アホの横山とカシコの中田(5・完結)
≪(4)中田周の未来予想図と横山健琉の告白
(5)中田周と横山健琉のアレとソレ、これまでとこれから
*
横山の両手が顔から離れ、勢いをなくしてすとんと座り込んだその正座の膝の上に、力なく落ちた。
「言うてしもた、はは、まあ、ええか」
横山が、珍しく口元だけで小さく笑う。
「……、」
壁際に追い詰められた周は、今になってようやくまともに横山の顔を見返した。膝を立てて座る周よりほんの少し高くて、見上げる形になる。部屋の灯りを背にしていてもはっきりとわかる、まっすぐに周を見つめる真剣そのものの眼差し――周が問い返す前に、横山が、あのな、と続けた。
「オレの好き、は友達、やけどそういうんだけじゃなくて。そばにいたいとか、いてほしいとか、触りたいとか、……キスしたい、とか、そういう、好き。もう、ずっと前から」
その目が、周に問う。お前は? ――オレは。周はまだ、答えていない。けれど横山は、きっともう確信している。
「……、」
何も考えがまとまらず、口を開いても、言葉が出ない。思わず目を逸らす――だって、そうやんか。横山もオレのこと、なんて、そんなん信じられへん。そんな、オレに都合のいい話あるわけないし。絶対ない。絶対、気のせいか、勘違いや。
「気のせいでも勘違いでも、ないで。言うとくけど」
「はっ?」
まるで頭の中を読まれたみたいなセリフが俯いた頭の上に降ってきて、心臓が跳ねる。弾かれたように顔を上げ、
「なん、で、――思てること、わかるねん」
あり得ないとわかっていながら呟くと、
「周のことはわかる。愛や」
そう言って横山はいつものように――眉尻を下げて、へらっと笑った。頬が、指先が、心臓が、吐く息が、すぐそばに感じる横山の体温が、熱い。
「……、アホか。そうや、アホやったな、お前は」
ふいと視線を落として、口元だけ無理に笑って、周は答えた。横山が本気で言っているのはわかる。そういう冗談は言わないのだ。茶化してこの場の空気をごまかしたいのは、周の方。
と――俯いた周の顔を下から覗き込み、無理やり正面から視線を合わせて、横山が言った。
「なんでもええ。オレは、周のことが好きや。めっちゃ、好き」
「……っ、」
逃げても逃げても追いかけてくる。正面から顔を見るのだって久しぶりだと思ったが、こんな至近距離でその目を覗き込むなんて、十年以上一緒にいても初めてだと思った。影になっていてもわかる、どこか柔らかい瞳の色、二重のくっきりした、優しい目。そんな場合じゃないのに、心臓はずっと駆け足で痛いほどなのに、一周回って目が離せなくなる。
周の目を見たまま、なあ、聞いて、と横山は言った。
「オレら、今までずうっと一緒におるやんか。そやし、これから先も、ずうーっと一緒におるんやと思ってた。大人になってさ、周が、彼女できたりとか、結婚したりとかで、幸せになるんやったらそんでええなって、オレがその幸せ守るんやって、オレの好きってそういうのやって、勝手に――思ってた」
「――……、」
「けど、」
ほんの一瞬視線を落として、息を吐いて、すぐにもう一度周の目を見た。
「あかんかってん、今日の――四限の前、かな。その、岩井さん、の話、聞いて。お前が、誰かのもんになるて――や、物ではないけど、誰かと付き合うとか、そういう相手がいてるていうのが、急にリアルていうか、そんな感じで思い浮かんでもうて――考えたら、ものすごイヤや、って思って」
横山が聞かされた与太話――何やっけ? 今は付き合ってないけど、大学は同じところに行く約束をしてるとかなんとか。今更どこから出てきた話かは知らないが、それを聞いた横山は、すぐに周に確かめようとした――『教えてほしいことがある』。春休み中悩み続け、隠すことに決めて三か月、我慢を重ねてきた自分とはずいぶんな違いだ。
「あの話は、でも、嘘、ていうかガセていうか……、」
「や、うん、それはもう、今はわかった。けど、聞いたときはさ。オレそんなん聞いてへん、ていうのが、なんか……ショックていうか、不安? 周のこと知らん、わからんてこんなんなんの、初めてやった」
それは、周も同じだった。横山のおかしな態度の理由がわからなくて、わからないことが不安で、わかっているのが当たり前だと思っていた自分に気付く。聞いてもはぐらかしたのは横山の方だけれど、ここへ来てみればその態度も、仕方のないことだと思えた。
