、この辺はそんなんないし。なんか、そんなんかあ、と」
 パックジュースのストローをくわえながら、川島がぼやく。
「私立とかは三年も出てるんやっけ?」
 前にも聞いたことがある話だと思い返しながら健琉が問うと、
「そー。ああいう学校の人は、大学行くんかってサッカー推薦とかザラやし、下手したらサッカー留学するし。そのままJの人もいるしさ。内部進学とかもあるやん? 受験勉強とか必要ないもんな。センター試験受ける人がメンバーに一人もおらんかって、その日に決勝やった年もあるて」
「なんか、さすが私学て感じやな……」
 周がため息交じりに呟くと、川島はそうやで、と頷いた。
「格差すごいねんて。設備整ってるから夜でも練習できるし、コーチとかも元プロみたいなんいっぱいおるし、海外遠征とかもすんねんぞ。サッカーしに学校行ってるみたいなもんやん。そーいう生活を丸まる三年間した人らが出てくんねんもん、勝てるわけないやん。そもそもだいたいの人が中学までクラブチームとかJのジュニアやし。オレらほぼほぼ中学サッカーやし、良くてスポ少やし。勝てるわけないやん」
「二回も言わんでも」
 健琉が思わず口を挟むと、大事なことや、と嘯く。
「うちは公立の中ではそこそこ中堅やとおもうけど、そんなん顧問がちゃんとサッカーわかってて監督やって指導もできるってだけや。そうじゃないとこから負けてく。そんで三回戦までは進めても、そっから先はホンマに強いとこばっかりやし。強いとこっていうのは、つまり、環境恵まれてるとこや」
 何年か前に十六強まで残ったことはあるらしいのだけれど、やっぱりその時も優勝校は私学だったらしい。
「だからまあ、なんていうの、終わりがわかってるのと似たようなもんではあるんやけどさ。もし三回戦で負けたとしても、やっぱり十月の真ん中くらいまではサッカー続けることになるやん。退部決めた先輩は、それが怖いて言うてた。受験勉強的に」
「ふうん」
 周と同じ大学に行くと決めたはいいものの、健琉はいまいち、受験のスケジュールというものがわかっていない。兄も姉も両親が卒業した大学の子弟子女入試というやつだったので、二人とも三年の十二月までには進学を決めていた。普通は――一般的な入試なら、一月に一斉模試みたいなやつ受けて、二月か三月くらいに大学ごとの試験があるんやっけ? 十一月から始めたのでは遅いんか。遅いんやろな――ほな、オレやったらどんくらい前から始めなあかんねん。ちょっと焦る。
「三年ひとりもおらんくなんの?」
「いや、実は今年は三人残らはる。専門行くて受験関係ない人が二人、あと、引退したらすぐ予備校行ってどうにかしてもらうから大丈夫て言うてる人が一人」
 しばらく黙っていた周が、やけに真剣な顔つきで言った。
「どうにか……、なる、んか。三か月で。予備校てそんなすごいん?」
 考え込む周の表情をどう受け取ったのか、川島は慌てたようにジュースのパックを机において、や、待て待て、と遮った。川島を始め、友達うちではもう既に、周――と健琉の志望校は周知の事実である。
「そら、お前が狙ってるとこみたいなんはなんぼなんでも二、三か月ではどうにもならんやろ。大学もピンキリやん? 選べばどこかあるやろし、みたいな感じやったで、その先輩の話では」
「行きたいとこじゃなくて、成績的に行けるとこってこと?」
 健琉が言うと、川島は机に置いたジュースのパックを指で弄びながら、そういうことやろなあ、と呟いた。
「まーでもそこは、その先輩が大会出たいかどうかと、こう、どっちが重いか考えるとこなんちゃうかな。最後の全国大会で優勝目指したい、か、行きたい大学を目指したい、か」
 そう言いながら川島は、両手を振ってエア天秤を形作る。行きたいかどうかじゃなくて、行けるかどうか――それも、今現在の成績で、だ。それで志望校を決めてしまったら、健琉はおそらく周と同じ大学を目指すこともできない。周と同じ学校に行きたい方が、断然重い。ほなオレは、予備校頼みではあかんな。
「ほな、行けるとこを、予備校でチョイスしてもらうてことか」
「そうなんちゃう? 予備校の先生らてゆうたら受験のプロやんか。学校ごとの赤本とか出てるてことは、傾向と対策つーか、テクニックみたいなんもあるってことやろ。そういうのわかってるプロがついて、ここやったら大丈夫、て言うてくれたら、とりあえず浪人はせえへんし安心、みたいなのはあるやん」
 何かが腑に落ちたらしく、周が、ああ、と声を上げた。
「なるほどなあ。受験のプロか。そうか」
「お、オレええこと言うた? そんな感じ?」
「うん。なるほどな思たわ。めっちゃ納得した」
「やったぜ、周に褒められたぜ」
 ――『あまね』。
 川島はわざとやっているのだとわかっているのに、反応せざるを得ない。
「お前いつから周のこと名前で呼ぶようになったん」
「今初めて呼んだ」
 川島の謎のドヤ顔。健琉と周の『今の関係』を知っているからこその冗談だ。川島が、自分たちのことをあげつらったり冷やかしたりしないことは、健琉も充分わかっている。だから敢えて乗ってやる。
「良いけど? 別に良いけどな? オレは気にしてへんし」
「良いけどとか全然思ってない顔やめてもらえますぅ? なあ、周」
 周の方は、この冗談をわかっていても『恥ずかしい』が先に来るらしく、カ、と頬を染め、
「もう、好きに呼べや」
 と唸るように呟き、おそらくそういう反応を引き出したかった川島を喜ばせていた。

