テキスト

アホの横山とカシコの中田2(5・完結)

≪(4)中田周と受験のプロ、横山健琉の歯止めが効かない妄想
(5)中田周のいまさらな告白と横山健琉のそれこそいまさらな決意

 *

「……、えっ?」
 思いがけない周の言葉に、それしか返せない。
 ――家庭教師、やろ? オレも? そんな話、いつしてた?
「……え、なんで驚くねんこっちがびっくりするわ。健琉、とりあえずこっち入って来い、話しづらい」
 怒っている、という訳ではなさそうだが、呆れているというのならありそうな気がする。健琉だって、こんな自分に自分で呆れている。ただ、今までいろんなことをやらかしてはその都度周に叱られてきたが、今の周から漂う空気が、これまでとは全然違う。知らない周は、ちょっと怖い――だってイヤなもんはイヤやねんもん、しゃーないやん――と、声に出す勇気は今はない。
 周の様子を伺いながらそろそろと歩み寄る――一歩間を置いた距離で立ち止まる、と、周は軍手を外しマスクを下げて、あんなあ、と言った。
「……もう、どこからツッコんでええかわからんねんけど」
「はい……」
「北野先生に紹介してもらう大学生にお世話になるんやったら、お前も一緒やぞ」
「……、そんなん、言うてたっけ」
「予備校行くんやったらオレも行くって言うたやん」
「それ、は、言うた、けど」
「一緒に大学行くんやろ」
「い――きたい」
「ほなその受験対策かて一緒に教えてもらったらええやんか」
「そ……、うなん? そうなん、か、そっか。そう、なるか」
「北野先生が火曜と金曜以外やったら部屋貸したるて言うてたし」
「あ、家とかと、違って、そういう、」
「そういう。だいたいウチの家に人なんて呼べへんし」
「けどカテキョて」
「言うてない。カテキョのクチを探してはるひと、とは言ったけど」
「……、」
「そんなんで、お前の言うてる――ようなことになると、思うか?」
「……、ごめん」
 素直に謝る――それ以外、できることが何もない。
 ひとつづつ否定されていくうちにだんだん頭が冷えてきて、単なる自分の勘違いだったのだとようやく気づく。
 根拠が事実であったなら、少なくともそういう『可能性はある』という話だが、そもそも家庭教師でもなければ周の家でもないし、二人きりでもない。何もかもが健琉の思い込みだったのだから、これは本当に、ただの『妄想』だ。
 しかもそれを自分の心ひとつにとどめておくだけならまだ良かったけれど――実際、周に言えないような『妄想』は今までに何度もしたことがあるし――、今回は全部、周に話してしまった。
 健琉が脳内で、そういう状況にはなってほしくないと思いながらどんな想像をしたのかを、伝えてしまった。全部、周に。胃の上あたりが急に塞がれて、押しつぶされそうな気持ちになる。申し訳ない、恥ずかしい、情けない。もうこれ、教師モノのトラウマ化決定やん――そんなことはどうでもいいけれど。