「やしもう、そうなったらいろんなこと考えてしもて。周てめっちゃ優しいやん。相手のこと別に好きじゃなくても、付き合ってって言われたら付き合うかもしれんやん。でもお前オレの面倒ばっか見てくれてるからさ、高校の間は付き合うの無理やし卒業して大学行ってからにしよう、とか、あるかもしれんやん。そしたら、彼女の方もさ、わかったほな約束にキスして、とか言うかもしれんし、してしまうかもしれんやん、て――もう、そういうのが止まらんくなってしもて」
――かもしれん、ばっかりやな。周は思わず吹き出してしまった。自分だってほとんど同じようなことをずっと考えているのに――そう、同じなのだ――それは棚に上げて、
「飛躍しすぎやろ、それ」
と周が小さく笑うと、目の前で横山は、つられたように微笑んで、
「そんなん考えてまうくらい、誰にも渡したくないて、思たんや」
強い光をたたえた視線を、周のそれに絡ませた。
「……、」
「でもな、オレだけイヤや思てたって、それはあかんから。怖いけど、ちゃんと周に確かめなあかんて、あの話がほんまかどうか、もそうやし、これから先のことも、やっぱちゃんと考えなあかんのやなって、思って。オレは、――だってどうしたって好きなんやもん。そやし、この先どうやったら周のそばにおれるんかなって――おって、ええんやんな?」
問いかける言葉とともに、横山の瞳が揺れる。周はまだ、答えていない。
横山は――アホやけど、やっぱり、違うんやな。
行動はいつも突拍子も無いが、まっすぐ揺るがないものがその芯にある。いろんなことを、ちゃんと考えている。そんな横山が、周にはとても眩しくて、大切で、愛おしい。
カシコ、と呼ばれてはいるけれど、自分がそうじゃないことは自分が一番知っている――そういう風に自分自身を作っている自覚がある。横山の手綱を握り、構って世話をして、そうしていれば周りからも、横山のそばにいていいのだと認めてもらえる。『アホの横山とカシコの中田』――本当のカシコは、周りからの評価なんて気にしない、確固たる自分を持つ横山で、自分の欲を満たすためだけに優等生のような顔をしている自分の方がアホなのだ。
それでいい、邪魔をしたくない、と言いながら手を離せずにいるのは、本当は置いて行かれたくないからだ。本当は、ずっとそばにいたい。いてほしい。自分はわかる――でも、横山は、なんで。
*
ゆっくり口を開く。横山の視線がそれを見つめる。待っている。周は、く、と喉を鳴らして、やがて口をついた言葉は、少しかすれた。
「なんで、なん」
「なんで、って、何」
「……オレ、なんか、お前にそんなん言われるような――ええもんちゃう、し」
横山の言葉を信じない訳ではない。そういう嘘はつかないのも知っている。気のせいでも勘違いでもないという言葉を、信じたい。ただ、その口から語られる横山の恋の相手が、自分であるという気がしない。そばにいたいとか、触りたいとか――キスしたいとか、そういう、好き。横山が、オレと? 横山の周りにたくさんある選択肢の一つに、『自分』が存在していたことが信じられないのだ。地上にいる自分が、翼を持つ横山に恋い焦がれるのとは、訳が違う。
横山は、眉尻を下げ、一瞬唇を引き結んで、
「何でやねん、それ本気で言うてんの?」
どこか寂しいような、ほんの少し怒ったような色を浮かべて言った――今、そんな表情をするのは、ずるい。そんな顔するなと、構って、甘やかして、いつものあの顔で笑ってほしくなる。そんな顔にさせたのは自分の癖に。
「……、」
周が何も答えずにいると、横山はふっとその表情を緩めて、それから周の前で正座を解いた。胡坐の横山の視線と、立膝の周の視線は、同じくらいの高さ。あのな、と横山が言った。
「オレは、周にめっちゃいろんなもんもろてる。自分一人やったら、どうしていいかわからんこと、ありすぎるもん」
「……何が、」
「オレ、やりたいことしかせえへんようにできてるからさ。それ以外は、どうしていいかわからん。学校のこととか、友達付き合いとか、勉強とか――勉強は、まあ、あんまりしてないけど」
「……できてるやん、そこそこ」
