アホの横山とカシコの中田(3)
(3)中田周と横山健琉、それぞれの選択肢
*
五月以降、しばしばアホはやらかすが、怪我をするような羽目には陥っていない。この火傷も痕にはならないのなら、まあよかったかな、と周が頷くと、
「……、」
横山はしばらく右手の二指をくっつけたり離したりして――それからおもむろに立ち上がった。
「――なんか喉乾いてきた。飲むもん取ってくるわ、中田も飲むやろ」
昔は――少なくとも小学校の頃までは、下の名前で呼び合っていたはずなのだが、いつの頃からか横山は、周のことを名字で呼ぶようになった。だから周も、それに倣って横山と呼ぶ。
「ああ、うん。ありがと、水でいいし」
何も言わなければ当たり前にジュースかアイスコーヒーが出て来る家だ。そういう風に構わなくていいという言外の言葉を、横山はたぶんわかっている。横山はアホだし自分の怪我には頓着しないが、周の言うことは素直に聞くし、地頭の良さ由来なのか察しは良いほうだ。
「オッケ」
横山の返事は、バタンと閉じたドアで尻切れになった。
いつもと変わらない、ごく自然な態度――を装っているのが逆に不自然に見えて、周はふうっと溜息を吐いた。
今、横山が何を考えているのか、周にはわからない。
これまでだってわかっていたわけではない。ただ、気にならなかっただけなのだ。昼休みからの横山のおかしな態度を目の当たりにしてしまった今、横山が何を考えているのか、何を聞きたいのか――『わからない』ということが急に不安になってしまって、落ち着かない。
後ろ手をついて首を巡らせ、もう一度大きく息を吐く。
久しぶりの横山の部屋。
周の家は狭く自分の部屋もない有様なので、同じように横山を誘うことができない。自分の家と横山の家――その違いや家の事情がわかってきてから、周はだんだん横山の家に行かなくなっていった。高校生になってバイトも始めたし、宿題も増えたからあまり遊ぶ時間もないし――そういう体で。横山はそういう周の気持ちを知ってか知らずか――察していたような気もする――自分の家に誘わなくなって、その代わり周が放課後に図書館や家の買い物に寄るときは、ついて来るようになった。
初めは、オレもついてっていい、とお伺いを立てていたが、もういちいち聞くなや、と周が言ったので、いつしかそれは二人にとってごく普通の行動になった。周にバイトがあるときは横山も他の用事をしたし、放課後それぞれに委員会の用事が入ることもあるし、横山の買い物に周が付き合うこともある。一緒にいるのもそうでないのも、どちらも含めて、それが高校生になった周と横山の――こればかりは『当たり前』でいいはずの――距離感だった。
だから今日みたいな誘い方をする横山は、やっぱり変なのだ。
部屋の前で少しバタつくような足音がして、それからゆっくりドアが開いた。盆など使う訳もなく、氷水が入ったグラスを両手に持った横山がそろそろと入ってくる。後ろ足をひっかけて、器用にドアを閉める。開けるときはハンドルを足で操作したに違いない――開けてと言えばいいのにそれを言わないところが、また余計に不自然に思えた。
「ん」
「ありがと」
礼を言ってグラスを受け取り、そのまま口をつける。氷がパキパキと音を立てた――向かいに座って同じようにグラスを傾けていた横山が、なあ、と周を呼んだ。それと同時に水を飲みこんだごくんという音が、やけに大きく聞こえる。
「――何、」
横山がやたらとおかしな態度をとっていた原因、こちらから切り出してもはぐらかした本題、『聞きたいこと』。思わず身構える。
が、横山はいかにも気にしていないふうでさらりと問う、
「進路希望調査票、もう出した?」
「――は?」
逆に普通過ぎて考えもしなかった質問が飛んできて、周は二、三度、目を瞬かせた。
「え、まだやけど」
出したも何も、用紙が配布されたのがこの月曜日のことで、提出期限は一学期末、まだ先だ。
「どっか、決めることは決めた?」
「いや、まだや」
「え、そうなん?」
今度は横山が意外というような声を上げる――なんやねん、一体。教えてほしいこと、て、まさかこれ?