「……、ほんま、マジで、ごめん。あー……うそ、ほんま、ごめん」
 しゃーないやん、なんてもう絶対言えない。消えてしまいたい――思わずその場に尻をついて座り込み、両手で顔を覆う。ごめん、ほんま。
「健琉、」
 周の呼ぶ声が上から降ってくる、が、顔を上げられない。
「健琉、こっち見て」
 ゴトリ、と床の音がして、今度はその声が真横から聞こえる――健琉の隣に、周が膝をついたらしい。腕を掴まれ、それを払いのけることはできず、健琉はようやく顔を上げた。周の表情は、怒りも呆れもしていない。
「謝まんなて――オレがお前の立場やったら、同じくらい考えたかもしれんし」
「……、ほんま?」
「や、……うーん、そんな具体的なエロネタまで考えつくかはわからんけど。ようそんなん考えつくな、とは思う」
「ホラやっぱり、ごめん」
「待てって最後まで聞け。わからんけど、……お前が誰か知らん女の人と密室で二人きりになるんは、オレもイヤや。――けど、」
「……けど?」
「……、」
 周はそこまで言って、少し迷うように視線を落とした。
「何、」
「……、いや、うん。そやし……、オレは、お前が心配してるみたいなことは、ない、から。絶対」
「え、そんなん、オレもやし!」
 万が一、いや億が一、健琉が妄想したような状況に自分が置かれたとして――ということはつまり周に対しても、それくらい低い確率の状況を想像してイヤだのなんだのと言った、ということに他ならないわけだが――、相手がそういった類の何かを仕掛けてきたとしても、もちろんそういう器官を持っている以上反応はしてしまう、自分が『そう』だから周のことだって心配になるのだ、けれど生理現象は自分の意思とは無関係に起こるものだし、その先にある守るべき一線は絶対に守る。周だってそうだと、信じてはいる。さっきの心配は、そういうことではなくて、ただ単純にイヤだというだけの話で――だが、健琉の言葉に対する周の反応は、やけに歯切れが悪い。
「や、だから、そうじゃなくて、……、」
「……、」
 そうじゃない、のは、『どう』じゃないのか、周は膝をついたまま視線を床に落とし、恐らくあれこれと言葉を探して、それからようやく、ポツリと言った。
「そういうのは、――お前だけ、やから」
「……、へ?」
 ――オレ、だけ?
「え、と、そういう、て、何……、」
 意味がつかめず問い返すと、周は言い募るように切れ切れに言葉を重ねていく――その度に、頬が赤く染まる。えっ、なに、その顔。心臓が、ドクンと跳ねる。
「だから、その、もし、仮に、今度の大学生の先生がどうとかいうんじゃなくて――そういう状況に、まあ、ならへんけど。もし、なっても。その、そういう……、身体の、反応、というか」
 ――身体の、反応。
「……、なんて?」
「……、いや、ごめん、もういい。忘れてくれ」
 慌てて立ち上がろうとする周の腕を、今度は健琉が引き留める。ドクン、ドクンと、響く鼓動が少しずつ速くなる。
「あかん、よくない。え、どういうこと?」
 周の発言に思考が付いて行かず、混乱する。
 健琉の脳内は必死で整理を試みる。そういう状況――になったときの、身体の反応、というのは、つまり、
「……、勃つ、とか勃たたんとか、そういう、意味?」
 遠回しで伝わらないよりは、ちゃんと通じる方がいい。耳まで熱いなと思いながら健琉が直截に言うと、周はくっと喉を鳴らし、それから――小さく頷いた。

 最初に筋道をつけた戸と窓を繋ぐ通り道――古びたダンボール箱に取り囲まれて、狭く埃っぽい床に座り込む健琉と周。ぶわっ、とカーテンが翻り、西の窓から熱気を孕んだ風が吹き込む。

 言葉を選びながら、周が言う。
「……だ、から、……、オレは、そういう気には、ならへん、から」 
「……、え、と?」
 身体の反応が、そういう気にはならない――勃たない。言葉の意味に思い至って血の気が引く。
「え、まさかいーでぃ……」
「違う!」
 健琉が言いかけた言葉は強めに遮られた。良かった、違うのか、でもほな一体どういうのなんや、例えばそれは、
「ええ、と、ほなその、……対象が、女の人ではない、的な?」
 周はううん、と首を振った。
「でも、なくて。だから、全然ない、わけじゃない、んやけど――女とか、男とか、そういうの、でも、ないみたい、で」
 周は昔から、そういう話題には淡泊だった。興味がないのか、興味がない振りをしているのか、それともそういう話題は苦手なのかわからなくて――だから健琉も、周とはそういう話をしなかった。『そういう関係』になってからも、その話題に触れていいのかすらわからなかったし、まして自分が、周を相手にした妄想でいろいろしたことがある、なんて口が裂けても言えなかった。
 今初めて聞く、周の――性指向。そういう対象が、『女とか、男とか、そういうのでもないみたい』。
 だとしたらどういう――ひときわ大きく、ドクン、と心臓が弾んで、健琉はごくりと喉を鳴らした。や、待てよ、だってさっき周は、
「……オレ、だけ、て、言うた?」
 ハッと思いついて口走る。
 周は――耳までどころか首まで真っ赤になって、小さく頷いた。
「え、……あの、だからさあ、その、……オレ、には、なる……ん? その、……自分で、アレ、する、時とか」
「……、ん」
「……、マジで」
「ウソ、ついてどうすんねん、そんなん」
 頬が、目が、額までも熱い。きっと周と同じように、自分の顔も赤くなっているに違いない。
 そういう方向の話をしたことが無くても、周だって年相応な欲求を持つのだろうとは思っていたし、例えば何を使ってどういう風に処理をするのか、というようなことを想像をしたのは一度や二度ではない。動画だか画像だかは知らないし、周の好みもわからないけれど、それはきっと異性のモデルのそれなのだろうと、信じて疑わなかった。