中学までに比べたら格段に。
「お前がおるからや」
横山が間髪入れずに言った。振りでいいからちゃんとやれや、と言ったのは、周だ。
え、そういうことなん?――と周は思った。横山が、なぜか周のいうことだけは素直に聞く不思議。その底に、周への想いがあったとしたら。だってそれは、――今に始まったことと、ちゃうやん。それこそ、ずっと前から――。
「ほんまは、お前だけおったらそんでもええんやけど、それはあかんて言うやろ? そやから、友達も大事にしよて思うし――とにかく、お前がおったら、オレ、ちゃんとせななってなる」
「どこがちゃんとしてんねん、火傷ばっかりしてるくせに」
横山の言葉を信じたい自分と、やっぱりあり得ないと疑う自分、そしてなんだか無性に恥ずかしい自分――周の中でせめぎ合って、つい、茶化したようなことを言ってしまう。
すると横山は、一瞬、ン、と詰まって――言葉を濁した。
「……、それ、は、さあ」
「……、なんやねん」
「……だって、さあ」
言葉を発する毎に、横山の視線がずれてゆく。目が泳ぐ。見る間にその顔が、耳が、赤くなっていく。照れている――のか? 今の話のどこにそんな要素があるのか。横山はほんの一瞬俯いて、それからちらりと上目遣いで周の顔を見て、意を決したように言った。
「……、心配、してくれるやん」
「……、は? そらするやろ――」
「そやし、――めっちゃ心配してくれたやん幼稚園の時とか」
――ようちえん。幼稚園?
「いつの話持ってくんねん!」
横山の話がつかづ離れず方々に飛ぶのはいつものことだが、これは斜め上もいいところだ。
横山はやはり恥ずかしいのか両手で顔を覆って言い募る。
「触ったらあかんで、とか濡らしたらあかんで、とかずっと言うてくれてさ、砂場行かれへんから一緒に教室で絵本読んでくれてさあ。親にかてそんな構ってもらってないのに。そんなん、惚れるに決まってるやん!」
砂場、教室、絵本、それで鮮明に思い出す記憶――横山の右手首にまかれた白い包帯。たけるくんどうしたん? あの頃幼稚園に送り迎えしてくれていたのは祖母だった。だから聞いた相手は祖母だ。ヤケドしはったんやって。ヤケドていたい? 痛いかもしれへんなぁ、お薬塗ったはるんやわ、治るまでやさしいしたげてな――。
幼稚園に入る前に引っ越してきた周には友達がいなかった。遊び相手は祖母の家で飼っていた雑種の小型犬『牡丹』。幼稚園で出会った横山は、人懐こくて無駄吠えをせず、やたらと走り回ってひとときもじっとしていない、何を考えてるかわからない――牡丹に似ていると思っていた。周にとって小さい牡丹は可愛くて目が離せない、守るべき存在だった。だから祖母から『優しくしてあげて』と言われたら、そうするのが周の役目だ。うん、やさしいしたげるわ――確かにあの頃から横山は、周の言うことはおとなしく聞くようになった。そしてそのまま、小学校へ上がり、中学生になり、高校二年の今でも。
「……、ええー…、幼稚園、て、……」
驚いていいのか呆れるべきなのか、戸惑いと一緒に湧いてくる、胸が騒ぐようなこの気持ちは何だ。
幼稚園からなのか――横山の、そういう、想いは。
「どうせ、お前は忘れたやろうけど」
「いや、……や、覚えてる、けど。……ほななんやねん、お前がしょっちゅう火傷したりアホなことやらかすんは、オレのせいか」
心配してくれるから、構ってくれるから――つまりそういうことじゃないのか。周が問うと、横山はパッと両手を下ろし、子どもがむずかるような顔で口先を尖らせ、
「ちゃうやんそうじゃなくてさぁ……、いや、もう、ええわ」
そう呟いて、かくんと項垂れた。
「……、拗ねんな」
「拗ねてへん」
「顔上げえ」
「もうええ」
「たける、」
思わず口をついて、そう呼びかける。さっき横山が――健琉が周の名を呼んだのも、もしかしたら同じ気持ちだったかもしれない。
胸の奥の方から自然に湧いて、溢れて零れてもうどうしようもないもの。それはただ愛しいという気持ち――自分の中にある感情は、疑いようもない。応えたい。打ち明けたい。気付かない振りは、もう必要ないと思った。
目の前で俯く健琉の肩が、ピクリと揺れた。ライオンのたてがみのような健琉の髪に額を寄せて、もう一度名を呼ぶ――健琉。口にするたびに体温が上がる。
