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アホの横山とカシコの中田(1)

(1) 中田周(なかた・あまね)の弁当事情と横山健琉(よこやま・たける)の霍乱

 中田周はいわゆる『弁当男子』である。
 とはいっても、別に朝から揚げ物を作ったり卵を巻いたりするわけではなく、昨晩の夕飯の残り物を自分で詰めて持ってくる、という程度。これは中学二年の秋からの習慣だ。ただ、その晩の食事も高校二年に進級したこの春からは、家計の一本柱として遅くまで働く母にかわって周が用意することが増えたので、結果としては、自分で弁当を作っている、と言えなくもない。
 母は周が何を作ってもどんな出来でも美味しいと褒めるのでその評価はあてにならないが――母親の賞賛を額面通り受け取れないのは、そういう年頃、というには些か拗らせている事情もある――、同学年の幼馴染みは、腐れ縁とばかりにずっと同じクラスだった去年までは言うに及ばず、クラスが分かれた今年でさえ、毎日のように周の弁当をつまみにくる。自分の弁当は食べ終えた上で、だ。つまみ食いも見方を変えれば、手を伸ばす気になれる、絶望的に不味いわけではない、ということでもある。まあだからといって二切れしかない肉を一切れ取られるのはいただけないので、それはせめて玉ねぎにしろと叱るけれども。
 案外、やってやれないことでもないのだ。勉強と一緒――だがそれで、オレ結構いけてるやん、なんて調子に乗るような性格ではない。そもそもこれはあくまでも『手順が簡潔なレシピを見て』『指示通りの材料がそろっていれば』やれないこともない、条件付きなのだ。
 冷蔵庫に残っているものを見て、アドリブで軽く一品作る、なんてまずできる気がしない。家にあるものをうまく使える献立があっても、ネットで調べて出てきたレシピにちょっと変わった調味料が登場すると、それをわざわざ買うのは気が引けるし、じゃあその代わりに何を入れたらいいか、というのはもうわからない。入れなくても成立するのかどうかも判断がつかない。料理ができる人、というのは、そういう局面をそつなくかわせる人のことを指すのだ、きっと。
 料理の基礎を教えてくれた、『料理ができる人』であるところの祖母に言わせれば『そんなん経験よ』。長く続けていればそのうちできるようになる、ということのようだが、周が料理を始めて――高校二年生になって――三か月。包丁の扱いにはなんとなく慣れてきたけれど、料理のセンスは絶望的に身に付かない。
 たかだか三ヶ月、されど三ヶ月である。これが検定試験か何かの勉強だったなら、それだけやれば合格を狙える、と思う。でも料理はダメだ。今、食べられるものを作れているのは、祖母が買ってくれた初心者向け料理本に掲載されているレシピの出来がいいからで、材料や調味料の量、加熱時間なんかをきちんと守って作っているからだ。真面目で勤勉、それだけが自分のとりえだと思っているし、そのおかげで学校の成績もまあ悪くはない。だけど料理の才能はない――これは諦めではなく妥協でもなく、自覚と割り切りである。
 仕事が忙しい母に代わって周が夕食の用意をすることは中田家における『最適解』なので、家にいる間はこれからも周は夕食を作り続け、翌日の弁当を用意し続けるだろう。そしてその先に、レシピなんて見なくても、冷蔵庫の食材だけで美味しい料理を作る『料理ができる』周は、たぶんいない。
 味覚にこだわりがあるわけでもない。もっと効率的にできれば、とは思うが新しい料理を覚えたいなんていう向上心は特にない。料理を趣味にするほどの金銭的な余裕はもちろんない。周が料理を練習するのはひとえに、『一人で生きていくための備え』である。
 将来家を出たとして、自分だけが食べるためなら、特別美味しい料理でなくても、レパートリーが少なくても、火が通るべきものに火が通り、食材を無駄にせず、健康を害さず空腹を満たすことができれば、たぶんそれで充分なのだ。