 まさか、その対象が『自分』だったなんて考えもしなかった――想いを打ち明け合った時以上の衝撃だ。
 
「……ごめん、なんか、キモいこと、言うてるな、オレ、ていうかこんなとこで話すことちゃうし」
 周はやたらと早口で、動揺しているのがわかる。
「何でやねん違うって、そうじゃなくて」
 掴んだままだった腕から引き寄せて、周を身体ごと、無理やりこちらに向かせる。周は目を伏せている――その目元が、やっぱり赤い。泣いているわけではなく、まつげが震えているのはドクンドクンと音を立てる心臓のせいだ。ヤバい、――興奮する。
「え、……と、オレ、だけ? って、すごくない?」
「……すごいかどうかは、わからん、けど、……そうなんやからしゃーないやろ」
 そういうことが、ある、のか? いや、あるのだろう。だって本当に、周がそんなウソをつく必要がない。誰もが異性を恋愛や行為の対象とするわけではないことは知っているし、誰にでもそういう感情を持つ人や、そもそもそういう感情を抱かない性質の人だっているのだとどこかで聞いた。対象の範囲はきっと人それぞれ――、
「しゃーなくない! だって、そんなん、……そういうの、も、オレしかいてへんて、思って、ええのん、かな。そんなん……めっちゃ嬉しいやん」
「……そう、なん、ちゃう?」
 喉が渇いて、頭がふわふわする、のは、暑さのせいだけじゃないはずだ。俯いたままの周の顔を下からのぞき込むと、目が合った瞬間周がごくりと喉を鳴らした。
「……なあ、キス、していい、」
「……もう、いちいち聞くなや」
「周がイヤやったら、したくないもん」
「お前しかおらんて、言うてんのに」
 と、言うが早いか――まるで噛みつくみたいに周の唇が自分のそれに触れた。一瞬ヒヤリと冷たいが、ちゅっと音を立てて離れた時にはもう熱い。周が、は、と小さく息を継ぐ仕草に、ドクンと体が震えた。
 ――言うてない、絶対言うてないぞ、そうなんちゃう、とは言うたけど……。
 だが、したいと言ったのは健琉なのに周の方から口づけてくれた、のは、そう答えたも同然だ。オレだけ、か、そうか――え、自分でするときもそうやって言うた? いつから? てことは周の『好き』も、そういうんやて思っていいんかな。
 今まで全く触れずに来た周のそういう話を、知ってしまったら聞きたいことが次から次へと湧いてくる。それと同時に、わずか一瞬の口づけが物足りなくて、もっと欲しいと思ってしまう――キス、してたら聞かれへんし、どうしたらええねん。ていうか、今、したな。二回目や。すごい――頭と心、そして身体が混線している。だが健琉が口を開く前に、周がぽつりと言った。
「……、何で、何も言うてこーへんねん」
「へ? 何が、」
「今度、も、あるんか、とか言うてたくせに」
「なに……、あ、」
 思い出した。健琉の部屋で初めてキスをした日、の――二回目以降のキスの話。
「夏休みやのに全然……なんも、ないし。一人で頑張るとか、いうてさ。急に……お前がそんなん、落ち着かんし」
 不貞腐れた顔をして、健琉を責めるようなことを言う、しかもその内容は『そういう関係』ならではの、不満。確かに周との間にそういう雰囲気や会話はできないものかと思いはしたが、いやいやいや、それっぽい空気て、こういうの、とは、ちょっと違う、よな……。一緒にいたいとか先に進みたいとか、そういう気持ちが自分だけのものではなかったのだと喜びたいところだが、今は困惑の方が先に来る。
「え、ええ、そんなん……、」
 『せっかく』の夏休みなのに、と、健琉もずっと思っていた。何も進展がないことを、歯がゆいとも思っていた。健琉だって、本当はずっと一緒にいたいのに、いられない状況にストレスを感じてもいた。だがそれを、周の方からこんな形で言われるとは思ってもみなかったし、健琉の方にだってそれなりに理由はある。
「だって、周の、…そういう、好き、ていうのがどういうんかわからんかったし、聞く機会もずっとなかったし、勉強かてお前がそんなにべったりでどうすんねんとかいうから、ひとりでも頑張らなあかんと思って……」
「またオレのせいか」
「せい、とかと、違てさあ、」
「アレは……、そやし、そんなんではお前のためにならんと思って、た、……から、」
 アレ――『べったり』。周が健琉を遠ざけようとして言ったものではないことは、ちゃんとわかっている。それを戒めに感じていたのは自分だ。自分でちゃんと考えて、ひとりでも頑張れるようになって、その上で周と一緒にいたい、ずっと一緒にいられるようにしたいと思った、だから特別講座もまじめに受けているし、遊びに行く約束もしないで勉強家の真似事をしてみたりもした。
 だが、周の『好き』の先――そういう欲は健琉にだけ、と打ち明けてくれたのは、つまり周だって身体的な意味も含んでの『好き』ということだ――を知ってしまった今、不意に浮かんだちょっと意地の悪い質問を、口に出さずにはいられない。
「……周のほうかて、オレしかいてへんのに、そんなん言うたん?」
「そっ、それとこれとは、別の話やし」
「別でもなんでも、オレは、周とべったりがええもん」
 そう言いながら腕を引き、周を背中から抱き寄せる。
「ちょっ、あかん倒れるて……、」
 崩れるように座り込む、が、周は素直に健琉の腕の中に納まった。周の肩に顎を乗せぎゅっと抱きしめると、汗のせいか体温のせいか、周の首筋はちょっとひんやりしていて気持ちいい。周の手が、恐る恐る探るように健琉のTシャツを掴んだ。
「……だって、お前は」
 周が呟く。
「ん?」
「お前は、オレだけと違う、やんか」