「……、」
「ほな、オレずっと一緒におって構ったるから、もう火傷なんかせんといてくれ」
「……、」
「健琉が怪我して、不自由そうにしてんの、イヤなんや――心配すんのがイヤなんちゃうで。オレは、なんも縛りなしで好き放題やってるお前が好きやから」
絶対に打ち明けることはないと決めていたその言葉は、思っていたよりも自然に言えた。
健琉の頭が、のそりと持ち上がる。どこか思い詰めたような熱を孕む目で、健琉はまっすぐ周のそれを見た。熱は一瞬で周に伝わって、静かに周の胸を満たす。
「……、もっぺん、言うて」
健琉の声が、少し震えた。いつだって堂々と胸を張って周が想像もしないことをやらかす健琉でも、――緊張することて、あるんやな。胸の奥から熱が溢れて言葉になる。
「オレは、健琉のことが好きや。あのとき言うたオレの好きな人、て、お前のことや」
「ほんまにか?」
健琉の顔が、ぐいと近づく。
「ほんまや」
「嘘とちゃうんやな?」
周の立てた膝に、健琉の両手が掴みかかる。焦った顔で言い募る健琉は、なかなか珍しい――ちょっと楽しくなる。
「ちゃう。オレのことはわかるんちゃうんか? 愛やろ」
「わかるわけないやろ!」
「ふ、そやろなあ」
思わず吹き出す。言っていることが無茶苦茶だ――けれど健琉は、意味のない嘘はつかない。愛だと言い切ったそのまっすぐな気持ちは、真実なのだと今はわかる。
幼稚園からずっと、なんて、そんな気配はおくびにも出さずに――少なくとも周は全く気づかなかった――しれっと十年越しの気持ちを打ち明けて、おまけにこの先も『どうしたって好き』だから離れるつもりなんてないと言い切る健琉に比べたら、気付かなかった、気づかない振りをしようとした、大事なものだから、大事なものなのに、手放そうとしていた自分はまるで、
――アホみたいや。
*
ああもう、と唸るような声を上げて、健琉が周の膝頭、の上の自分の両手に、額を押し付けた。その重さが心地いい――そうか、こういうんももう、別に隠さんでもええんやな。ちょっと不思議な気分になる。
「めっちゃ怖かった……」
「お前でも怖いことなんてあんのか」
「あるわ! そうなんかな、て思ったのもほんまに今やし、そやから言うてしもたけど、周からハッキリ聞かなわからんもん。オレと違う他の人やて言われたら、死んでまう……」
「大げさや」
だがその安堵の分だけ健琉の緊張が知れる。こんなことならさっさと打ち明けていればよかった、なんて思えるのは、今この結果があるからだ。なにしろたった十分前までの周は、『健琉のために』この気持ちは秘密にしなければならないと思っていたのだから。ほんま、アホみたいや。
自分が心配するのはいいが、健琉に不安な思いをさせたくない。ごめんな、と言いはしないがなんとなくそんな気になって、周は目の前にうずくまる健琉の頭を、ポンポンと撫でる。
「……、」
それを合図にしたように、健琉がゆっくりと顔を上げた。
膝の上の指先に、ほんの少し力が入る。健琉の目は、真っすぐ、ただひたすら周のそれだけを見つめていた。
ドクン、ドクン、ドクンドクン――膝から伝わる律動は、周自身のものか、それとも健琉か――両方、かな。どちらのものとも知れず次第に駆け足になる鼓動が、きっとお互いの身体中を駆け巡っている。
胸のあたりが詰まったように苦しくなって、は、と小さく息を継ぐ、けれども目は離せない。そういえば――してみたい、とか、言うてた、な。魅入られたように見つめ合う、健琉の両手がはじけるように周の膝から飛び立つ、そのまま周の肩をぐっと抱き寄せて、
「……!」
次の瞬間にはもう、互いの唇が触れていた――正確に言えば、歯と歯、唇と唇が。
「い……っ」
「…ん、ごめ、」
ガキ、という音は、きっとこの場には相応しくない――が、その言葉は、お互い顔を寄せたまま。一瞬離れて、今度は静かに、そっと重ねる。
乾いた皮膚が次第に熱を帯び、潤っていくのがわかる。自分がそうだとは思わない、ただ相手の――健琉の変化がどうにも気持ちよくて、離れられない。指先の熱を持て余し、
「ん、」
一瞬空を掻いた手が健琉のシャツの襟を掴んだ。自分の唇に触れる健琉のそれが形を変える――笑ったのだ、たぶん。
ずいぶん長い間そうしていたような気がする。