 高校二年の中田周は、そんなことを考えている。

 *

 七月最初の木曜日、その昼休み。
 中田周はクラスメートの川島一樹と、どこか黄色い喧騒さざめく二年五組の教室で、机を挟んで昼食を摂っている。
 五組は女子の多い文系クラスで、男子は少々肩身が狭い。
 圧倒的に女子の権力が強いこのクラスでは、昼休みくらい教室を出て気分転換、なんて迂闊に席を外せば、群れがちな女子生徒に休み時間中ずっと椅子を占拠されるなんていうのはままあることで、食堂や部室、図書室やラウンジ、他のクラス――なんかに出突っ張りならともかくも、昼寝をしたいとか午後の授業の予習がしたいとか、昼休み中の用事があるのならば自陣の守りは固めねばならない。どうやら周の席は被害に遭いやすく、おそらくそれは自身がクラスの女子から『無害』あるいは『空気』と認定されているからだろうと判断している――昼休みに陣地を奪われたら最後、奪還はあきらめて図書室に避難するからだ。
 教室で過ごす平穏な昼休みを守りたいならば、まずは席を立たないこと。少しの離席ならすぐに戻る体でセッティングをすること。四限の授業が終わったら速やかに自席で食事を始めるのが良い。だから周と川島も、昼休み開始とほぼ同時に食べ始められるように、昼食の用意は怠らない。周は自分で詰めた夕食の残り弁当、川島はほぼ毎日コンビニ飯である。
 今日も川島の昼食は、コンビニの総菜パンが三つに五百ミリ紙パックのレモンティー。今は試験前の部活動停止期間なのでおとなしいが、地区ブロックでは中堅のサッカー部でレギュラーメンバーに選ばれている川島の普段の昼食には、これにおにぎりが二個加わる。高校入学当初は家で用意されていた弁当も、今や量が間に合わないため購入制になったのだと前に言っていた。
 これが周の家であれば、せめておにぎり二個くらいは自分で作るかもしれないが、中田周は川島一樹ではないのでサッカーもしないし、こんなにたくさん食べる必要もない。川島一樹も中田周ではないので、朝練もあるのにおにぎりなんか作っている時間はない――そもそも川島は料理をしないが。
 要するにこれはこれで、川島家にとっての『最適解』なのだ。

 周と川島は同じ中学出身、一年の時も同じクラス。去年なんとなくつるんでいたメンバー五人のうち、二年に上がると二人は文系、三人は理系に分かれた。五人は今でも仲は良いが、どうしたって普段の学校生活はクラスごとになる。特に肩身の狭い文系クラスの男子同士、無難に学校生活を送るため、周と川島はお互いがセーフティネットであり、暗黙の共闘者でもあった。