全くの拍子抜けだ。あれだけ勿体付けといて、こんな話なら昼休みでもできたし、などと思いながら、周はいくぶんか肩から力を抜いた。
「うん。まだ……やけど、まぁ、国公立しか無理やから選ぶとこないわ」
「あー……、」
「浪人はできんし」
「なんか言うてはんの?」
「ではないけど」
「そうか」
横山は両手でグラスを弄びながら、何か考えるように、へえ、と呟いて、黙り込んだ。
「……横山は? おじさんらの学校とか、やっぱそういう?」
横山家の兄と姉は同じ私立大学を卒業しているが、そこは両親の母校だと前に聞いていた。いわゆる有名私学で、学風と伝統を守ると称して卒業生の子弟子女入学という枠がある。もちろん、勉強無しで入れるわけではないのだが、ハードルが幾分か下がるのはその通りだった。
横山は、あー、それな、と呻くような声を上げ、微妙な笑顔でグラスをテーブルに置いた。
「まぁ……そういうのもある、かも、やけど、……オレもまだ、どことか全然考えてへんわ」
思えば横山と、こういう話はしてこなかった。高校進学の時も、二年次でのクラス分けに必要な文理希望も、『一番近い』とか『そっちの方が成績がいい』とか、そんな理由でほぼ自動的に決まっていたので深く話す必要がなかったのだ。ああ、そんでか、となんとなく合点がいった。横山がおかしな態度で話をはぐらかしたのは、『進路の話』なんて改まって慣れないことを、切り出しにくかったからなのかもしれない――そういうとこ、あるからな。こいつ。
横山のことだから大学へは行かないと言い出しても不思議ではなかったが、『どことか』というのはつまり、一応は進学のつもりでいるのだろうか。周は、ふ、と笑って言った。
「お前、真面目にやったらどこでも行き放題やん」
選択肢と可能性が、横山にはたくさんある――自分とは違って。ただし、器用に赤点のちょっと上を狙うような今の学習態度ではダメだ。
「真面目に、かあ」
「真面目に、や」
横山の祈るような呟きに、同じ言葉で応える――と、また横山が思いがけないことを言う。
「真面目にやったらさ、オレかて国公立狙えるかな」
「はぁ?」
「大学行くんやったら、オレ中田と同じとこがいい」
その瞬間、どくん、と心臓が跳ねる。思考が止まる。は? アホか、『何言うてんねん』――という言葉は、そのまま口から出た。
「そんなんで決めんなや」
選択肢も可能性もたくさんある、その中の一つである、とは言えそんな理由で選ぶような道ではないように思う――いや、止めはしないけれど。いやいや、止めるべきか?
まったく考えもしていなかった横山の発言に動揺してしまう。顔が熱い。赤くなっていないだろうか、いやこれは暑さのせいだ、周は慌ててグラスをあおった。氷は半分ほど溶けて、テーブルには水たまりができている。
「ええやんけ、オレ本気やし! なあ、志望校決めたら一番に教えてや」
「――決めたら、な」
「絶対やで」
さっきまでのどこか悩ましげな表情はどこへ行ったのか、横山はいいこと思いついた、と言わんばかりの――要するにいつものアホをやらかす前の笑顔で、満足気に頷いた。
*
何かを選ぶ時、横山は昔から「中田と同じのにする」と言うことがあった。自分で決めるのが面倒なのか、周のチョイスを信頼しているのかはわからないが、そういうことが重なると、周もだんだんとそれを見越して、横山の好きそうなものを選ぶ癖がついた。遠足のおやつとか、セレクト給食とか、ファストフードのハンバーガーとか――けれど、今回ばかりは横山の好みを見越して選ぶわけにはいかない。
周の家は、困窮してはいないものの裕福ではない。周が幼稚園に行く前に両親は離婚し、以来母親の実家の近くで母子家庭生活をしている。幸い顔つきも性格も母親に似ていたため母方の実家からは可愛がってもらっているが、そこに経済支援を求めるのは母親のポリシーに反しているようだ――あんたの学費くらいどうとでもなるから、と母親は言う。
けれど、お金は大事だ。
だから周は、学費が高い私立にはいかないし、受験料だってバカにならないから滑り止めも受けるつもりはない。正真正銘の一本勝負を決めている。
一方横山の家は両親共働きで兄と姉はすでに自立している――金銭的な余裕がある。両親もきょうだいも同じ私立大学を卒業しているし、横山もそこを目指すのがきっと一番楽だろう。もちろん、もっと他に選ぶことだってできる――選択の余地がない自分を不幸だとは思わないけれど、判断の基準が自分自身のみであるならば、それはきっと幸せなことだ。横山はその幸せを享受できる立場にいる。
なのに、進学先の決定を周に託して、件の私立大学の子弟枠に比べれば数段難しい国公立を目指すなんて、目に見えて険しいとわかる道をわざわざ選ぶ必要がどこにあるのか――どこかに、あるのか?