――どうしたらええんや、これ……。
周がふっと意識を逸らした、その瞬間――窓の向こうから聞こえる、甲高い悲鳴のような、子どもの笑い声。
夕方になって気温が下がってきたからか、外で近所の子らが遊び始めたのだろう。健琉の家の前には大きな公園がある。
「……、」
「……、」
それで気が削がれた、という訳でもないのだろうけれど――健琉が、ちゅ、と音を立てて周の唇を啄み、それから、肩に置いた腕の長さの分だけ、身体を離した。
思わず、あ、と声が漏れる。
こんな季節なのに途端に寒いような寂しいような、物足りない気分になる――って、何を考えてるんや、オレは。急にいたたまれなくなって、顔を隠すように俯く。顔も耳も首筋も――体中が熱い。物欲しそうな顔をしていない自信がない。
頭の上で、健琉が笑った。
「結構難しいなあ。はは、歯ぁだけに」
その言葉に、思わず脱力する。
――こいつ、もうちょっと、なんかこう…。
余韻だとか情緒だとか、そういうものを楽しむ余裕は周だって持ち合わせていないけれど、健琉の態度はあまりにも普通で、うっかり雰囲気に飲まれそうになっている自分が逆に恥ずかしくなる。周は大きく溜息を吐いて、
「……ガッつきすぎやねん」
こちらもなるべくいつも通りを装って顔を上げる――と、そこにあったのは、言葉とは裏腹に、照れたように頬を染め、けれどももっと欲しいと訴えるような潤んだような目をした健琉の顔。
「……、もっかいしていい?」
健琉がその顔を寄せてきて、囁くように言った。途端に、周の心臓がドッと音を立てる。
「……も、ちょっと、今日はあかん、もう」
身を引いても背中が壁にぶつかるばかり。これ以上逃げられないことはわかっているのに、どうしても腰が引ける。
「なんで」
「なんでも!」
これ以上続けたら自分がどうなってしまうかわからない。だがそう答えてしまうと、なんだか自分ばかりがこの状況に対応できていないように思えて――なんか悔しい。だから無理やり切り上げた。
健琉は、ん、と一瞬考えるように視線を放り投げて、やがて尋ねた。
「……今日はあかんて、今度があるてこと?」
――ほんまに、こいつは。
こんな顔で見てくるくせに、態度も言うこともいつもと変わらない。
お互いの気持ちを打ち明けて、キスをした――それはきっと特別なことだ。けれど健琉にしてみれば、この状況はこれまでの日常の延長線上にあるのだろう。ずっと好きでいてくれた、そしてこれからも――それならきっと、自分にとっても。周はすうっと息を吸って、吐いて、言った。
「……、ずっと」
「?」
「ずっと、一緒におるんやろ。ほな、今度かて、あるんちゃうん」
「!!」
健琉の目と表情が、パッと輝いた。眉尻を下げて、へらっと笑う。いつもの――これまでも、これからも、周が大好きな笑顔。自分が身を引く、なんてかっこつけた振りをして、危うく手放してしまうところだった――何考えてたんやろな、オレは。
*
周のすぐそばから離れたがらない健琉を何とか元の居場所に戻して――埒が明かないので正直に言った。お前は知らんけどオレはめっちゃドキドキしてんねん、今日はもう無理、心臓がもたへん!――健琉は、ふうん、と一瞬勝ち誇ったような笑顔を浮かべて、ほんならしゃあないな、と戻っていった。やっぱり健琉は周の言うことは聞く――、何とかもう一度教科書とノートに向かってみたけれど、今はもうこれ以上、問題に手を着けられる気がしない。
顔を上げると、向かいに座る健琉はノートの上に肘を乗せ、両手で頬杖をついて、あの笑顔、というよりは完全にデレた顔で周を見つめている――こっちもあかんな、今日は。勉強やる気ないんは今日だけちゃうけど。
「……その、しまりない顔どうにかせえ」
この状況に浮かれているし、顔が熱いような気がするのは自分もそうだが、そこまでニヤけてはいない、と思う。
「無理無理。オレ今めっちゃ嬉しいもん。周もやろ」
知ってんで、といった調子で健琉が言うので、一瞬言葉に詰まって、思わず笑って、
「そら、まあ――、うん」
と答えると、健琉は満足そうに、ん、と頷いた。
それから急に神妙な顔つきになって――できるんやんか――、言った。
「――周はさ、さっき自分のことパンダやとか言うたけど、ほんまは、てほんまも嘘もないけど、モテてるんやで」