 *

「……、それ、は」
 周の『健琉だけ』に対する、『オレだけと違う』――要するに、健琉の対象の範囲、ということ。確かにそれは、周にだけ、という訳ではない。その手の雑誌の露出度が高いグラビアだってそうだし、スマホでちょっと探せば見ることができてしまう動画や画像でも、煽られれば反応する。
「その――大学生の先生の話とか。心配してたていうことはさ、お前がそういう状況になったら、反応してまう、てことやろ」
「は――反応、はまぁ、……するよ、けど、」
「ちゃうねん、それはええねん。そんなん――暑いときに喉渇くみたいなもんやし、水でもなんでも飲んだらええねんそれは。それが――まあ、イヤなんはそうやけど、あかんとかと違て……、お前だけやていうてんのは、オレの都合、やから」
 周の両手が健琉の肩に伸び、強くない力でそっと引きはがされる。周はちらりと上目遣いに健琉の顔を見て、やがて目を伏せ呟いた。
「……オレの都合だけで、お前のこと、縛りたないねん」
「……、」
 健琉は『周だけ』ではない、縛りたくない、だから『べったり』ではダメだという――なんでやねん。胸の内でこっそりツッコむ。
 健琉が周と一緒がいいと願うのは、別に『縛られている』からじゃない。
 喉が渇くのは当たり前のことで、水分を摂りたいと思うのは周も一緒で、周が健琉以外の何をもっても渇きを潤せないというのなら、それは健琉だって同じだ。それを『縛る』と言うのは、健琉が他の飲み物を飲みたいと思った時の話で――ああ、そっか、と健琉は気付いた。周は、それを心配している。
 そうなって欲しくない、という心配ではない――たぶん。
 そうなるかもしれない、そうなったときに、健琉が他の飲み物を選べるように、周のことを気にしなくてもいいように、気を回している。健琉には他にも選択肢があるのだと、言いたいのだ。
 ようそんなん考えつくな、と周は言ったが、――周もたいがい考えすぎやねん。
 