横山は本気だと言った。一度決めたらやり通す性格の横山だから、本当に周と同じ大学を受けるつもりなのか。どこにいたって自分を貫く姿勢を、周はただのアホだとは思わない。案外、やってやれないことはないのかもしれない――もし、そうなったら。
きっとここまでだと思っていたこの関係が、この先も続いていくとしたら。
*
「なあ」
「――、え、何」
あらぬ方を見ながら考え込んでしまった周を、横山の声が呼び戻す――あかん、あんまり考えんとこ。周は小さく頭を振って、視線を正面に戻す。
と、今度は横山の方が視線をノートの上あたりに落とし、両手で頬杖をついてぽつりと問う。
「今のクラス、おもろい?」
「……、なんやねん急に」
付かず離れず話題がどんどん移り変わるのは、横山との間ではいつものことだったが、それにしても今日はいろいろ聞いてくるな、と周は思った。『教えて欲しい』というのは、こういう色々のことでもあるのか? だとしてもその一々が、あんなに勿体ぶるような話ではないのだけれど――まあ、人前では話しにくいことも、あるんかもな。
「普通や」
「男少ないやん」
「うん?」
「モテたりとか、ないん」
「……モテてもしゃーないやろ。川島なんか動物園や言うてるしな」
何を思ってそんなことを聞いてくるのかは知らないが、周は普段感じているままに即答した。女子にモテるとかモテないとか、自分には必要のない話だった――クラスメートの川島なんかは四月の初めこそそんなことも期待していたようだが、早々に理想と現実の乖離を思い知ったとぼやいていた。
「動物園て!」
「川島がよう言うてる、ライオンとかトラとかゴリラとか――失礼な話やな」
「猛獣一択やん……。ええ、みんながみんな、そんなんなことないやろ」
「オレはようわからん。ただオレらは大人しいパンダみたいなもんやな、とは思う」
「希少動物か」
「そう」
周が頷くと、横山は頬杖をついたまま一瞬考えこんで、それから吹き出すように笑った。
「パンダかー、ええやん、パンダ。かわいいし」
何がツボだったのか、ふふ、と肩で笑って、それから言った。
「オレ三年でブンテンしよかなあ」
文転――文系に転じる、つまり理系クラスから文系クラスに移ること。
「はあ? 何を言うてんねん」
「そっちの方がおもろそうやし。今のクラスは、つまらんもん」
人によって科目の向き不向きというのはある。三年でコースを変える者は毎年何人かはいると聞いているが、横山の頭の作りは圧倒的に理系向きだと思う。つまるつまらないで選ぶことじゃない。
「それこそそんなんで決めなや。てか、宮川も海原もおるやん」
「お前がおらん」
――ドクン。
ぼやくような横山の言葉に、落ち着いたはずの鼓動がまたしても弾む。ごくりと喉を鳴らしたせいで、返事が乱れた。
「――な、んやねん、それ」
「あいつらにも、中田がおらんとパッとせんなて言われるもん、オレ。自分でもそう思うし」
「……、」
二年保育のそれぞれに一クラスしかなかった幼稚園はともかく、小学校の六年間、それに中学の三年間、周と横山はずっと同じクラスだった。横山は昔から納得できなければ動かない頑固なところがあり、一方目を離せばしょうもないことをする、いわゆる『いちびり』な子どもだったが、なぜか周の言うことだけは素直に聞いた。ずっと同じクラスだったのは、教職員の意向もあったのだろうと今は思う。よかった周とまた一緒や、という横山の言葉が単純に嬉しかったし、横山の母親からもウチのアホ頼むわ、周くんおるなら安心や、なんて言われて、それがどこか誇らしかったりした。
初めてクラスが分かれた四月からこの三か月の間、周は葛藤の中にいた。正直に言えばまだ、自分の取るべき態度が定まっていない。落ち着いていない――横山のたった一言で動揺してしまう程度には。けれどそれは周だけの話だ。横山と言えばクラス発表の時に、あーやっぱりオレ理系か、と、いつもの眉尻を下げた顔でへらっと笑ったくらいで――だから横山が、周と同じクラスではない現状をどう思っているかなんて全く知らなかったし、考えたこともなかった。今、初めて聞いた。
――オレがおらんとパッとせんて、何やねんそれ。
と、尋ねてもいいのだろうか。さっきから――いや、もっと言えば今日の昼休みから、横山の態度や言葉に揺さぶられている自覚がある。『教えてほしいこと』というのは進路の話じゃなかったのか、横山が今どういうつもりでこんなことを言うのかわからない、だからといってそれを確かめたら、藪の中の蛇をつつくことになりはしないか?