「……、は? 何、急に」
唐突の話題――あまりピンとこない。パンダがモテるとしたら、それは、
「珍しいからやん?」
「ちゃうて。一年の終わりのソレもそうやし、今のクラスだってさ。だからオレじゃない他の誰かを周が選ぶこと、普通にあるなって、心配? 違うか、覚悟、か。してたから。だから――オレ、今めっちゃ嬉しいねん。オレが、どんだけ嬉しいかっていう話」
体質的に、周が他の誰かを選ぶことなど絶対にないのだと――言うてないな、そういえば、と周は気付いた。が、今それを説明するには、時間も体力も、気力もない。その話になればきっと避けて通れない件もあるし、さすがに今は――無理。
「……、ん」
自分が選ぶ選ばない、というのは別として、健琉が言うならそうなんだろう、なんて納得できる話でもないのだが、健琉が嬉しいなら、まあいいか。周は曖昧に頷いた――だけど。
「……けど、そんなん言うたら、お前の方やし」
「何が?」
たった今自分が振った話題のくせに、健琉はぱちぱちと目を瞬かせている。
「だから……、モテる、いうたら、お前の方がそうやん?」
中学まではさておいても、高校に入ってからは確実に、健琉の周りにそういう空気が漂っていることを、周は知っている。アホな部分を差し引けば――残念なことにそれがほとんどではあるのだが――、人懐こいし、顔もまあ悪くないし、運動能力は高いし、ごく普通にいいヤツなのだ。しかし当の健琉本人は、
「そんな物好き、――周くらいやん」
と言って笑った。今だから言える冗談だ。オレは物好きか――自覚はあるから言い返しはしない。
「けど、さ。お前がウチのクラス来ると、なんか……女子がざわつくし」
周がそう言うと、健琉は、ああ、な、と訳知り顔で唸って、
「あれはさあ、ちゃうやろ」
「なに、」
「なんていうか……あれは、オレがお前にちょっかい出すんが好きな層、ていうか、気にしてる界隈、というか」
「は?」
「そういうの、好きな人多いやん。誰と誰が付き合ってるとか、誰は誰のこと好きとかさ。勘が鋭いからそういうのすぐ気づいて、噂になったりとかしてさ」
「は、え、……?」
一瞬、気が遠くなった。それはつまり、健琉が周を、もしくは周が健琉を――そういうアレ、て、皆知ってるって、こと、なん?
「ちょっ、と、待て何それ」
「ウチのクラスでも応援されてんねんオレ」
「待てって、だからそれどういう」
「さっきの、その――去年の委員の、あの人がさ。お前に告白したとか、同じ大学がどうとかいう話があるけどって、うちのクラスの女子が教えてくれたんや。あんたらどうなってんのって怒られたし」
「……何で怒るんその人……」
あんたら、ってなんやねん、とか、その話はどこから聞いてん、とか、ツッコミたいところはいくつもあるのだけれど、それ以前に、自分を――自分と健琉を取り巻く状況について、理解が追いつかない。いやむしろ、脳が理解することを拒否している。
「そやしまあ、概ね公認や」
「……、もうええわ」
思わず脱力してテーブルに突っ伏す。
脳裏を、いわゆる『公認』と呼ばれている何組かの姿がよぎる。
周も知っている程度にはオープンに交際する彼らは、手を繋いでいた程度では冷やかしの対象にもならないが、時々校内、あるいは学校帰りの制服姿で羽目を外しているらしい噂も耳にする――はっと気がついて、周は身体を起こした。
「お前さ、公認とかって、なんぼなんでも学校でおかしなことすんなよ?」
「おかしなことてなんや」
言って、聞かれて、初めて気づく。手を繋いだ程度では冷やかしの対象にもならない――よく考えたら健琉はもともとスキンシップが過多だ。座っている後ろから頭にのしかかる、肩に手を置く、背中に触れる――そもそもそれは周にだけ、というわけでもない。だったら今心配した、おかしなことって――なんや、なんやろ。
「……、その、だから。さっきの……、とか」
言外に伝える――キス。瞬間、健琉が吠えた。
「せえへんしそんなん! なんでそんなもったいないことせなあかんねん。お前のキス顔なか誰にも見せへん!」
キス顔――見たんか、顔を。ついでにさっきの感触をまた思い出してしまって、一瞬で血が頭に上る。
「胸張って言うなや恥ずかしい!」