 肩に置かれたままの周の両手をそれぞれ掴んで優しく引き寄せ、俯いてしまった周の視線に入り込む。目が合うと、周は困ったように眉根を寄せた。思わず、ふふ、と笑ってしまう。縛られているとは思わない、だが、
「いい。オレ、周にやったら縛られたい」
 望んでそうある分には、周だって納得するだろう。
「……、意味、分かって言うてる?」
「お前こそ、分かって言うてんの? オレがどんだけ周のこと好きか。他の人なんてどうでもええねん、お前だけおったらそんでええねんて、前も言うたで。それに――ずっと一緒におるんやろ?」
「……うん?」
「ほな、喉渇いたって困らへんやん、なあ」
 そもそもは周が言い出した例え話なのだが、言葉に出してからなかなか際どいことを言ったな、と気づく。周の方もその意味が分かったのか、ふ、と吹き出し、恥ずかしそうな顔をして笑った。
「……、アホ」
「もっと言うて。おれ周にそう言われるん、好き」
「ほんま、アホやな、お前は」
「ん――そら、オレは体質、いうんか、そういうのは周だけ、ではないし、自分で――その、そういうんは、雑誌とか動画とかでもするしできるけど。オレは、周がええねん。周だけがええねん。そんではあかん?」
 健琉が伺うようにそう言うと、周は小さく首を振り、
「……あかん、く、ない……」
「うん」
 答えを聞いて笑顔で頷き、周の腕を引く。一回目よりも二回目よりも自然で、まるで当たり前のようにキスをした。