 *
 
 そうゆうとさ、と、二個目のパンを食べ終えた川島が言った。
「二限に聞こえとったやん、アレ、ヘァッピ・ベアースデェー・トゥー・ユゥ」
 どうにも胡散臭いアメリカンの発音で歌うので、吹き出しそうになって慌てて白米を飲み下す――今日は白飯に昨日作りおいた肉じゃがを乗せてきた。毎日同じメニューでも誰も困らないのだから、日持ちのするおかずを大量に作っておけば楽なのだと気づいたのはここ最近である。
「ん」
「あれ、やっぱ横山やて。海原からメッセ来てた」
「ああ……、」
 周のクラスでは数学の授業中、廊下に突如響いた誕生日を祝う合唱、それに続く拍手と歓声。隣のクラスではない、階段を挟んで向こうの、たぶん三組あたりから聞こえている、と気づいた時からうすうすそんな気はしていた。二年三組は理系クラスである。
「政経のタダセン誕生日やってんて、誰から聞いたか知らんけど」
「へえ」
「笑わんやんあの人」
「うん」
「そんで、笑てるとこ見てみたい、ゆうて、クラス巻き込んで大合唱」
「あー……、言いそう」
「アホやな、ほんまアイツ」
「アホや」
 黙っていれば――いや、動かなければそれなりに顔もスタイルも整った、いわゆるシュッとした男前なのに、言動がそこはかとなく残念な『アホの子』。授業中に音頭を取って教師の誕生日を祝う、その姿を想像するのはあまりにも容易くて、周は呆れながらも笑ってしまう。
 話題の主――横山健琉は、同中出身で、今年はクラスが分かれてしまった五人グループの一人。そして周の、幼稚園来の幼馴染である。
 横山といえばアホ、アホといえば横山。昔からその類のエピソードには枚挙にいとまがなく、いつしか付いたあだ名が『アホの横山』だ。横山には兄と姉がいるが、そう呼ばれているのはこの末っ子だけである。そして、小学校の六年間、中学校の三年間、おまけに二年保育の幼稚園と高校一年、足して十二年の間、そのアホの手綱を握ってきたのが『カシコの中田』――中田周。母親同士が中学時分からの友人ということも手伝って、横山と周は押しも押されぬニコイチ、誰が呼んだか『アホの横山とカシコの中田』である。カシコ、と呼ばれるほど自分の頭に自信はないが、持ち前の真面目さと勤勉さのおかげで子どもの頃から成績は悪くない。その上で、こざっぱりと短く整えた黒髪、意志の強そうな黒目勝ちの目、大人しいが線が細いわけでもなく、学校指定の制服を着崩しもしない――というのが友達から与えられる周の見た目への評価である――そんな出で立ちで横山のアホを制止していれば、カシコの称号は自ずと与えられてしまうのであった。
 今年も同じクラスだったなら、計画を聞かされた時点で『笑てるとこを見たい』んならせめて授業が終わってからにしろ、くらいは言ったし、横山もきっとそうしただろう。
 だが、今年はクラスが違う。こんなばかばかしい計画も、
 ――止めるも何も、聞いてへんし。
  なんて、ちょっと寂しいような気になって、はっと気づく。いつだって一番に打ち明けられて、周が無茶を諫め横山が妥協する、それが、やっぱりまだ当たり前のことだと思っている自分。それは一年の間までの話だ。今年は――今年からは、そうじゃない。二年に進級してから、もう三か月も経っている。当たり前では――あかんのや。
「……、」 
 周は何かを取り繕うように小さく咳払いをして、弁当に箸を伸ばした。と、
「おっ、噂をすれば」
「なんやねん噂て」
 不意に聞こえた声に弾かれ慌てて顔を上げる。
 嫌そうに眉を顰めながら、それでも目と口元は笑っている。遠慮もなしに我が物顔で他所のクラスに立ち入って、両手をポケットに突っ込んだままわき目も振らず一直線に周に向かって来る――横山健琉その人である。
 子供の頃からのゆるい癖毛を、まるでライオンのたてがみみたいに後ろに流している。手を入れているわけでもないのに整った眉、くっきり大きい二重の目とバランスのいい顔のパーツ。昔は周よりも小さかったのに、中学の間に勢いよく育ち今はそれなりに見栄えのする体格で――春に測った身長は周の方が一センチ高かったが、もう抜かれているかもしれない――、それを包む制服の開襟シャツの下には派手な黄色のTシャツが透けている。スラックスの裾は折り上げていて、上履きからほんの僅かにのぞくスニーカーソックスはやはり派手な蛍光の黄色。それが妙に様になっているのだから恐れ入る。女子の多い文系クラスの昼休みのざわめきが、この時一瞬違う色になるのを周は知っている。
 周の真横で立ち止まり、お、肉じゃが、と呟く横山を見上げて、
「授業終わってからにしろよ、ああいうのは」
 終わった話でも一応は釘を刺す。クラスが離れても、他に誰もいないのなら今はまだ、それは自分の仕事だと周は思っている。誰に迷惑をかけるでもなければ『アホやな』で済むが、授業時間内というのはダメだ。
 横山もきっと周がそう言うのを知っていて、
「タダセンてサプライズに弱そうやん、そやしあのタイミングがベストオブベストや。計算づくや」
 己の正当性を主張しながら、いつものように眉尻を下げてへらっと笑う。
 この表情に、周は弱い。
 横山の突飛な行動は、多少の迷惑をかけることはあっても他人を傷つけない。そして、きっと心底楽しんでいる。そうでなければ、こんな笑顔は浮かばない。この顔を見てしまうと、それ以上は何も言えなくなる――周としては、『ほなまあええか』とも言わないのだけれど、『誰かに迷惑をかけなければ』『怪我さえしなければ』まあええか、という気はしている。
 計算なんかしてへんやろ、とげらげら笑う川島を尻目に、
「…ていうか、なんか用か」
 気を取り直して周は横山に尋ねた。
 取り立てて用事がなくても、横山が五組に遊びにくるのは珍しくはない、というよりも毎日のことだし、いつもなら周も尋ねない――が、今日はなんとなく、そんな気がしたのだ。何か言いたそうな、あるいは、聞いてほしそうな気配。
 一瞬、横山の目が揺れた。
 ――なんや?
 いつもと違う、何か引っかかる表情。
「ああ、うん、そう」
「何、」
 海原や宮川――五人グループのあと二人が、文理共通の教科書や資料集を借りに来ることはたまにあるが、基本『置き勉』の横山に限ってそれはない。とすると――何だ?
「あの――、中田さ、今日バイトないやろ」
 横山にしては珍しく、歯切れが悪い。周のアルバイト先は、自身も以前通っていた小学生向け学習塾の採点助手で、毎週火曜日と金曜日。だがそんなことは、いちいち確認しなくても横山だって知っているはずだった。なぜならそこは、小学生の頃二人で一緒に通った教室なのだから。
「うん?」
「あ――と、その、……教えてほしいこと、あって」
「は? ……何。……え、勉強?」
「――うん、そう」
「勉強?」
 頷く横山に、聞き返したのは川島。
「お前が? 試験前に?」
 周も思わず言葉をなくし、川島と目を見合わせる。
 確かに今は一学期の期末試験前で、部活動も休止になる、そんな時期だけれど――横山が、定期考査に備えて自分から進んで『勉強』しようとしているなんて。
「明日雪でも降るんちゃうか」
 川島が呟く。今年は空梅雨で雨さえ少なかったけれど、天変地異の前触れならば、そんなこともあるかもしれない。
 らしくない、なんて言葉ではとても言い表せない――横山の『用事』はその程度には意外で、不自然で、違和感しかない。
「――ええけど、」 
 驚きに失った声を取り戻し頷くと、
「ほな、また放課後」
 横山はなぜか慌てた様子で、二年五組の教室を出て行った。
 