「――心配、せんでもええて」
不意に健琉が――いつものあの顔で、へらっと笑った。思いのほか優しい声で、途端に毒気が抜かれる。
「……、何が、」
「オレも、周も、ずっと『そう』やったんやし。今までも、明日からも――別になんも、変わらんのちゃう? 最初からずっと――特別、ていうかさ」
そう言って、自分と周の間を指で示す。今までも明日からも変わらない、当たり前の日常、その上にある、特別。
「……、そう、かな。そうやな」
「うん」
周が頷くと、健琉がまた笑う。
当たり前と思える日常は、互いの想いが重なっていたからこそこの形になった。
当たり前だけど当たり前じゃなかった自分たちは、特別じゃないけど、特別な二人になる――なんて、ちょっと恥ずかしいことを考えてしまう程度には、周も浮かれているのだった。
*
七月最初の金曜日、その昼休み。
今日の川島の昼食は相変わらずの総菜パンと五百ミリ紙パックの乳飲料、周は昨晩の残りの肉野菜炒めである――朝のうちに調味料を混ぜた液に付け込んで晩は焼くだけ、と祖母から教えてもらった、本当はもっとそれっぽい名前がついていたはずの料理だったのだが、メモしないうちに忘れてしまった。
何しろ昨日の放課後は、結果的にアレがソレだったとしても――まともに思い返すと気持ちを持っていかれて試験勉強に身が入らないので、今はふんわり蓋をしてある――、精神は上下に揺さぶられて大変だったから、夕食のメインは焼くだけでいいように準備をしていた自分を褒めた――珍しく。ほんまに昨日の朝のオレは、偉かった。
試験も終わらないうちから夏休みの話をしつつ弁当を食べていると、不意に教室内の喧騒の種類が変わって、それと見ないうちに横山が――健琉がやってきたのを悟る。後ろのドアから入ってきて、周の背後から近づこうとしているのは、そっちに顔を向けていた川島が、お、と声を上げたから気が付いた。何かしてるんやろなあ、と思っていたら案の定、
「ちょお、もう、言うたらあかんて。シーて、したやん」
人差し指を口の前に当てて、健琉が――横山がひょこと顔を出す。
昨日はつい勢いで、健琉、と呼んでしまったが、一夜明けた今日、周は『これ』をどう呼べばいいのか決めかねていた。周の方も、朝の通学時から名前では呼ばれていない。
特に気まずいということはない、いつも通りの朝――に、ほんの少しの照れくささ。お互いに、名前を呼ばない程度の、けれども端々にこれまでなかった色を乗せた会話。『昼休み、行くしな』なんて、今まで言われたことがない。その言葉にちょっとドキッとして、変に嬉しくて――昨日まではこんなこともあかんと思ってたんやな、なんて、考えたりした。
むしろ気まずかったのは、今朝自分の教室に入ったときと、それから――たった今、空気が変わった瞬間だ。いくら目敏いからって、一番近くにいる自分でさえ気づかなかった『これ』のそういう感情を見ぬいていたなんて。自分のそれが漏れていたとは、思いたくない周である。なるほどいかにも野生のハンターじみていて、川島の言う『動物園』も、分からなくはない――むしろ『サバンナ』や。
「鼻に指突っ込んで何してんのか思たわ」
「はあ? せえへんしそんなん!」
川島との会話も相変わらず、
「おっ美味そう、肉」
「肉はあかん、トマト」
周の弁当をつまむのもいつも通り。ほんの少し響きの違う、小波のような教室のざわめきも、昨日までと変わらない――ごく当たり前の昼休み。
細いストローをくわえながら、川島が言った。
「――ほんで、自分らは仲直りしたん、昨日」
「仲直り? 何が?」
指に着いたソースを舐めながら――もうええわ、オレがそう呼びたいんやし――健琉が言う。周もそろって川島に疑問符を投げると、
「や、なんか。昨日さ。横山が教室戻ってから、アレやったやん、中田が」
「アレて、なに」
「雨の中に捨てられてる犬みたいな顔しとったから、なんかあったんかなて」
周のことをまるで『かわいそう』の代名詞みたいな表現で言う、それはもしかしなくても昨日の昼休みのことか。思い当る節があるだけに、かっと顔が熱くなる。横で健琉が、
「えっ何それ」
と目を輝かせている――嬉しそうな顔すんな、と肘で健琉の脇腹を突くと、健琉はひゃ、と変な声を上げ、