 ***

 この時。
 好きに呼ばせるというのはまあさておき、オレは気にしてへんし、と言ったのは案外本気だった。誰かが周を下の名前を呼ぶのが前ほど気にならなくなったことに、健琉は自分で驚いていた――というのはつまり、今までは嫌だったのだ。
 小学生時分、学校で『あまね』と呼ぶのが自分だけだった頃、思い返せばあれも、自分だけが周の『特別』であることのひとつの証明だった。だから――呼ばなくなったのだ。五年のクラス替えの後、誰かが健琉の真似をして、周、と呼び始めたから。そう呼んでいいのはオレだけ、なんて言ったら、カッコ悪いような気がして――周に対して。つまらない嫉妬心を抱いてしまう自分を、周にはあまり見せたくない、のは、昔からずっと。
 気にならなくなったのは、つまりそんなことで証明しなくても『特別』なのだと、ちゃんとわかっているからだ。
 こんな日常のくだらないやり取りにさえ、自分と周が『そういう関係』になったことに改めて気づかされる。何だかくすぐったいような、嬉しいような、変な気分。
 ――たぶん、こういうん、幸せ、とか言うんやろなあ。
 
 ***
 
 周は『予備校の先生は受験のプロ』というのがいたく気になったらしかった。
 川島と昼休みにそんな話をした放課後、二人並んで昇降口へ向かう、その道すがらに周が言った。
「――なあ、さっきの予備校の話な」
「ん。行こかな、って?」 
「やー……、どうかな。予備校て、駅とかによう看板出てるとこやろ。何とか学院とか、何とかゼミとか。……あんだけ広告出してるてことはさ、」
 周が一瞬口ごもる。何を気にしているのかは知っている。そこにかかる費用を考えているのだ。大学へ行くなら国公立、受験料がかかるから滑り止めも受けない、という周の姿勢も、理由は同じ――金銭的な問題。
 由美ちゃんおばちゃんのことも良く知っているし、ばあちゃん家だって遊びに行く程度には中田家に馴染んでいる健琉でも、そこは踏み込んでいい部分ではない。だから、健琉も敢えて言葉にはせずに頷いた。
「まあ、――かかるんはかかるんやろなあ。考えたことないから知らんけど」
「やんなあ」
 ふう、と小さなため息。
 一棟と二棟の間、開放式の渡り廊下に差し掛かったところで、周は歩みを緩めた。考え事がある時の周の癖だ。
 廊下を吹き抜ける生温い風、中庭から一斉に響くセミの声、吹奏楽部のチューニングの音――振り返って、どしたん、と水を向けると、周は、ん、と応えて視線を落とし、それから言った。
「川島が言うてた、受験のプロっていうの、その通りやなあ、と思って。進路の先生とかも詳しいのは詳しいけど、新しい学部? 学科? とかのことはそんな知らはらへんぽいしさ。相談とかできるんは、ええよな」
「相談て?」
「んん、今具体的に思いつかんけど――例えば、勉強の進め方とか、さっき川島も言うてたけど、解き方のテクニックみたいなんとかさ。山登る時の登山ガイドみたいな感じかな、って思ったら、いてるのといてないのとでは、踏破の難易度が全然違うやん?」
「あー。マッパー的な」
 周の言葉を聞いて思い出したのはつい最近までやっていたゲームのシステムの話で、思わず口走るが、周は知らない。
「なに?」
「んーと、ゲームの話やねんけど。ハードモードとイージーモードがあって、クリアする難易度が違って、」
「ん」
「イージーモードにだけ出てくるマッパーっていうジョブを仲間にしてるとオートで地図が表示される」
 周は自分ではゲームをやらないが、中学くらいまでは健琉の家で健琉がプレイするのを横で見ていたりしたし、基本的なゲーム用語はわかる。だから、
「ああ、うん、言うてるのはそういう感じ。地図あるんとないんでは攻略しやすさが違う、みたいな」
 健琉の大雑把な説明でも、そのエッセンスはわかってくれる。
 周の言うことももっともだ、とは思った。受験はゲームじゃないので、縛りプレイだのノーコンティニューだの、ハードモードで挑む必要は特にない。イージーモードでプレイできるなら、そっちの方が断然いい。