 一度啄み、角度を変えてまたすぐに重ねる。周が、ん、と喉の奥で声を漏らした。ふいに思いついて舌先で唇をつつくと、周の肩がびくりと跳ね、だがまるでそうすることを知っていたように、微かに唇を開く。そっと入り込むと迎えられ、お互いの意思のままに薄い舌が触れる――口の中は思ったよりも冷たくて、心地よさに没頭する。握り合っていた両手の指を絡め、けれどもそれはすぐに解いて腕を互いの背に回し、強く抱き合う。わずかな隙間――本当はTシャツの隔たりだって許したくない。にじり寄って、互いの膝がしらが下半身に触れる。耳や頬や首筋を染めた熱が、行き場を求めて身体の中心に集まってきているのは――お互いに気付いた。
「……、ちょっ、と、これ、どうしよ」
 わずかに唇を触れ合わせながら健琉がどうしようもなく呟くと、同じように周が答えた。
「ん……、あかん、な、今日はここまで」
「え、無理無理、暴発する」
「さすな。無理でも何でも、あかんて、ばあちゃん帰ってくるし」
「なんなんその鋼の精神、無理やって」
「そんな顔してもあかん、ちょっ、動くなアホっ」
「頼むし」
「頼むな! 言うとくけど、我慢してんのお前だけちゃうからな」
「わかってる、てかわかる、し、そうなんやって思てるし、そやし」
「そやし! 一回目は! ここじゃない! 絶対違う!!」
 ここ――周のばあちゃん家の、二階の、埃まみれでかび臭い、お世辞にもきれいと言えない、狭くて暑くて段ボール箱だらけの、部屋。周の気迫に思わず飲まれ、頷く。
「そ、そやな? 勢いは大事と思うけど、せっかくやのにもったいないな!?」
「もったいな……いか、どうかは、知らんけど、そう!」
 そっと身体を離し、ただ離れがたく手はつないだまま、どうにもならないものをどうにかしようと、二人そろって大きく息を吐く。なんとなく目が合って、同時に笑った。
「オレらほんま、こういう感じなんやな、よーわかった」
「ん。まあ、ええんちゃう、」
 さっきキスしてた時はええ感じやったのにな、と、思い出すとまた熱が再燃しそうで慌てて首を振る。恋人らしい、甘い雰囲気、というのはどうにも長続きしないらしい。それなら、――オレらはオレらなりに、『それっぽい空気』楽しんだらええやんな。
 親指で周の手の骨をなぞりながら、なあ、と周に呼びかける。
「……オレさあ、やっぱり、いきなり一人で頑張るとか、無理やってようわかったんやんか。夏休み入ってから、たぶん、三日くらいで」
 健琉が言うと、周はふふっと鼻で笑って、うん、と答えた。
「なに笑てんねん」
「や……、うん、やっぱそうなんかと思て。いまさらや」
「無理、したらあかんと思うわ、我ながら」
「うん」
「べったりでもなんでも、オレ、お前とおらなあかんねん」
「うん、オレも」
「オレ、やりたいことしかやらんようにできてるからさ」
「知ってる」
「ん、そやし、……その、北野先生のとこ、ていうか大学生? にお願いするんやったら、オレも一緒に行くし、周の足引っ張らんように頑張るから、……一緒におって」
「ん」
「周と一緒にやったら、勉強かて、やりたいことになるかなって思うし」
「うん」
 頷く周の頭上に、古いカーテンがふわりとはためく――熱い風が吹き込む。陽はずいぶん西にやってきて、まだ沈む気配はないが気が付けば夕方の色をしている。ばあちゃん、どこまで行ったかしらんけど、さすがにもう帰ってくるかな。その前に言うとこ――、
「ほんで、その――な」
「ん?」
「今日の、続き、ていうか、」
「あ、……うん、」
「……オレは、周だけやて、分かっといて欲しいなあと、思って。あと、周もオレだけて、確かめさせて。できれば――近いうち」
 健琉が言うと、周は健琉がいいように触っていた掌をくるりと返し、両手それぞれきゅっと指を絡めて――ぐいと自分の方に引き寄せた。
「オレも、したい。ちゃんと――できるかどうかは、知らんけど」
 その言葉を口の端に載せたまま、今度は触れるだけのキス――うん、と答えながらその口づけを受ける、それと同時に外から聞こえる、鉄の門扉が開く音。
「あ」
 チャラチャラと鍵がぶつかり、ガチャ、とドアハンドルを引き、おそらくカートを家の中に引き入れる金属的な音がして、
「ただいまあ、遅なってしもてえ」
 最後に、周のばあちゃんの軽やかな高音が響く。
 お帰り、と階下に向かって周が声を張り上げ、
「な、我慢しといてよかったやろ」
「さすがに気まずいしな」
「アホ、気まずいで済むか」
 そんなことを言い合いながら、手を取り合って立ち上がる。尻をはたくと、窓からの光に埃が舞った。
「うわ、すご。腹痛い匂いはせんくなったけど、暑いし汗すごいし埃も混ざってたらドロドロや。さすがに、あかんかったな、ここでは」
 ここですんのはやっぱり無しやな、という言葉を言外に匂わせてみる、が周は気付いたかどうか――たぶん、分かっていない。
「もう、片付けこんなもんでええやろ。窓閉めて、飯の前にシャワー使って。着替えとかはオレのがなんかあるし、そのまま着てって」
 すっかり『ばあちゃん家の片づけ』モードに戻ってしまったのがおもしろいようなつまらないような――だからもうちょっと楽しみたくて、木製の雨戸を閉めながら混ぜ返す。
「なるほど、彼シャツか」
「アホか。サイズ変わらんやろ」
「風呂、一緒に入る?」
「……入らへん」
「冷たい」
「冷たない。入ることがあったとしても、今日じゃないしここじゃない。絶対」
「結構こだわるんやな」
「……悪いか」
「悪くない。お前の知らんかったとこ、まだまだあるんやなと思って」
「オレも、お前の妄想とか発想の飛躍がすごいのは知ってたけど」
「すごいやろ」
「褒めてへん。ここまで酷いとは思わんかったし。ホンマ、知らんかったとこ、まだまだあるな」
 東西両方の部屋の雨戸を閉めると、部屋はすっかり暗くなった。階段の突き当り、半畳の廊下の上にある小窓の光を頼りに部屋を出る――最後に、もう一度だけ。周のTシャツの裾を引っ張って、振りむいた瞬間に口づける。目標は見過たず、予測通り唇に命中。ファーストキスの誤爆を思えば、ずいぶん上手くなった。周の身体がビクリと一瞬強張ったのは、きっと驚いたからだろう。
「……お互い知らんこと、もうちょっとわかり合おうな。近いうち」
 暗闇の中、さっきの約束を、なんとなく小声でもう一度確かめる。うん、と答える周の声も、つられたように小声になる。

 それがいつになるかはわからないけれど、近いうち――できたら夏休みの間に。
 幸い、高校二年の夏休みはまだ始まったばかり。

(了)

2+