 周が中学二年の秋、母親が突然料理をしなくなった。整理整頓されていた家の中も瞬く間に荒れた。それでも息子に食べさせなければならないことは理解していたのか、見切りの惣菜や弁当を買ってはくれていた。中学は弁当だったが、スーパーやコンビニで買ったそれを持ち込むのは校則で禁止されていた。だから周はその惣菜を、自分の弁当箱に詰め替えて持っていくことにした――それが『弁当男子』化のきっかけだ。
 少しは大人になった今ならわかる。当時の母親は『そういう時期』だったのだ。その後少しの間病院にかかり、職場が変わり、一年もたたないうちにまるで憑物が落ちたように、以前と同じきれい好きで働きものの母に戻った。今母親が周の料理を手放しに褒めてくれるのは、あの頃の埋め合わせ――もっと言えば、贖罪のようなつもりでいるのではないか? 顔も中身も母親によく似ていると言われる周だから、自分に引き寄せてそんな風に思ってしまう。母親の賞賛を額面通りに受けとれないのは、そういう理由もある。
 あの時、急に変わってしまった母親のことを、『今はわからんで腹立つか知らんけど、恨んだらあかんえ』と祖母は言い、周は頷いた。豹変の理由がわからない恐怖や不安はもちろんあったけれど、それでも、大丈夫だと思った。わからないことなんて昔からたくさんあったし、その全てに答えがあるわけではないことも知っていた。
 そして何より、自分のすぐそばに、ずっと変わらないものがあったから――中学の時も三年間同じクラスだった横山は、見切りの惣菜を詰めただけの弁当でさえつまみ食いをした。母親が作るふわふわの出汁巻が、出来合いの弁当の固くて甘い玉子焼きに変わったあの日も、何も言わず、何も変わらず、そしてそれは、今でもずっと。
 
 なのに今日は、それをしなかった。弁当に肉じゃがが入っていることに気づいていながら、手を伸ばさなかった。

 今朝通学で一緒になったときは取り立てておかしなところもなかったと思う。二時間目の授業中には教科担任の誕生日を祝っていたのだから、これも横山にとっては通常運転だ。
 そこへきて、『勉強を教えてほしい』だなんて柄にもないことを言い、おまけにつまみ食いをせずに帰っていった、この昼休み。横山の様子がおかしくなった、その理由が周には全く思い当らない。心臓のあたりが嫌な音を立てる――困惑、というには少し、動揺が過ぎる。
「何やねん、急に……」
 しかしその動揺はなんとか押し隠し、ただ呆気にとられた、という体で呟くと、川島がハハッと笑った。

(2)中田周のいくつかの不安と横山健琉の火傷の話≫

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