「やっ、別に? 仲直り、とか、ないで。今までどおりや、なあ周」
そう言って笑った――『周』。
川島は細い目を見開き、おっ、と呟いた。それから訳知り顔で頷いて、
「そうかそうか、良かったな」
「……、え、何」
川島の態度には多分に含みがある。それに気が付く程度には、周だって洞察力がある――つもりだった。
乳飲料のパックを机において、あのな中田、と川島が言った。
「オレらを代表して言うとくんやけど、お前以外にこのアホの相手できるヤツおらんから。ほんまに良かったって思ってるから。そこは、自信もってくれ」
「え、え、……何?」
オレら、お前ら――川島の言葉の意味が――一瞬咀嚼したらなんとなくわかりそうな気がして、冷や汗が出てきた。健琉が、あはっ、と弾けるように笑い、
「そうかー。ほら、だから言うたやん。概ね公認やて。あ、オレは何も言うてないで」
周に向かってそう言った。その隣で川島が頷く。
「オレらも、何も聞いてないけど。そこは、なあ」
「……、」
それは、つまり――サバンナに住む野生のハンター、ではない川島たちにさえ察されていた、ということ、なのか。
「え、嘘やろ……」
ハハっ、と川島が笑った。
「……、」
信じたくない。よしんばバレていたとしても、それは健琉だけだと思いたい――周が気づけなかったのは、それはまあそれとして。自分は隠せていたと思うし健琉だって気付いていなかった、それなのに友達やクラスの人には気付かれていたなんて、いたたまれないにもほどがある。いつからか、二年になってからか、それとも、周自身が自覚するよりもっと前からか――、
「……恥ずかしい、消えたい」
箸を置いて両肘をつき、顔を両手で覆って思わず呟く。
「そんなん言いなや。違和感ないていうか、自然ていうか、なんかもう、それが当たり前って感じやで。アホの横山とカシコの中田、で完成形ていうかさ」
おそらくパンをもごもごと頬張りながら、川島が言っている。川島も、それから海原と宮川も――誰かや何かをバカにしてからかったり、腐したりはしない。健琉と周のことも、きっと本当に、良かったと思ってくれているのだろう。恥ずかしい――が、それはそれで、嬉しい。
不意に、トントンと肩を叩かれる。健琉なのはわかっていて、何かしようとしているのも明白で――けれど、ここへ来たら振り向かないのも逆に不自然だ。もうええわ。両手から顔を起こし、
「なに、――……、」
振り向いた途端、待ち構えていた健琉の指先が、頬に刺さる。ほらな――その指の向こう側には、健琉のいつもの、眉尻を下げた笑顔。しょうもないことを本気でやる、心底楽しんでいる、健琉のアホの本領発揮だ。
「だから、別に何も変わらんて。今までどおりやし、な。周」
健琉が言う――何も考えていない、ようでいて芯にはちゃんと揺るがないものを持っているその底抜けの笑顔を見ていたら、
「……、はあ、そうやな」
バレているとか噂の的になっているとか――そんなことは、どうでもよくなってしまった。すうっと息を吸って、吐いて――周の心が乱れたとき、たいていいつも健琉がそばにいて、周はそれで落ち着きを取り戻すことができる。
誰に知られようが、知られまいが、周が健琉のことを好きだと思うのは、やっぱりごく自然な気持ちで、健琉の言うようにそれは、今まで通り、当たり前のことなのだ。恥ずかしいのは、皆が気付いていたらしいのに、一番近くにいると思っていた健琉の気持ちはおろか、自分自身の本当の気持ちにさえ気づけなかったから――自信を持てと川島が言ったのは、もしかしたら自分自身よりもよっぽど、周のことを見抜いているのかもしれない。
自信を持つ。自分を信じる。翼をもつ健琉が、数ある選択肢の中から周を選んでくれたのなら、――翼が無くても一緒に飛べたらええんや、オレが――なんて。
どちらかと言えば何事も保守的な方の周にしては、珍しく前向きなことを考えて、思わず、ふ、と笑う。目の前の健琉が、それこそ何もわからずに、それでも満開の笑顔を返してくる。前の席に座る川島は、何も言わずにストローをくわえている。
昨日までの当たり前が、昨日までの気持ちを重ねて作られていたのだとしたら、今日からのそれは今日からの気持ちを重ねて作られていく。
明日も明後日も、その先もずっと――今日はその、第一歩だ。
(了)