あっ、と横山が声を上げた。
「ほな中田が理転したらええねん、物理でも化学でもオレが教えたるし」
――なんでやねん。
「できるか!」
「できひん?」
「できひん」
「できひんか~」
横山は呻きながら頬杖を解いて、ノートに突っ伏した。
「……、」
その一瞬、周は見てしまった。今にも涙が溢れそうに揺れる、横山の目。これほど如実に語るかというほどありありと見て取れる不安の色。ノートにうつ伏せたのはそれを隠すためなのかとすら思う――お前、そんな顔すんの? 知らんかった。
ざわざわと騒いだ胸のあたりが、今度は焦るような苦しいような、混乱した何かでいっぱいになる。様子がおかしいのは横山の方だったはずなのに、さっきから重ねられる質問のせいで――いや、横山に特別の意図はないだろう、受け取る周がその質問のいちいちを関連づけてしまうせいで――今や周の方がすっかり挙動不審だった。
――いや、待て待て。何やねんそれは。
クラスが分かれてしまったことを、今更寂しいとでも思っているのだろうか? 文転だの理転だの、冗談めかして案外本気ということは横山にはよくあるが、まさか今度もそうだというのか。
だけどそれを――横山がそばにいないことを不安に思っているのは、自分の方のはずだ。周がいなくても相変わらずアホをやらかして、火傷までしても平気な顔の横山が、今更――そう、今更、そんな表情をする道理がないのだ。ない――やろ?
「……なあ、」
周は小さく息を吐き、動揺を宥めて――それから目の前に転がっている癖毛のつむじに向かって呼びかける。
「なに」
どこかふてくされたような声で、横山が答えた。
「お前さあ、……そんなオレにべったりで、どうすんねん」
自分のことは棚に上げ、茶化した体で言う――どうすんねん、てどうするんやろ、どうにかせなあかんのは横山じゃなくてオレの方やのに。
周がいないとパッとしない、とか、寂しいとか――自分はともかく横山がそう感じるのは、きっと気のせい、もしくは――今だけだ。横山はそれに気づくべきだと思う。
横山が、むく、と顔を起こした。
まだ少し揺れるような目でまじまじと周を見つめ、
「イヤか?」
と――真顔で問う。
「へ、」
「中田は、イヤなん?」
「……や、別にイヤ――ではない、けど、そういうんと違て」
重ねて問われ、周が慌てて答えると、
「イヤやないんやったら、ええやんけ」
唇を尖らせて抗議するように、けれどどこか得意げに、横山が答える。
――ええ、んか?
イヤではない。無謀な計画を最初に打ち明けられるのも、その行動のいちいちを心配し、怪我をすればその世話を焼くのも、一緒がいいと言われるのも、弁当をつまみ食いされるのも――横山にとってそういう自分でいられることが、周は嬉しいのだ。別のクラスになった今、正直に言えば寂しいし、物足りない。
そして、それはきっとこのままでは――あかん、と思う。
――オレはええねん。そやけど横山は。
だから周は気付かないふりをして目をつぶって、今だけだと自分に言い聞かせて、自分に言い訳をして――だけど、その横山が言う、『イヤやないんやったらええやんけ』。イヤでは、ないのだ。それなら。
――あかん、これ以上ツッこんだらわけわからんくなる。てかもうなってる。
周は小さく頭を振って、思考の迷路からあっさり引き下がった。今は試験前。余計なことを考えたくない。
「……いや、……まぁ、ええけど」
そう言いながらグラスを手に取る。氷はもうすっかり溶けて温くなっていて、周りの水滴もずいぶん乾いていた。
水を飲み干す、その一連の動作を横山がじっと見ている――その目はもう揺れていない、そう気づいた次の瞬間、視線が絡む。
「…、」
「……、」
妙にいたたまれないような落ち着かない気持ちになって、周はグラスを置いて目を逸らし、そのまま腕時計を見遣った。時刻は六時前。窓の向こう、木々の間に見える西の空は、そろそろ夕暮れの色。横山の『教えてほしいこと』が今の一連の質問で片付いたのならば、あとはもう少し数学の問題集を進めて、横山の母親が仕事から戻る前に家に帰って、夕飯を作って――なあ、と横山が言った。
「なに――」
反射的に返事をして顔を上げ、いつにない真剣な横山の目に射抜かれ息を飲む。
呼ぶだけ呼んで横山は、一瞬迷ったように目を伏せ――今更珍しい顔ばかり見るな、と周は頭の片隅で思った――、それからやっと、意を決したのか口を開いた。
「中田さ、……キス、したこと、ある?」