 ただし、この場合のイージーモードは、課金が必要。しかも、親がかりで結構な金額になるだろう。うーん、と思わずうなってしまう。健琉が家で相談したなら、それでホンマにその学校に合格できるんやったら出したげるから通いなさい、と言われるに決まっている。周の家でも、おそらく反対はされないだろう。ただ周自身が、自分の進退に関して、由美ちゃんおばちゃんに費用的な負担をかけることを嫌っている。
「や、まあ、どうなんかな、って。予備校て、今までどういうとこなんかも考えたことなかったから。行かんでも大丈夫なんやったらそのほうがいいし」
 と、周は話をまとめ、歩みが少し速くなった。今日は火曜日で、周はバイトがある。何もない日のようにだらだらと話している暇はない――バイトか。
「なあ、北野先生に聞いてみたら?」
 ふと思いついて健琉が言うと、周は、ちらりと健琉に視線を投げた。それはどうやろ、と目が言っている。
「北野先生の専門は小学生やん。中学受験やったらともかく」 
「けど、オレら通ってた時高校生来てたやん。バイトとかじゃなくてさ。制服着てたし覚えてる」
「……、あ、ほんまや、いたなあ。この制服。何の話してたかは覚えてへんけど、たまに来てはったな」
 小学生の頃の健琉にとって、制服姿の高校生は、兄も姉も含めて、すごく大人に見えていた――今の自分が大人かどうか、なんて、考えなくてもわかる。高校生と先生が話している様子は完全に大人同士の会話に見えたけれど、実際のところは先生への質問や相談だったのかもしれない。
「受験の面倒見てくれ、ていうのは無理かもしれんけど、予備校てどうなん、みたいなん聞くくらいやったら、教えてくれはんのちゃう」 
 階段を降りながらそう続けて、周の様子を伺うと、周の歩みがまたゆっくりになった。
「……、ほんまやなあ」 
 確かめるように一段ずつ階段を降りる、その一歩ごとに表情が晴れて行く。
「そやなあ……、そやなあ。なんでやろ、先生に聞いてみるて、全く考えんかった。ん、時間あったら聞いてみる」
「オレかてええこと言うやろ」
 思わずそんなことを口走ると、周も気が付いたらしく、ふっ、と笑い声を漏らした。
「何張り合ってんねん」
「褒められたいし」
「アホやな、お前は」
 褒めてと言ったって周は褒めてくれないが、周がこういう軽口を言うのは健琉に対してだけなのだ。だから健琉は、周の『アホ』は嫌じゃない。むしろ嬉しい。
「まあ、あれや。周が行くんやったら、オレも行くから。予備校」
 そして、周が行かないのならば、行かない――で、済むように、結構本気でやらなあかんのとちゃうやろか。例えば、この夏休みとか。というかそもそも、くっついてってええんやろか? 『そんなべったりで、どうすんねん』、周の言葉を思い出して、ヒヤリとする。 
「うん――まあ、どうかわからんけど。とりあえず、聞くだけ聞いてみるわ」
「うん。先生によろしく言うといて」
「なんやねん、急に」
「や、なんとなく」
「アイツちゃんと授業受けてんのかて、心配してはるわ。ヒマなんやったら一緒に行くか? 今から」
 『一緒に』――周の誘いはとても魅力的だし、助手とはいえ『先生』をやっている周を見てみたい気もするのだが、
「や、やめとく。気散るやろ、邪魔したくない」
 教室に来る小学生たちの、というよりはむしろ、周の。健琉が隣にいようがいまいが、周が気を散らすことなどないとわかっているのだけれど、それはそれで気にしてほしいし、『要らんこと』をしてしまわない自信もない。そして再びよみがえる周の声――『べったりで、どうすんねん』。いやいや、考えすぎ。周は、はは、と、今度は声に出して笑った。
「そやな、お前おるだけで視界がうるさいもんなあ、子どもら集中せんわ絶対」
「え、どういうんそれ」
「褒めてんねん」
「褒められた気がせえへん!」 
 だけどそういう冗談も、健琉にだけ。それは昔からずっとだけれど、今はお互いの気持ちも知っている。
 だから、やっぱりくすぐったくて、嬉しくて、――幸せ。 
 
 ***

「夏休み前に新しく入る子、結構多くてさ。先生が忙しくてずっと聞けへんかってんけど」
 今度は『りんご』と書かれた白っぽい――とはいえ十分に煤けてはいる――箱を廊下に置き、そのまま座り込んで周が言った。
「うん、」
 健琉もそれに倣って箱のそばにしゃがむ。りんご箱を挟んで、東西の部屋の入口で向かい合う。座った途端に、汗が流れる。軍手とマスクをとってその辺の箱の上に置き、Tシャツの袖でぐいと額をぬぐった。暑い。
「結論から言うと、別に金かけて行かんでもええんちゃうか、て。オレ――オレらの場合は」
「おお」
 それは何より、周にとって一番の朗報だろう。
「オレらの場合は、て?」
「最優先の目的がちゃんと決まってるから。何の勉強したいとか、資格取りたいとか、そういうのは人によって違うやん。オレはなるべく学費かけんで大学行きたいし、お前は――まあ、うん」
「オレは、周と同じ大学に行きたい!」
「先生笑てたわ、またかて」
「言うたんや」
「言うた」
 一体、どんな顔をしてそういう話をしたのか、見てみたかった気はする。今みたいに、ちょっとイヤそうに眉を顰めて、だけどそれは照れているのだとはっきりわかる、そんな表情を浮かべていただろうか。
「学部、ていうか、学科ごとに偏差値とかも違うらしいねんけど、そういうのは予備校とかじゃなくても調べられるし自分で見てみ、って。二年の今からやったら時間もあるし、ちゃんと考えて準備したら、塾やら行かんでも無理ではないやろて、なんか――めっちゃ応援してくれはったわ。オレも見といたる、て」
 北野先生の面倒見の良さは昔から変わっていないらしい――学校の授業が『合わない』健琉でさえそこそこ楽しく通い続けられたのは、偏にこういう、先生の人柄によるものだ。
「おお、ええやん。めっちゃアドバイスやん。良ガイドやな」
「うん――あ、ほんで、試験問題の解き方ていうか、テクニック? みたいなん知りたいんやったら、紹介しよかて」
「紹介て?」
「ほんまは家庭教師のクチを探してる人らしいんやけど、今国立通ってる大学生やって。やったはるんは経済……やったか経営やったか、なんかそんなんらしいけど。受験対策で見てもらうんやったらちょうどええんちゃうか、て」
「へえ。教室に来てた人とか? 知ってる人かな」
「や、オレらは知らんと思う。教室の人じゃなくて、先生の奥さんの知り合い? の子どもさん? かなんか。奥さんとこの学生とかではないみたいやけど」
 そう言いながら、周がやおら立ち上がる。どしたん、という目で見上げると、周は「しゃがんでたら足痺れた」とちょっと笑った――なんやねんそれ、かわいい。これが何もないところなら率先して周の足を触りに行くところなのだが、ここは物が多すぎる上に、すぐそばには階段がある。ぐっとこらえて健琉も立ち上がり、『りんご』の箱を東の部屋に運び入れる。あ、軍手――まあ、ええか。
「現役の人やったら受験したのもそんな前ちゃうもんな、めっちゃ心強いやん。ええやん」
 健琉がそう言うと、西側の部屋から返事が聞こえる。
「そやろ。どういう人かは聞いてないけど、先生の奥さんも先生やんか――大学の。そやし、その紹介やったら安心ていうか、信頼できるやん」
「その人、男? 女?」
 肝心の、という訳でもないが、そのあたりは念のため聞いておく。
「女の人やて」
「ふーん、……、ふーん」
 なぜか二回、同じ相槌を打ってしまう。

 ――家庭教師、てことは、家に来るわけやん。女の先生に、周が教わるのか。大学生やったら、年もそう違わへん、よな。周て、結構アレやねんな、そういう、頭いい系の女子に。一年の時の、委員の人もそうやったし。
「……、」
 そういう場面を脳裏に描いた、その瞬間――もう忘れたと思っていた、忘れて良かったはずの感情が、たった今の出来事のように、あっという間に全身に広がってしまう。

 周への告白騒動を聞かされた時に感じた黒いモヤモヤ、その中でも一番濃くて暗い部分が、胸の内でどんどん大きくなる。
 周のことを好きになったのはきっと誰よりも自分の方が先だったはずなのに、知らないうちに先を越されてしまった悔しさ、とか――異性だというだけで、気持ちを打ち明けるハードルが下がるのはずるい、というような身勝手な恨みがましさ、とか――普段なら考えもしないはずの、言ってもしょうがない、どうしようもない、それは異性に対する嫉妬だ。
 周と自分はもう『そういう関係』で、つまりそれは性別なんて問題ではないのだとわかっているということなのに、それでもやっぱりどこかで気にしている。自分と周はどちらも男で、――周かて、そういう時は動画か画像か雑誌か知らんけど、とにかく女体のお世話になる訳やんか。

 少し重いりんご箱を床に置き、健琉は急ぎ足で西の部屋を覗き込む。窓の傍に立つ周の姿を認め、こんなん言うてごめん、という気持ちと一緒に、言葉を吐き出す。
「……、イヤや……、」
 適宜積み替えながら運び出していたらしく、全体的に周の腰の高さほどまで減った荷物の中、次の段ボール箱に手をかけていた周が振り向いた。
「……、え、何、が?」
「なんか、イヤ」
「は?」
「そういう、状況になるのが、イヤや」
 と、一度口にしてしまったら、頭の中の想像はどんどん悪い方にエスカレートしていく。
 先生は女で、大人で、周は男で、二人きりで、教えてもらう――何を? 勉強に決まってるやん、わかってる。わかってはいる、のだが、こと周に関して、自分の妄想に歯止めが効かないことはもうずっと前から知っている。
「周は、さ、そういうの興味ないかもしれんけど。あるやん、そういうの」
「何が」
「何、て、その……、あるやん。カテキョの先生と、生徒が、そういう、あれ……、部屋、二人きり、やん、だからそういう」
 ただその状況がイヤだと思っただけなのに、言い募るうちにその想像はどんどん具体的になっていく。健琉の偏った――という自覚はある――知見のネタ元はだいたいマンガかゲームで、もちろんそれは作り物だとわかっているし、そういう設定の創作物はどっちがどっちでも――つまり生徒の方が男でも女でもよくある定番だが、負の方向に飛躍がひどい健琉の脳内に最初に浮かんだのはマンガでもゲームでもなく、たまに帰省するたび兄が持って帰ってくる、その手の雑誌のグラビアだ。
 胸部と腰回りをやたらと強調したスーツのような衣装を身につけたその手の女優、それっぽっく見せる小道具らしい眼鏡と参考書、扇状的なポーズ――実際そんなんあるわけないねん、そもそも周がそういうのん好きかどうかも知らんし、ていうかカテキョがそんなことやったら訴えられるか捕まるかするやろ、わかってんねん、けど、どうしても想像してしまう――、

「……センセイがイイこと教えてあげる、的な……、そういう、ん、なったら、イヤやし……」

 視線は埃だらけになった足元に落ち、声もしぼんでしまう。
 周のことを信じるとか信じないとか、そういう話ではない。好きとか嫌いとか、まして『特別』な相手がいるとかいないとかにも関係なく、そういう環境で『誘惑』されてしまったら、自分たちの身体が無条件に反応することはあると知っているから――とにかく周には、周が自分以外の誰かにとって『そういう対象』になり、剰え『そういうこと』になるかもしれない可能性のある状況に、いてほしくないのだ。
 自分一人だけの気持ちだった時は、きっとここまでひどくなかった。そして、二人の気持ちになったことで、無関係な周囲の人たちのことなんて、もう気にならないと思った――だがこれは、周が下の名前で呼ばれる程度のこととは、訳が違う。
 胸に広がる黒いモヤモヤを、そういう気持ちを持ってしまう自分を、周には見せたくない、けれども、嫌だと思いながら黙っていることもできない――勝手でごめん。

「……、」
 周の反応がない。
 アホなこと言うてるな、という自覚はもちろんある。恐る恐る顔を上げる――と、窓の前に佇む周の顔は、おそらく本気で困惑していた。
 何か言いかけて口を開き、迷うように口をつぐみ、また言葉を探して――はあああ、と、深いため息を一つ。それから、――言った。

「――……、何で、二人きりやねん。お前もなんやから、三人やろ」

(5)中田周のいまさらな告白と横山健琉のそれこそいまさらな決意 ≫